陸
翌日、玖廬に近しい男が、古瀬丸の父を呼び寄せた。
璽師の使いだという。那岐邑では皆が、父の人間性を知っていたから、生きては戻らないだろうと口々に囁いた。古瀬丸は野草を取りに行って、未だ帰ってきていない。邑人の視線があわれを物語っているようで、汗を滲ませた父は、自然と足取りも重くなっていった。
日は温かく、風は草を揺らしているが、気休めにもならない。
「早う歩けよ」
と、男が言う。父の視線は海津屋に向けられていた。海様を祀る海津屋が焼けたときは、璽師も死んだと喜び勇んだが、それが早計だったと分かると、喜びは深い恐れに転じた。女が、と父は呟いた。男がこの有様で、那岐邑はどうなってしまうのだろうか。
「すまんのう」
「なぜ謝る」
「海津屋を燃やしたのは儂らだ。海様ではないんじゃ」
男は申し訳なさそうに言った。
父は憮然としたが、玖廬の豹変ぶりや海津屋が「燃えた」ことから、虚言とは思わなかった。海様ならば璽師を波に押し流すだろう。玖廬が璽師を殺そうとして、火を放ち、失敗に終わった。璽師はそれを逆手にとって、海様よりも上に立つ証拠としているのだ。罰当たりな、と父は考えた。璽師を殺すために海津屋を燃やすとは、海様への恐れも忘れたのかと。
璽師は昨日と同じく、男岩に佇んでいた。
男岩も那岐邑では女の立ち入りが許されない場所だ。男たちは男岩から海を眺め、魚群を探し、舟を繰り出す。那岐邑の男が生業とする漁のための場所であり、当然、男だけのものであったはずだ。
「何も感じないのか」
「お前と同じだ」
「璽師め」
「そう思うなら直接言え。ほら、璽師様が待っておるぞ」
父は男岩を登ると、璽師に相対した。
怪しげな呪具を持つ璽師が、父には思考の届かない者に見える。
「古瀬丸の父か」
璽師は言った。
「志摩夫と申します」
「名前などはどうでもいい。お前は古瀬丸の父なのだろう」
「はい」
古瀬丸の付属物としての父に用があって、志摩夫には興味がない。璽師は暗にそう仄めかしているのだと、父は気付いた。昨日、古瀬丸と璽師が何を話していたのだろうか。海津屋が焼けたときも、古瀬丸は璽師が生きていると知っていた。
「頭が高い」
璽師に言われ、父は膝を折った。
木製の仮面や竹で編んだ被り物は、海津屋と共に焼失したため、璽師は素顔を晒している。切れ味鋭い逆剣も今は所持していなかった。血を伴う武器を持ち続けるのは、呪い人に連なる璽師にとって忌諱すべきことなのかもしれない。父の目は、刃ではなく式盤を握る璽師の手に向けられていた。
女が、という意識が膨らむ。素手なら男の力で屈服させられるのではないか、と父は思ったが、手を伸ばした璽師が有無を言わさぬ力で頭を地面に押し付けた。抗おうとしたが無理だった。荒波を櫂だけで渡り、海中の大魚を吊り上げる漁夫が、都府の白い手に屈服してしまう。男岩の鋭利な凹凸が額の皮膚を擦り、血が滲むのを父は感じた。
璽師様は恐ろしい御方だ。日頃、声にしていた言葉が甦る。
「女は犬畜生と同じ、殴って言い聞かせる、ではないのか」
「そのようなこと思ったこともありません」
「そうか。皆が口々に言っていたが、嘘だったか」
璽師は鼻で笑うと、父から手を離した。額から滴る血が左目に入る。父は璽師が自分の心を読んだと思い、背筋を凍らせた。剣を持たない璽師を侮り、手を出したらどうなっていただろうか。古瀬丸の父は、璽師ほどに人を殺すことが得意ではなかった。
殴ろうとすれば殴られ、組み伏せようとすれば投げられ、男岩から墜死しただろう。海に落ちるのではなく、波が洗う岩肌に頭から落ちて。踏み止まったから額の傷だけですんだのだ。父の思考力は麻痺していて、璽師に殺される想像だけが今の呼吸を乱していた。
奇妙な男だ。璽師は父を見て思った。
女を蔑むのと同時に女を恐れてもいる。璽師は邑の者から、古瀬丸の父がどのような性格をしているのか、それとなく耳にしていた。害を為すなら手を打つべきかと考えていたのだが、那岐邑の誰よりも璽師に従順なのは、今までの遣り取りでも明らかだった。古瀬丸のほうが余程骨がある、と思うほどに。
「今日は古瀬丸の父に用がある」
「どのような」
「舟と古瀬丸を、我に預けてほしい」
それは意表を突いた申し出だった。
一日で良い、と璽師は父に言った。那岐邑に来た理由は鯨を狩ることであり、卜占によって吉日を選んだとしても、舟と漕ぎ手がいなければ海に出ることも叶わない。
古瀬丸の父は、璽師の言葉に瞠目した。
鯨は狩る魚ではない。那岐邑の漁民でも、鯨とは浜辺に漂着するものであって、海に繰り出し銛を打つ対象ではなかった。そのような真似をすれば、死ぬだけだ。璽師は漁を知らず、海にも詳しくないから、「鯨を狩る」などと言えるのではないか。父は漁民であるだけに、常軌を逸した目的に唖然とした。
だが、鯨を狩るのなら、望み通りにすればいい。
「丸のことであれば、璽師様に喜んで従いましょう」
「そうだな。あの子は賢い」
璽師は懐から金子を出した。
「納めよ」
都府であれば、半年分の米穀と交換できる大きさだ。大王の世では、金が産出される山はまだなく、東夷の砂金師か国外の商人がもたらすものに限られていた。金の価値を知る父は、受け取ると、額が再び岩に当たるまで頭を下げた。
父は璽師の申し出を承諾した。
その後、父を男岩から帰すと女は玖廬を呼んだ。玖廬に命じ、海津屋を再建させるためだ。海津屋は粗末なもので構わないが、海様と大王への敬意を忘れないよう心を砕け、と注文する。今、那岐邑で璽師に逆らう者はいないだろう。だが、次代に同じことが繰り返されれば意味を成さない。それは璽師にとっても那岐邑にとっても不幸なことだ。
鯨狩りに際しては、身を清めるために籠もる小屋が必要だった。璽師は呪術に通じ、朱を集めることは祭祀の一つでもあるからだ。今からでは間に合わないので、代わりとなる住居を選ぶことにした。それは海にほど近く、誰も住んでいないという理由で、汚彦の住居に白羽の矢が立った。
後は、日時を選び、備えをするだけだ。
「玖廬よ」
璽師は玖廬を呼び止めた。
「はい」
「夜に海を見ていると、青く光るものが幾つも見えた。あれは何であろうか」
「邑では海様の灯火と呼んでいますが、実際は、小さな烏賊が光っているようです」
「やはりそうか」
璽師は自らの推察が正しかったことに満足した。海様の灯火の正体が烏賊であるなら、その光に誘われて鯨が現れるのは道理に適ったことだ。鯨は海を覆う烏賊を飲み込むために、那岐邑の近くを遊泳しているのだろう。
式盤が吉日を指図している。
頃合いも、今以上に良くなることはないと璽師は見た。
「玖廬よ」
「はい」
「今日明日は家に籠もらねばならない。鯨を、狩るために」
「鯨をでしょうか」
「そうだ」
「鯨を狩るなど容易なことではないと存じます」
玖廬は控え目に「容易なことではない」と言ったが、古瀬丸の父と同じく、璽師の言葉に我が耳を疑った。ウツボ獲りの名人である玖廬でも鯨に手を出す勇気はない。
玖廬はかつて、十里ほど西に行った邑での出来事を思い出した。その邑では不漁に喘ぎ、生きるか死ぬかの瀬戸際で鯨を狩る決意をしたのだ。しかし、手練れの漁師が総掛かりでも荒ぶる鯨を仕留めることはできず、海に落ちた漁師は次々に海の奥底へ沈められた。海岸に打ち上げられた水死体は、内臓が口から吐き出されていたという。
璽師は玖廬の感情を読み取っていた。
「鯨狩りは我一人でする。気に病むな。玖廬には海津屋の再建と、大王への忠誠を子孫に伝える役目を全うしてもらいたい」
「承知いたしました」
「去れ」
璽師に言われ、玖廬は木の葉のように男岩から立ち去った。
空に雲は疎らで、穏やかな海が青い。衛士と共に那岐邑を訪れたときは、真綿のような雲に覆われていたが、女の璽師が男を傅かせると天候までが逆転したようだ。璽師は黒衣の中に隠していた逆剣を取り出す。巧妙に剣を隠したのは、古瀬丸の父の性根を見極めるためだった。
呪術師の剣は左手で扱うために「逆剣」と呼ばれている。代々の璽師が受け継いだ逆剣は、漢の錬鉄工が鍛えた業物だ。片方は鋭利に研ぎ澄まされ、片方は鋸状の歯がついている。歯は毒を染み込ませるためのものだ。突けば鋭利な刃で肉を貫き、鋸の歯に塗られた毒が肉を腐らす。呪術師に相応しい剣であるが、璽師はこれを「棘」と名付けていた。
海津屋に籠もり、身を清め、鯨を殺す毒を剣に塗り込める。
璽師は男岩を降りた。
その足で死んだ長老の住居へ向かう。土手で土師壷を作っていた女らが、璽師を目にして一様に顔を隠した。女を蔑む風習は、男にも女にも受け継がれているのだろう。そのようにして守られた秩序の視点からは、誰にとっても璽師は「異物」であった。璽師の女を見る目は冷ややかで、そのまま無言で通り過ぎると海津屋の焼け跡に立ち寄った。
焼け跡には璽師が持参したものが残っていた。多くは燃えてしまい、用を為さないが、薬器は土器と鉄で作られているため無事だった。仮面などの呪物は焼けたが惜しくはない。韓風の持ち運びできる竈と、幾つかの鉄瓶を取り出すと、璽師は安堵したように目を細めた。竈は毒を煮るために必要だったし、鉄瓶には山蛇の唾液や砒素が入っている。
長老の住居に入ると、古瀬丸が待っていた。
携えている駕籠には草や鮮やかな茸が入っている。
「採ってきた」
「上出来だよ。これらは毒だから、手を洗っておいで」
璽師に言われ、古瀬丸は隠し持った茸を慌てて手放した。後で食べるつもりだったのだろうが、食べていれば運次第で死ぬこともありえる。古瀬丸は住居を出ると、水桶で手を洗った。戻ると、璽師が持ち主のない皿を並べ、毒茸や毒草を選り分けていた。古瀬丸が集めたのは毒芹、附子、石楠花の葉、紅茸などだ。
璽師は米を竈で煮ながら、それらを混ぜ、練り合わせていった。意味の聞き取れない呪い言葉が、澱みつつある空気と共に、古瀬丸の顔を歪めさせる。
「古瀬丸よ、今日はもうお帰り。毒気は、子供が吸うものではないから」
「分かった」
「近々、鯨を狩りに行く」
古瀬丸は無言で、璽師の横顔を見詰めた。
「その時は、真夜中になるだろう。舟を出す手筈は整えている。鯨狩りは璽師のしきたりだから、邑の手は借りない。我を疎ましく思う者どもにとっては吉報と言えるであろうな」
「誰が舟を漕ぐんだ」
「お前だよ、古瀬丸。父にも伝えてある」
璽師は穏やかに言った。
古瀬丸が父に売られたと知るのは、自らの住居に戻ってすぐのことだ。璽師から与えられた金子で、飲みきれないほどの酒を得た父は、悪臭を放ちながら酔い潰れていた。母のことを思った古瀬丸は、怒りで目頭が熱くなってしまい、住居を飛び出し泣きながら走った。