参
漢儒の書物に曰く、璽師は君主の側にあり璽と朱を護る。
「璽」とは王たる者が持つ印のことであり、大漢の皇帝より下賜されるものだった。大王は璽を得て対外的な権威を臣と民に示す。璽師は朱を携え、璽を正しく用いるため、常に大王の側にあった。大王は詔勅によって四方四海を治めるが、その意は璽印によって証とされるのだ。
新たな璽が伝来すれば、璽師は新たな朱を求める。
大漢で「朱」と、この国では「丹」と呼ばれるものは顔料だ。希少にして有毒、山深くで採掘される水銀の元が辰砂であり、それを粉状にして朱を作る。人に位があり、璽に格があるように、大王の使う朱も璽師の秘伝が求められた。辰砂、銀泥、香灰、呪い言葉など八十三種を練ったものを「珠」という。
鯨は珠の練成に欠かせないものだ。璽師は自らの手で鯨を狩り、胆石と肺腑を得ることが古来より定められていた。
鯨を狩る、と聞いて古瀬丸は目を丸くした。
「都人は鯨が何か知っているのか。島ほどもあるのだぞ」
経験豊かな漁民であっても、鯨に手を出すのは余程に困窮したときに限られている。古瀬丸は過去に一度だけ鯨を食べたことがあった。その時は、衰弱して浜辺に打ち上げられた鯨を皆で分け合ったのだ。鯨肉は固くて生臭く、美味いという程のものではない。
「鯨の肉を得ねばならないほど、都府には人が多いのか」
「肉は所望していない。邑の皆で食べるがいい」
璽師は渦巻く光と鯨の黒影を見詰めながら呟いた。
都府の人は馬鹿か。古瀬丸はそのような視線を璽師に送り、竿を置いた。海が輝くと手頃な魚が釣れなくなるからだ。千万の光に誘われて鯨が出ると、青魚などは退散する。海様が機嫌を損ねたのだろう、と古瀬丸は解釈していた。とにかく女が隣にいるとやりづらい。
邪魔だったかと璽師は問うたが、釣果はそこまで悪くない。魚が二匹ずつなら古瀬丸と父が食べる量としては十分だった。
古瀬丸は璽師を見詰めたままだ。
「どうしたのかい」
「璽師様は邑をどうしたいのだ」
璽師を恐れる者は、璽師の剣しか見ていないのだ。子供の目には、璽師は璽師であり女だった。女が海に係わるのは涜神的であり、璽師の心が掴みきれない。璽師は男の股間を斬り、長老に死を命じ、長老の子を殺した。ああいうことが、まだ続くのだろうか。
心配だった。父が璽師の機嫌を損ねたら、と思うと。
「殺すのか」
「そういうことは逆に考えるといい。つまり『邑は璽師をどうしたい』と」
古瀬丸は俯いた。邑は璽師を邪魔者と思っている。
「我は璽師の務めを果たすこと以外に、那岐邑をどうしようという意図はない。ただ、邑が璽師をどう扱うかによって、我は応じているだけ。厚意であれば厚意を返そう。敵意であれば敵意を返そう」
「じゃあ、何もしなければ、何もしない」
「古瀬丸は頭が良い」
璽師は白い手を伸ばして古瀬丸の頭を撫でた。
何もしなければ、何もしない。古瀬丸にすら気付いたことを、那岐邑の者が気付いていればよいのだが。璽師が夜中に海辺を歩いていたのは、古瀬丸に会うためではなかった。危険を避けるのが目的だ。だから璽師は人気のない海へと向かい、偶然、釣りをする古瀬丸を見付けた。
大王の側にあると、人の機微が良く見える。どのような振る舞いに出れば恨みを買い、謀計、言葉の裏、仕草の意味を探り、先々を思案するのは衣服よりも身近なことだ。処世を誤れば死、足を踏み外さないのが都人の務めだった。例えば、怨嗟が募る邑で構えもなく寝るなど、自ら滅ぼせと主張しているようなものだ。
だから、璽師は海津屋を離れて様子を伺うことにした。
「邑の皆は璽師様を恐れている」
「恐れているのは剣であって、璽師ではなかろう。理を知らぬ愚か者ども。三人死んだだけでは、海様のほうが恐ろしいと考えているかもしれない。海様は海だから殺せないが、璽師は女だから殺せるなどと考えているやもしれない」
璽師は黙ると油壺の火を消した。
古瀬丸の手を引き男岩から降りる。そして闇夜の色濃い、茂みの中へと入った。古瀬丸には感じられなかったが、海津屋の方から物々しい気配がしたのだと璽師が囁く。
確かに海津屋の周囲には数人の男がいた。
茂みから海津屋までは五十歩の距離だったが、男たちが何をしているのかは一目瞭然だった。藁を小屋の戸口に置いて、火を点けるようだ。古瀬丸の口を塞ぐ。ここで騒がれては逃げてしまうばかりか、次の夜も警戒せねばならない。璽師はことの一部始終を見て、けりをつけるつもりだった。
海津屋に入る勇気はないらしい。璽師を犯そうとした男の末路を思えば、あえて危ない橋は渡らないということだろう。やはり恐れは「璽師の剣」であり「璽師の呪」であり、「璽師」そのものではないのだ。
大王が那岐邑に課した役割を忘れたのも、根は同じだ。何か、璽師が軽んじられる遠因があったのだろう。だからこそ、那岐邑のような僻地であっても、力持つ者の目と手が届くということを示す必要があった。
璽師は炎に包まれた海津屋を見詰めつつ、古瀬丸に呟いた。
「今日は、もうお帰り」
口を塞いでいた手を離す。抱かれたまま古瀬丸は璽師に問い掛けた。璽師が邑人を殺すのを見たくはない。古瀬丸は璽師の腕の中で、酒気の赴くままに拳を振るう父とは、桁の違う大きさを感じていた。
炎が男らを照らしている。酒の勢いを借り、火の勢いに感情を昂ぶらせているようだが、古瀬丸は一心に「逃げろ」としか思わなかった。焼け落ちる海津屋の中にいるはずの璽師が、ここで見物している。璽師は自らを殺そうとする者を、生かしてはおかない。徳を知らない人間が暴力を用いた場合、君子であれば対話を以て誤りを正すことができるだろう。人によっては退くことで無道を通すかもしれない。だが、璽師がそうでないのは古瀬丸にも分かっていた。
それでも古瀬丸は那岐邑の人間だ。
「殺さないで」
と、懇願した。
「お前はその言葉を邑の者にも言えるのか」
優しく、喜怒哀楽で言えば楽の声色で、古瀬丸の咽を真綿で絞める。理屈に合わないと教え諭しているようだ。璽師が邑人に殺されるのは仕方ないが、邑人が璽師に殺されるのは非道だと古瀬丸は考えているのか。
「そうじゃない」
「では、今から燃える小屋に走り寄って、奴らの行為を止めてみよ」
古瀬丸は俯いた。
九か十の子供には酷だったか。璽師もそれ以上は言わず、古瀬丸を腕の中から解放した。筋を通すつもりがないのであれば、今宵のことは忘れるべきだ。璽師の双眸は無言であるが故に多くを語る。古瀬丸は下唇と無力さを噛み締めて、その場から逃げていった。
「嫌われたかねぇ」
一人残った璽師は溜息を吐くと、海津屋に火を点けた男らを見詰めた。那岐邑の男らに夜叉と憎まれても痛痒は感じないが、古瀬丸のような子供であれば話は別だ。ただ、璽師は璽師の役目を果たさねばならない。「さばき」と「ころし」は同じ三文字で語呂も良い。今日も明日も那岐邑は大騒ぎだ、と女は思ったが、明後日からは心安らかに務めに入れるはずだ。
一方、古瀬丸は竿と魚の入った駕籠を手に住居へと走っていた。
父は酔い潰れているはずだが、海津屋を燃やした男らに紛れていないとは言い切れなかった。もし、父がいなかったらどうしよう。古瀬丸の心臓は動悸よりも不安で一杯だった。父に璽師とのことを話して謝ってもらおう。でも、父が謝るだろうか。女だと蔑む父が。
逸る気持ちを抑えて、竿と駕籠を隠すと、古瀬丸は住居に入った。そして安堵の溜息を吐く。父は筵にくるまって鼾を掻いていた。
父は漁の夢を見ているようだ。
丸、魚だ。魚がいるぞ。
と寝言を呟いている。
古瀬丸は少し涙ぐみながら、何もかも忘れて寝ることにした。
次の日、海津屋が焼け落ちたという知らせが那岐邑を駆け巡った。海様の祟り、と慌てた声に、父が起き上がる。古瀬丸はすでに住居の外に出て、海津屋へと向かう邑人らを見詰めていた。昨夜のことを目にした今日では、海様への怖れを口にする男らが白々しい。
「どうした、丸」
「海津屋が燃えた」
父は気怠そうな顔を一変させて、まだ火の燻っている海津屋のほうを見た。
「女は」
「生きてる」
「焼け死んだと言うとるではないか」
「でも、生きてる。璽師様は生きてるよ」
なぜ生きているのか、その理由を口にできないのがもどかしい。
父は璽師を快く思っていないから、古瀬丸の言葉に耳を貸さなかった。昨夜、父が酔い潰れていなければ、どうなっていただろう。邑人は父の女嫌いを知っていた。海津屋に火を点けると誘い、父は二つ返事で応じたかもしれない。酒は嫌いだが、今は酒に感謝したくなる。
古瀬丸は父の腕を握ると、海津屋へと一緒に歩いた。燻る煙が海様への怖れと、璽師の死をかたちにしているようだ。新しく長老になったばかりの玖廬が、小屋を前にして祈っている。しきりに祟りを口にする男たちは、昨夜、茂みで見た者と同じだった。璽師様は自分を殺そうとした者らを殺すだろうか。
それだけが古瀬丸の気掛かりだ。