壱
男根を切り落とされたようだ。
逃げていく男の股間からは血が溢れていた。それだけで、尋常ではないことが起きたと分かる。偶然擦れ違った古瀬丸は、男の発情した加古鳥よりも酷い声に耳を塞いだ。夜ならば目が覚め、昼であれば漁に出た舟が帰ってくる、そのような声だった。
砂利の浜辺に建つ小屋から男は転がり出た。古瀬丸は男の後ろ姿を見て、遠からず死ぬのではないかと思った。男根を失っては、邑では生きていけないだろう。古瀬丸は男の昨日までの意気軒昂とした姿と、あの萎んでいく姿を頭で繋げようとしたが、上手くはいかなかった。男が死ねば、古瀬丸にとって二度目になる。
夏前の、空気の澱みが激しい季節。曇り空と鈍色の空、風も波も優しくはない。小屋のほうを振り返ると女が佇んでいた。浜辺の小屋は「海津屋」と言い、祭事にのみ使われる。その小屋に女がいることに古瀬丸は驚いた。墨を溶かしたような黒衣を纏い、神巫女の貝腕輪や石飾りを身に着けている。左手に持った青銅製の逆剣には、切断された男根が突き刺さっていたが、表情には嫌悪も恐怖もない。
妖艶な、と都府の者なら言い表すだろう。美しい顔立ちと化粧のもたらす色香に、古瀬丸の警戒心が和らぎそうになった。あれは大王の使者だ。大人たちが話していた「璽師様」、それだと気付く。
「ちんこ」
「そうだよ、坊や。魚の餌にしておやり」
女は微笑むと、逆剣を振るって古瀬丸の足下に放った。
「璽師様」
「良く知っているね」
「大人が話していた。大王の使者が来ると。それは璽師様と言うらしい。でも、璽師様が女だとは思わなかった。女はその小屋にいては駄目だ」
「女は駄目なのかい」
古瀬丸は頷いた。
「だが、代々の璽師は那岐邑で役目を果たしてきた。大王の意を受けた者を、男が犯そうとするなど前代未聞のこと。古来からのしきたりを忘れているのは、邑のほうではないのか」
璽師の言葉に古瀬丸は黙ってしまう。
那岐邑は漁民が細々と暮らしているだけの集落だった。海原に繰り出し漁を営む集落は、那岐邑の他に三十を数えたが、大王の使者が訪れるのは他にない。何十年か何百年かに一度、「璽師」と呼ばれる者が大王の命を受けて那岐邑に来る。だが、百年前に訪れた時を最後に璽師の来訪は途切れ、記憶を有した者はみな死んだ。
昔語りだと誰もが思っていたが、その璽師が現れたのは昨日のことだった。衛士が担ぐ輿に乗り、璽師は漆黒の衣、恐ろしげな仮面と竹で編んだ笠という異形の出で立ちをしていた。呪いにより災いを為す鬼道師の姿。邑人の多くが忌み事のように住居に閉じ籠もる中、長老と数人の男だけが彼らを砂利浜の小屋へと案内した。砂利浜の小屋は邑人にとって海神の住まいである。そこに璽師は籠もり、衛士はしきたりに従い邑を出た。
璽師が女であると知れたのは、つい数刻前のことだ。覗き見た者がいたのだろう。怪異な仮面の裏に、都府の女の顔があると知って男たちは色めきたった。大王の使者であっても女は女であり、女は男よりも卑しい存在だったので、男たちが璽師を犯す相談をはじめた。魚と女は叩けば大人しくなるから、無理矢理押し入り立ち替わり犯せばいい。璽師の肌を想像して順序を言い争う男たちを長老は黙認していた。長い年月が君臣の境を薄れさせたか、それとも那岐邑を乱す女に悪意を抱いたからか。
第一に選ばれたのは、邑で最も体躯の大きな男だった。漁の腕も良く、腕力と声の大きさで、長老の息子を常に圧倒していた。酒の勢いもあってか、彼はさっそく行動したようだ。だが、小屋に押し入り女に襲いかかろうとした瞬間、剣が股を貫いていた。
後は古瀬丸が見たままだ。
男根を拾った古瀬丸に、女が問い掛ける。
「坊やは幾つだ」
「十か九」
「名前は何という」
「古瀬丸」
「そう。では古瀬丸、長老を呼んできてちょうだい」
有無を言わせない口調に、古瀬丸は長老の元へと走らされた。
逃げた男の血と尿の跡を追う。古瀬丸は邑人が集まる広場に辿り着いたが、そこで人の声とは掛け離れた叫びを聞いて身震いした。血まみれの男を皆が無言で囲むのは、雲が沈む空気の下では恐ろしげな光景に映る。邑人が見ているものを、苦しみのあまり男が身体を曲げたまま痙攣しているのを、古瀬丸は共有した。痙攣は死が近い証拠だ。古瀬丸はそれを知っていた。
助からない。だから誰も、あえて手を出そうとはしなかった。哀れとは思っても、死の穢れを被ることは何にも増して恐ろしい。
邑人の中に長老を見付けた古瀬丸は、その手を掴んだ。
璽師様が呼んでいる。
長老の顔が硬直した。触れることを避けるために、瀕死の男に網が被せられる。死者を弔うための喪屋か、傷の平癒を願うための草屋のどちらに男を運ぶかは、長老が決めることだったが何も言おうとしないので、男たちは互いに穢れや祟りのことを囁きはじめた。璽師の意図を誰も推し測れないようだ。女が男を殺傷するなど、那岐邑ではあるはずのない出来事だからだ。
「海様が怒る」
その言葉に長老は反応した。
「言うでない」
「しかし、女が男を刃で刺すなど、あってはならないことだ。早く手を打たねば、海様に知られどのような災いが」
「この天気も、海様が女を嫌っているからでは」
「大王の使者は海様を知らんのじゃ」
邑人の不安が、女への敵意に変わるのに時間は必要ないようだ。那岐邑のように大王の都府から遠いと、人は君主の徳よりも神霊への畏怖に流されやすい。そして長老は邑人を宥めようとしつつも、璽師の側に立って鎮めるつもりがなかった。忌み事と女への蔑みを一通り聞いた長老は、邑人を引き連れて海津屋に向かうことにした。
大王の使者に対する作法として、膝を折り、砂に額を擦りつける。しかし、他の者は立ったままだ。
「参りました」
小屋の中から声がする。
「騒々しい」
「皆、海様と璽師様を恐れております」
「海様とは海のことか」
「はい」
「海を人のように扱っても、人のようには御せまい」
「それは」
「意に沿わない者を害すのは、海も大王も同じであるぞ」
女が現れる。
長老はまだどうにでもなると考えていた。男たちは契機があれば復讐心と欲望を満たそうとするだろうし、璽師は一人、しかも女だった。だが、小屋から現れた璽師は仮面を被り、邑人を前に何の躊躇もなく長老の白髪頭を踏みつけた。男たちの顔に動揺が走り、古瀬丸には目の前で展開されていることが理解できなかった。邑の長老が女に踏まれるなど、人が魚に釣り落とされる以上のものだ。信じがたい璽師の行為に男たちは激発するかと思ったが、真逆の力が働いた。
璽師の肌は日を知らないかのように白い。それなのに、背だけは誰よりも高かった。誰も身動きしないのは、穢れや祟りを忌む心を璽師の怪異な姿が捉えて離さないからだ。それは長老も同じだった。頭を踏まれ、顔面を砂で汚したまま、汗だけが滴り落ちている。
女は波音に似た抑揚で、長老に言葉を下した。
「あの男は天津罪を犯した。よって助けを禁ず。野へ捨てておけ」
「はい」
「名は何という」
「那岐邑の長老、餌彌彦と申します」
「そう。では餌彌彦に告ぐ。那岐邑が大王の意を忘れしを断ず。なおかつ大王の祭事を邪魔するなど、九族を誅しても償えぬと知れ。餌彌彦は汚彦と名を変えて、死ね」
女を犯すことが罪と、それも極刑に値すると言われ、邑人たちは息を飲んだ。
長老は声を絞った。
「なにとぞ、なにとぞ」
「汚彦、死なねば邑はないぞ」
仮面の璽師は長老の白髪頭から足を外すと、呪い言葉を呟きつつ小屋へと隠れた。身体を起こした長老は蒼白な表情で小屋を見ていたが、振り返ると邑人たちが波の引くように距離を取る。誰ともなく恐ろしいと呟いたので、古瀬丸には何かの事情があるのだと察せられた。
邑の男たちが黙したまま櫂を手に取る。璽師の呪い言葉が邑全体に及ばないため、するべきことは唯一つしかない。呆然としていた長老に櫂が振り下ろされた。一度殴れば、後は二発も三発も変わらない。男たちは自らの罪を分散するように、大きな魚を仕留める要領で、何度も打ち据えた。
長老は簡単に死んだ。
その身体に網が被せられ、喪屋へと引き摺られていく。
男らのなかで最も年上の者が、小屋の前で平伏した。
「汚彦は死にました」
「そうか」
璽師は小屋から出ると、平伏した男の頭を踏んだ。身震いし、声を出しかけた男に体重を傾けていく。この邑の者は皆、頭が高い。恐れているのは口ばかりのことではないのか、と女は言った。廻りの男たちも雷に打たれたように平伏す。璽師はそれを次々に踏んでいった。左腕に持った逆剣の先が、気紛れに男の背を傷付ける。そして砂利浜に降り、年長の男の前に立った。
「名は何という」
「玖廬と申します」
「そう。では玖廬に告ぐ。玖廬が長老となり那岐邑を治めよ」
都府の女は簡潔に言うと、小屋に戻ろうとした。その時、平伏した男の一人が顔を上げて何かを叫んだ。男は死んだ長老の長子だった。
だが、言葉が意味を持つ前に、女の逆剣が口の中に突き刺さっていた。
息が途切れるよりも早く、男の命が失われる。笛を鳴らすような声が、海鳥の鳴き声に変わり、砂の中へと埋もれていった。釣り上げた黒魚の血を抜くよりも鮮やかな剣の冴え。その手管を、平伏した男らは気配のみで察し、恐怖に震えた。
「穢れ者をこれ以上増やしたくはあるまい」
女はそう呟くと、小屋へと戻った。