四
璽師は海様の祟りを受けて焼け死んだ。
そう玖廬は言った。大王の使者であろうが、海様を汚す者は海様が許さない。古瀬丸は玖廬が良く心得ているのを不思議に思った。周囲で祟り祟りと言い騒ぐ男らが、示し合わせたように視線を交わす。女が海様に係われば、このように恐ろしい事態を招くのだ、と怖れを煽った。
「璽師は死んだ。那岐邑は海様と共にあるのだ」
「海様はお怒りになられている。このままだと魚が獲れなくなるぞ」
「恐ろしい、恐ろしい」
邑人は男女の隔たりもなく海に向かって土下座をした。璽師が近くで息を潜めていると知るのは古瀬丸だけだ。古瀬丸は璽師の直線的な恐怖に萎縮していた。対照的に、自らが火を点け、海様の祟りと騒ぎながら、璽師の生きているのを知らない玖廬と男たちは居丈高な態度だ。
焼け跡に璽師の死体がないと分かれば、そのような顔もしていられないだろうに。
「丸、見たか。海様は女を嫌うんじゃ」
土下座をしたまま、父は言った。
「男らしくなれ、丸」
男は璽師に太刀打ちできないくせに。子供らしく振る舞う古瀬丸は、矛盾を飲み込むことに慣れていた。怯えたように父の腕を掴み、小さく頷く。そうしていれば父の男気も晴れるし、玖廬に同調して騒ぎ立てるのも押さえれた。
海様の怒りは今日を境に晴れるであろう、と玖廬が言う。恐ろしいものが一つ減って、邑人らの間に安堵が広がった。海津屋は以前よりも大きく作り直すことに、璽師は消え失せたことに、男たちは決めた。衛士が璽師を迎えに来ても、知らぬ存ぜぬで通せばいい。玖廬は地位を得て脅威を除き、何もかもが上首尾だと考えているようだ。
「しばらくしてから、漁の段取りを話し合いたい」
玖廬は立ち上がると、自らの住居へ歩いていった。その後ろを三人の男たちが続く。
「ウツボの玖廬」と、男は呼ばれていた。誰よりも深く海に潜り、岩陰に潜むウツボを捕らえるのが玖廬の得意な技だった。ウツボは獰猛な魚だ。玖廬の顎にはウツボが噛み付いた歯形が残っていた。それを自慢げに撫でるのが癖だ。漁を終える年になりつつあったが、運良く長老の地位が転がり込んできたと思っている。その点だけは、璽師に感謝してもいい。
だが、栄誉は女に与えられたものだった。璽師がいる限り、玖廬は「女に言われて長老になった」という引け目を感じ続けることになるだろう。女が男よりも劣ると、那岐邑では誰もが考えているが、玖廬もまた同じだった。長老は本来なら男たちの合議によって選ばれる。それが女である璽師に選ばれたのであれば、邑への示しがつかなかった。
殺すか。
玖廬は酒を飲みながら決意した。璽師の剣は恐ろしいが、璽師そのものは女だ。那岐邑の男が女に傅いたままで良いのか、と自らを奮い立たせた。凶暴なウツボを獲るには、巣穴に潜んでいるところを銛で突くのが良い。璽師が寝込みを襲えば、剣などないも同然だった。
そこまで考えて玖廬は男たちを呼んだ。同じ舟に乗り、漁を営む三人だ。他に女嫌いで知られる古瀬丸の父も誘おうとしたが、こちらは酔い潰れていた。他愛ない、と玖廬は憤慨したが、三人いれば女を殺すことなど造作もないはずだ。
玖廬は、囲炉裏の灰を鉄串で掻き混ぜながら、三人に打ち明けた。
「璽師を殺す」
方法は海津屋に火を点けることにした。寝込みを襲うという案は、それでも剣を恐れた三人が反対したためだ。殺せば何かと不都合が起こるだろうし、海津屋ごと燃やしてしまえば海様の祟りにしやすい。そう相談した後、玖廬は囲炉裏の火を松明に移しつつ、人を殺すと思わずに、陸に上がった大魚を殺すと思えと言った。海でやる方法を、陸で行うだけだ。必ず上手くいく。
そして海津屋は燃えた。邑人は皆、これが海様の祟りであると疑わなかった。
「お前たち、良くやった」
玖廬は男たちをねぎらうために、住居で酒を振る舞おうと考えていた。これからのことを事前に話し合う必要があると感じていたからだ。まず、漁の段取りを決める席で、玖廬は改めて長老を選び直そうと提案するつもりだった。もちろん、他の者が長老になる目はない。改めて長老になれば「女に選ばれた」ことを払拭できるという思惑があってだ。
三人にはあらかじめ支持に回るよう言い含めておく。その代価として、三人には舟主としての地位を与える。那岐邑の男には、長老、舟主、銛人、水手の序列がある。漁の役割分担のためであるが、舟主ともなれば邑でも相応の発言権があった。男根を切り落とされた男や、長老の息子、もちろん玖廬もそうだ。だが、璽師とのいざこざで二人が死に、一人は長老になった。空いた舟主の座を三人に分け与えれば嫌はあるまい。
玖廬らは住居の中に入った。
「おい、酒を」
と言おうとして、囲炉裏の側に座る女に目を見開いた。
「遅かったじゃないかね」
鉄串で灰を掻き混ぜながら笑う女は、昨夜、海津屋ごと焼き殺したはずの璽師だった。
「そのような場所に四人もいては窮屈であろう。遠慮せずに側へ」
後退りした男らを一睨みで竦み上がらせる。そして璽師は促して囲炉裏の周りに座らせた。明暗が分かれるとは、まさにこのことを言うのであろう。朝の晴れやかな日射しはなく、玖廬の住居内は暗闇と囲炉裏の火がもたらす澱んだ空気に支配されている。
璽師の瞳にちらつく炎。鋭気を隠し、玖廬の心を赤裸々にするようだ。那岐邑の男が集まるまでに、璽師を消してしまわなければ。玖廬にはそれが、人の手で波を止めることのように感じられた。彼我の差を比べるのも愚かしい。
「良く御無事で」
璽師は鷹揚に頷いた。
「海様が」
「海様」
「そう、那岐邑の皆が慕う海様が、女を嫌い海津屋に火を放った。だが、海様は海だから火の扱いには不得手であったようだ。我は海津屋から出ると、浜へ向かい海様にことの次第を問い質した。日輪の子である大王の命を受けた者を、独断で焼き殺すとは神々の道理にも背くのではないかと。海様は恥じ入って海の奥深くに潜っていった。女に言い込められて退散するとは、海様も存外にだらしがない」
璽師は嘲笑すると、玖廬を流し見る。
「そのようなことを誰が信じる」
玖廬は那岐邑の誰もが奉じるものを愚弄され、怒りに声を荒げそうになった。
だが、機先を制したのは璽師の方だ。
「玖廬よ、我の言葉を違うというのか」
それは言葉の雷だった。
「違う、虚実、詐りと言うのであれば、確たる証拠を示せ。それとも事ここに至り、昨夜の炎は海様とは繋がりないと明かすのか。どちらでも構わないよ。祟りによって死んだはずの我が、お前の首を手に家々を練り歩くのだから」
目眩で璽師の笑顔が歪む。玖廬たちは海津屋に押し入った男の顛末と、汚彦と名を変えられた長老の末路を思い浮かべ、次は自らの番であると悟ったようだ。海原ではどのような波にも怯まない男が四人もいて、吐息の近さにある璽師に触れることすらできない。
死ぬのは嫌だ。璽師は人を、蟹や浜虫を踏み潰すよりも容易く殺す。璽師を海津屋ごと焼き払うという策が露見した今、状況は血肉を求める鮫に襲われる以上の際どさだ。
璽師が手を伸ばし、玖廬の顎を掴む。
ウツボに噛まれた痕を嬲る痛みに、咽から情けない声が漏れた。
「璽師を海様の祟りで殺すのならば、お前は璽師の祟りで死ぬべきではないのか」
恐怖から窒息してしまいそうだ。男の一人が喘いだ。
その喘ぎすらも璽師の剣を誘うものになりかねない。玖廬は生きた心地がしなかった。だが、璽師は玖廬の顎を掴んだまま、教え諭すように言葉を続ける。
「玖廬よ、死にたくないと後ろの者が言っておるぞ。身勝手なものではないか。己の邪さから海津屋を燃やした者が、海様に罪を被せ、殺すを厭わず、死ぬのは嫌だと言う。餓鬼畜生の道理からも外れた愚か者を、玖廬よ、お前は邑を率いる者としてどう考えるのだ」
「は、恥ずべきと」
「なるほど、恥ずべきか」
璽師は玖廬の顎から手を離すと、立ち上がった。一刻前には海様に平伏した男たちが、璽師にも同じ姿勢を取る。演技と本心からの違いはあったが。
「恥ずべきと知るならば、恥じて生きるがいい。そして璽師が生きていることを皆に伝え、海様よりも大王の尊意をこそ重んじるべきであると熟知させよ。玖廬よ、顔を上げろ」
「はっ」
璽師は柿色に熱せられた鉄串の先を、玖廬の顔に近付けた。
「大王の使者を害する邑は、叛意ありとして九族を誅すことになっている。誅すとは、全身の生皮と爪を剥ぎ、目と耳を潰し、大王を讃える言葉を叫ばせながら野原に捨てて、鳥に啄まれて死ぬように仕向けることを言うのだ。玖廬よ、お前も、その男らも、男らの妻も、子も、親もだ。死霊になっても消えることのない悔いと痛みを与えることを誅すというのだ」
「は、はい」
「お前たちは、誅すに足る罪を犯した。哀れなことよ。だが、海津屋を燃やしたのが海様であり、璽師が海様の非道を裁いたということに応じるのであれば、お前たちの罪まで誅するつもりはない。よくよく考えることだ。悪いのは、お前たちなのか、海様なのか」
「う、海様だ」
「海様が悪い」
「そうだ。海様が海津屋を燃やすからこのようなことに」
唯一の逃げ道を与えられて、男たちは窮した鼠の見苦しさで海様を非難した。
どこまでも愚かしい男どもよ。璽師はそう感じていたが、微笑みを崩すことはなかった。
「そうか、では海様は裁いた。お前たちは不問に付そう」
璽師は玖廬を残して男たちを下がらせた。住居の外で、命の有無を、肌に照る日によって感じていることだろう。玖廬は長老でありながら恨めしく思った。これから漁の段取りを決めるために、那岐邑の男が全て集まる。その場で玖廬は、璽師が海様の上にあると知らしめなければならないのだ。
混然とした心情を整理できないまま俯く玖廬を、璽師はどのように洞察したのだろう。璽師の手が伸び、玖廬の手を取った。
都府の女の指は、なぜにこうも白く細いのか。日に焼けて節の目立つ那岐邑の女の手とは、名前も違うような気にさせられた。だが、その手が玖廬の左手に触れた瞬間、中指の爪が剥がれ落ちていった。
「あっ」
爪と皮膚が真逆に剥がれる。空気が刺す痛みに、玖廬は叫んだ。
「戯れだ」
他人の痛みは鳥の囀りよりも愉悦をもたらす。璽師は玖廬の耳元で、確かにそう囁いた。