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朱璽と鯨  作者: 浅丼健一
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 漁の段取りを決めるために玖廬の住居に赴いた父が、虚脱した顔で古瀬丸の元へと帰ってきた。

「璽師様は恐ろしい御方だ」

 古瀬丸には事情がそれとなく察せられた。聞き返すようなことはしなかったが、父のほうから話しだした。海様の祟りで焼け死んだはずの璽師が灰の中から黄泉がえり、海様を罰し、大王の徳を説いたという。父の顔色は恐れの青紫と、怒りの赤を乱高下していた。

 璽師は玖廬に命じて、大王に従わない者は漁に出さないと言わせた。大王に従うとは、まず璽師に従うということだ。女を蔑む那岐邑の男たちは、玖廬を顎で使う璽師に憤るかに見えた。話しても分からない者に、話して分からせようとする労を、璽師は厭う。玖廬には生殺与奪は璽師の思うがままだと知らしめていた。那岐邑の長老である限り、玖廬は璽師の走狗となって、海の理屈を通さないことに心を砕くだろう。

 海の理屈を最も尊ぶのは、古瀬丸の父だ。

 だが、璽師の視線を前にして、父は沈黙した。女を蔑み、憎悪に近い感情を宿した父は、その目で璽師の恐ろしさを見抜いていたのだ。弱いと知れば殴るも蹴るも躊躇はないが、強いと知れば貝のように閉じ籠もるのが性だった。だから古瀬丸が危惧したように、玖廬と仲間たちに誘われても父は放火に加わらなかっただろう。

 女は弱いはずだ。だが、璽師は海様よりも強い。

「丸、酒だ」

「酒はもうない」

 古瀬丸は父に殴られる覚悟で言った。

 父は古瀬丸を殴り倒した。困窮した暮らしで残された蓄えも僅かだ。今日食べる魚も、古瀬丸が夜釣りをして獲たもので、父が獲った魚は全て酒に消えていた。そうと気付かない父ではなかったが、殴ることでしか我意を通す術を知らないのだ。右頬を殴られて地面に倒れた古瀬丸は、血の味に身悶えしたが、それも次の拳が降るまでだった。

「丸、母が死んだのは俺のせいか」

 首を押さえて殴る父は、古瀬丸を醜さの捌け口にしていた。

「父は母を捨てるんじゃなくて、酒を捨てるべきだったんだ」

 古瀬丸は父の手を振り解くと、住居の入り口まで転がった。長い間飲み続けた酒が、父の運動能力を衰えさせていた。殺すことも手加減することも考えずに拳を振るう父が、空振りした腕に引かれて床に膝をつく。男を語る男の目に、男の気概を読み取ることができない。それが古瀬丸には悔しかった。

 璽師は女だが、女から逃げる父は男じゃない。

 古瀬丸はそう吐き捨てると、家を飛び出した。

 那岐邑はもう夕暮れから夜へと変わりつつあった。太陽の色が、陸海空を赤く染めて、雲と雲の隙間が大河のようだ。邑は璽師が生きていたことで重苦しい空気の下にあった。男は璽師が女であることに怯え、その様子に女子供は不安を露わにしていたのだ。

 璽師はどこに。男たちの前に現れた璽師は、玖廬や海津屋に火を放った男らを殺さなかった。古瀬丸が懇願したからではないと自覚していたけれども、結果に対して礼を言うのは誤りではないと思ったから璽師を探すことにした。璽師が寝泊まりするはずの海津屋は黒炭になったので、誰かの住居を間借りしているのかもしれない。

 古瀬丸は見掛けた邑の男に璽師の居場所を訊いた。

「璽師様がどこにいるのかなんて誰にも分からない」

「何でだ」

「恐ろしいからだ。古瀬丸は璽師様が恐ろしくないのか」

 男に問われて、古瀬丸は首を横に振った。古瀬丸の反応は男には虚勢と見えたようだ。男は頭を撫でると、お前の父が女嫌いだからといって璽師様に何かしようなどとは思わないことだ、と言った。海様とのしきたりが璽師に通じない以上、これを受け入れるしかないと感じている者も多いようだ。

 古瀬丸は男と別れると、那岐邑を走り回り、本当に璽師がいないのを確かめた。海津屋が焼失したのは昨夜だから、璽師にもまだ警戒する気持ちがあるのかもしれない。那岐邑のどこにもいないのであれば、璽師はどこに消えたというのだろう。

 古瀬丸は予感に導かれるようにして、海へと向かった。

 璽師様。

 男岩に黒衣の女が佇んでいた。璽師は落日を見詰めている。落日は、海も陸も等しく朱に染めるのだ。璽師は知っていたように、逡巡する古瀬丸に声を掛けた。都府の落日はどんなだ、と問い掛けると、璽師は仏の教えに戸惑う凡夫のように、都府には空がないと答える。

 嘘ではなく、宮で日々を費やす璽師の、心からの言葉だった。

「どうした、古瀬丸」

「ありがとう」

「なぜ礼を言う」

「今日は、誰も死ななかったから」

 璽師は微笑んだ。

「誰も死ななければ、我に感謝をするのかい」

「たぶん、それが一番良いと思った」

 子供の仕草の古瀬丸に、璽師は感情の手綱を緩めた。昨夜の、海津屋が燃えるのを二人で見てからのことを、女は考えていたのかもしれない。邑人を殺さないでほしいと言った古瀬丸に、璽師は厳しく道理を返した。玖廬や男たちを殺さなかったのは、恐怖と道徳を熟知させるためで、古瀬丸がそこにいたからではない。

 しかし、そこに古瀬丸がいなければ、玖廬や男たちは生きていないはずだ。

 璽師は古瀬丸の顔に痣を見付けた。

「これはどうしたのだ」

「転んだ」

「転んでこのような痣はできないよ。子供の浅薄な了見で、大人を甘く量るのは良くないことだ。このような痣が殴られてできるのを、我は知っている。誰に殴られたのだ」

「転んだ」

「父か」

「違う」

「古瀬丸の父が殴ったのだな」

「違う」

 古瀬丸は目に涙を溜めて否定した。

 父を想う子の気持ちが、璽師に伝わらないはずがなかった。それは都府の者でも那岐邑の者でも同じなのだから。だが、子を殴る父の気持ちは、璽師にとって闇夜で失せ物を探るようなものだ。正当な理由があれば良いのだが、と思わずにいられないが、古瀬丸の様子を伺うと、どうも事情は根深いようにも感じられる。

 古瀬丸のように賢い子供が父親に殴られるとは。璽師は痣を撫でながら、詳しく話を聴きたかったが、自制した。その線引きは怪しいものの、璽師として那岐邑に係わることはあっても、個人として他者に係わるつもりはないのだろう。璽師は鯨狩りのために来ている。古瀬丸の家の問題は、古瀬丸と父が、そして那岐邑の者で解決すべきだった。

 古瀬丸は涙を拭くと、これ以上訊かれまいと、璽師のことを尋ねた。

「璽師様は、ここで何をしているのだ」

 鯨狩りが目的なら、早く海に出て、早く都府に帰ればいいのに。古瀬丸でもそう思うが、璽師には璽師のしきたりがあるとらしい。海津屋が燃えて、璽師の持ち物の多くが失われたが、本当に大事なものは懐に隠してある。女が取り出したのは八角形の式盤だった。式盤とは、海の彼方で使用されている卜占の道具だ。八角形の八方向には吉凶に通じる文字が記され、北斗星の方角と自らの位置を照らし合わせるために使用する。

 璽師は式盤による占いを頼りに、鯨を狩る吉日を選んでいたのだ。大王の意による物事は、すべからく神事を装う。ただの紙、ただの文字が、大王の朱璽を印されることで万民が平伏す声になるように、尋常ではない力を持つ者は人ではないものにこそ親しむ。璽師は式盤を手に、薄闇の中から瞬く星に視線を注いだ。

「都府では外界の卜占が尊ばれている」

「璽師様は漢の人なのか」

「我は漢人ではないが、祖は漢人であったと耳にしている。しかし、古瀬丸が海の向こうにある国を知っているとは思わなかった。都府の者でも知らない者は多いというのに」

 古瀬丸は、笑うべきか恥じるべきか分からないという顔をした。

「昔、舟が潮に流されて、漢に流れ着いたことがあると死んだ長老が話していた。とても大きな島で、とても大きな家があって、知らない言葉を話す人がいたと」

 日は海に落ちて、それでも周囲は明るさを残していた。語り巫女が朗誦する神々の系譜には、太陽と月と海の神が同時に産まれたとされている。世の半分を覆う大洋の、男岩から眺める景色には、定かではない時代へと繋がる息吹があるようだ。璽師は古瀬丸の、潮風と陽光に搾られた肌を指で撫でた。

 砂利に染みる波は都府にはない音だった。歌詠みによってのみ想像するしかない景色。代々の璽師が、なぜ那岐邑で鯨狩りをしたのか、過去の記憶の連なる先に自分がいると女は感じた。那岐邑は璽師を尊ばなくなったけれども、海に面した場所は過去の百年も、未来の百年も変わらないだろう。

 海の眺めは、心を安らかにする。

「明日、鯨を狩るのか」

「卜占に従えば、明日は避けるべきとある」

「便利な道具だ」

「当たるときもあるが、外れるときもある」

 璽師は式盤を懐に入れた。

「じゃあ、なぜ占う」

 古瀬丸の疑問に、璽師は答えなかった。卜占の方法を知っていれば、正否を問うよりも先立って、卜占の方法を試したくなるからだ。そのようなことを話したとしても、古瀬丸は納得できないと思う。それよりも、璽師は古瀬丸に占おうかと誘ったが、怖いから嫌だと断られた。

 変わった子供だ。

 都府ならば位の高低を問わず、我先にと式盤を試そうとするのに。

「璽師様は、夜はどうするのだ」

「海津屋が燃えてしまったからね。このまま星を見ながら朝を待つつもりだよ」

「そうか。邑人には黙っておく」

「ありがたいね」

「約束したよ」

 古瀬丸は笑うと、男岩から降りていった。

 璽師が、昨日までの璽師と変わりがなくて良かったと思う。那岐邑の者に接する態度で、古瀬丸にも応対するのではと、心のどこかでは危惧していたからだ。焼け跡のみが残る海津屋を通り過ぎ、完全に日が暮れてしまう前に、住居へ帰るつもりだった。

 戻れば父が、また殴るだろうか。

 そう思ったけれども、殴られたときは殴られたときだ。耐えられる気がした。

 だが、住居に戻った古瀬丸を、父は触れようともしなかった。

「丸」

 囲炉裏の火に炙られる魚を見詰め、父が古瀬丸に問い掛ける。

「何だ」

「璽師様と何を話しておったのだ」

 頼りなげな声に、父の弱気が露わになっていた。父は古瀬丸を追って、男岩の近くまで来ていたのだ。殴り足らないと思っていたのか、古瀬丸を連れ戻そうとしたのか、その思惑は男岩に立つ璽師によって打ち砕かれてしまった。那岐邑では誰よりも女を蔑んでいた父が、女に手出しもできずに住居に帰り、酒もなく悶々としている。

 舟を駆ることが喜びだった父は、もうどこにもいなくて、ただ犬のように遠吠えしていた。

 古瀬丸は、そのような父は見たくなかったから、父の心の変化にも気付かなかった。

「璽師様は、誰にも話すなと言った」

「そうか」

 会話が途切れたまま、夜が過ぎていく。

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