弐
「璽師様は恐ろしい御方だ」
酒を飲みながら父が愚痴るのを、古瀬丸は囲炉裏の温かさが届くか届かないかのところから見ていた。瓢箪に米と唾を入れて発酵させたものを、日が沈んでからずっと飲んでいるのだ。母は二年も前に死んでいた。古瀬丸は酒を飲む父が嫌いだ。
銛で魚を突き、あるいは海に潜り貝を獲る。そうして得た海産物を、女らは近隣の邑々に出向き米や布、生活品などと交換した。那岐邑は漁を生業とする者の邑だが、自生した穀物や果物を集めたり、狩りに出向くこともあった。稲作はしないが、米を原料に酒を造るので、小さな米倉が一つある。米を噛み砕いて酒を造るのは女の仕事であり、男は漁業以外のことに従事することは禁じられていた。海と人との関係が「穢れる」からだ。同様に、女が漁をすることも禁じられていた。
酒は海で冷えた身体を温めるために欠かせないが、古瀬丸の父は楽しみとしてもこれを飲んでいた。父が酒を飲み始めたのは、海に深く潜るようになって身体の節々が痛くなるためにだ。痛みを鎮めるために飲み始めた酒は、今では得た魚のほとんどを注ぎ込むまでになっていた。指や腕の震える父の姿が古瀬丸には心配でならないが、嫌いな理由は他にある。
酒は父の凶暴な一面を容易く引き出すのだ。
「丸」
父は古瀬丸を「丸」とだけ呼ぶ。
古瀬丸は「とと」と父を呼んだ。
「はい」
「璽師様は恐ろしい御方だ」
「女なのに」
古瀬丸は男が女を従えて当然だと教えられてきた。
教えたのは父だ。母が死んでからずっと、父は魚獲りや舟の漕ぎ方よりも、男と女の差を言い続けた。那岐邑は男の地位が高いものの、父ほど女を蔑む男はいない。忌み事に係わること以外に巣喰う感情があるようだが、璽師の存在は父を弱気にしていた。
酒を呷り、囲炉裏の火が染める父の赤ら顔は、怪物の洞穴にいるのと同じ思いを古瀬丸に強いた。直接的な危害に震えるのは父も子も変わりがない。変わるのは対象だけだった。女だから恐ろしい。父は囲炉裏を見詰め、母の名を呟いた。そして空になった瓢箪を古瀬丸に投げつける。
古瀬丸はそれを避けなかった。
避ければ殴られるからだ。瓢箪は古瀬丸の右肩に当たり、地面を転がる。痛みを感じないように爪を太股に立てていて正解だった。古瀬丸が俯いたまま動かないので父は気勢を削がれたようだ。感情をできるだけ薄めれば、身体も見えなくなるとまでは考えない。だが、泥酔した父を眠らせる最善の方法ではあった。
筵を被り、横になった父が鼾を掻きはじめるのを待って、古瀬丸は動いた。
まだ夜は肌寒い。
しかし人知れず動くには良い空気だった。物音を立てないよう住居を出ると、藁葺き屋根に隠した釣り竿を担ぐ。浜辺への道は夜に閉ざされていたが、古瀬丸は確かな足取りで歩いた。樹々の覆いを抜けると月が地上と海を照らす。昼間、空を蓋した不吉な雲は、夜になって西へと流れたようだ。
古瀬丸は夜釣りをするのが習慣になっていた。父から逃れるためだったが、暗い海の波揺れに細かく反射する月光を見ていると、心が癒されるのを知った。夜の海に釣り糸を垂らし、潮音に身を委ねるのは古瀬丸の密かな楽しみだ。
海津屋は静まり返っている。寝ているのだろうかと思ったものの、男根を切り落とされた男の姿は古瀬丸の瞼に焼き付いていたので、中の様子を伺う気はなかった。古瀬丸は璽師をどう見ればいいのか分からない。那岐邑を乱すのは悪いことでも、嫌いにはなれなかった。
古瀬丸が釣り場にしているのは、浜辺の横にある「男岩」という岩石だ。男岩は巨大な石の塊で、海に張り出している。砂利の浜は海に入るとすぐに深くなり、魚の世界へ行き着く。男岩に登った古瀬丸は、駕籠を脇に置くと海の様子を見詰めた。素足は浜虫の何匹かを踏み潰していたが、あまり気にはならなかった。今日は魚が多くいそうな気配がして、胸が高鳴る。
古瀬丸は懐から男根を取り出すと、糸に括り付けて竿を振るった。
波を月が千にも分かち、黒い海に光の道を作りだしている。古瀬丸には漁民の耳が自然に備わっていた。海中を泳ぐ魚の気配を感じる力。釣りは海様の声を聞き続けることだと那岐邑の人は言うが、それは正しい例えと思う。余計なことを考えず、じっと待つのが釣りだった。
しかし、男根などが餌になるのだろうか。海様は女を嫌うから、相応しいとは思えるけれども。
糸に結ばれた男根を、魚が食らいついたのを感じ、古瀬丸は竿を引いた。強い手応えは期待を持たせたものの、釣れたのは青魚だった。青魚は那岐邑では腐魚とも言われている。死ぬと瞬く間に腐るからで、古瀬丸は尾鰭を震わせる青魚を掴むと、爪で腹部を抉りハラワタを抜いた。
これで少しは長持ちする。
「釣れるのかい」
不意に話しかけられて、古瀬丸は振り向いた。
「璽師様」
「我は釣れるのかと訊いているんだよ」
「釣れます」
璽師は微笑んだ。呪者の黒衣は変わらないが、恐ろしげな仮面を被っていない。それは他人の目を気にする必要がない以上に、暗闇の中で仮面を被れば歩くどころではないからだろう。男の股間を切り裂いた逆剣は腰に吊り下げ、火の灯る小壺を手に持っている。那岐邑にはないものだったので、呪いの道具と古瀬丸は思った。
油壺に布を挿したものだと璽師は説明したが、古瀬丸にはその便利さが良く分からない。火は父のいる住居を思い起こさせるので、あまり好きではなかった。女は古瀬丸の脇に立つと、釣り竿の糸が海の波間に消えるのを見詰めた。古瀬丸は女が近くにいると、魚が釣れなくなるのではと心配したが、竿から手応えが伝わった。
今度は魚も強情だ。古瀬丸は竿を持つ手に力を籠めて、餌を喰わえた魚が泳ぐ向きを変えるのを待つ。そして、魚が向きを変えて不意に力が緩んだ瞬間、一気呵成に釣り上げた。
釣れたのはゼイゴ魚だった。
「面白いように釣れるね」
「たぶん、海様の機嫌が良いんだ」
そうでなければ女がいて、魚が釣れるはずがない。
海様は嫉妬深いから女が近寄るのは駄目だ、と古瀬丸は璽師に言った。璽師は怒るでもなく微笑んだが、それは邑人が自分をどう見ているかを悟ったからだ。土地には土地神がいて、海には海神がいる。那岐邑の人々にとって海は豊漁をもたらす恵みであると同時に、荒れ狂う災いでもある。海を軽んじれば生きてはいけないと考えるのも無理のないことだ。
大王の徳が那岐邑にまで行き届いていれば、あるいは男が海津屋に押し入るということもなかっただろう。璽師が邑に遣わされるのは百年ぶりと聞いていた。それだけの時間に隔てられていれば、邑人の視線が奇異と畏怖に歪められていても不思議なことではない。
璽師は「海様」に興味を持った。
「古瀬丸は、海様を見たことがあるのか」
「どうして」
「死んだ汚彦が申していた。邑人らが海様を恐れていると。そこまで荒ぶる神であるならば、女の我が近寄れば狂うたように怒鳴るに違いない。だが、我には波音は波の音にしか聞こえない。あるいは、那岐邑の者だけが見える海様がいるのではと、そう考えたのだ」
「海様はいるよ」
古瀬丸は呟いた。
「見たのかい」
「見た」
糸に括り付けた男根が、魚に食い荒らされてしまった。良い餌だったが、こうなれば使い物にならない。古瀬丸は糸を外すと男根を海に投げ捨てた。これで璽師の言葉通りの「魚の餌」だ。
璽師を襲った男は草屋で一応の処置がなされたが、日が落ちる前に息絶えた。罪を犯した者を捨てておけと命じた璽師の手前、男が息絶えたのは邑にとっては好都合だったのかもしれない。那岐邑では死者を棺舟に乗せて遠くへと流す。海の果てには海様の国があり、そこへ皆帰ると信じられていたのだ。
だが、男の死体は野原に捨てられた。網を被せ、長老と同じく那岐邑の外へと引き摺ったのだ。死体に触れるのは穢れを招く行為だった。だから、極力触れないために網を使う。野原に捨てられた死体は、山犬や鳥が食うだろう。
男根だけでも海様の国に帰れば、と古瀬丸は思わずにいられない。
波音に耳を傾け、水が砂利に染みていくのを感じた。寒暖の定かではない空気が、古瀬丸の肌を撫でている。璽師は手に持った油壺を足下に置いて、古瀬丸の意に反し、側を離れないようだ。
「海様は、我にも姿を見せてくれるかい」
「分からない。邑でも見たのは数えるほどだ。日が悪ければ何も見えない」
「日が良ければ」
「海様の灯火が一面に広がるんだ」
古瀬丸は糸に骨を削った釣り針を結び、浜虫を突き刺して海に投じた。
潮風だけの時間が過ぎる。璽師は飽きずに夜の海を見詰めていた。それが古瀬丸には気味悪い。話すべきか迷い、考えるのは、男岩を這う浜虫を捕まえるよりも難しかった。本当は海津屋へと帰ってほしかったが、そういう素振りを見せないので、古瀬丸は折れた。
「都府はどのようなところだ」
「都府かい。海がなく、畑もなく、山が囲み、人が多い。皆は大王の徳に従うが、悪い者もいる。呪いが流行ることもあるが、冬の次に春が来ることを心配する者はいない」
「嘘だ」
古瀬丸は笑った。
「なぜだい」
「海も畑もなくて、どうして人が生きていける」
「都府には海がなくとも、ここに海があるではないか。畑もどこかにはあるだろう」
「そっか、そういうことか」
「おや、分かったのかい」
古瀬丸は璽師が思うよりも賢い。
「大人が言っていた。海様から塩を戴いて魚を塩漬けするのは、都府に運ぶためだと。魚を運ぶのは女の仕事だから良く分からないけれど、都府で米や粟と交換したりもするよ。でも、魚が欲しいならなぜ海に行かないのだろう。塩漬けの魚なんて美味しくないのに」
「なぜだろうねぇ」
璽師は明確な答えを避けた。都府が栄えるために、漁業や耕作を営む者から富を奪っているなどと、古瀬丸に知ってほしくなかったからだ。女は璽師の生業が、人の世に不可欠なものではないと弁えていたのだろう。
海の音を聴いた。
古瀬丸は月明かりの水面に視線を送った。
「璽師様、海様の灯火だ」
神秘が璽師の瞳に映る。それは言葉を失うという簡単な反応をもたらした。
海の奥深くから、青色の小さな輝きが何千万も現れたのだ。「海様の灯火」と古瀬丸が言ったもの。波に漂う何かは、蛍火を連想させた。海様を信じる古瀬丸が璽師の顔を覗き見る。蛍のように、海中で光る生物がいるのだろうと思ったが、得難い光景であることに間違いない。
常世のものか。
星空と差のない水面の光は、枝垂れ雨。その先に灯火を飲み込む巨魁があった。
「鯨だ」
と、目を凝らした古瀬丸が声を上げる。
光の渦の直中に、島のような巨体が浮き沈みするのを、二人は見た。
「我は、あの魚を狩りに来た」
そのように、璽師は言った。