第四章 “豫園商城”は土産物屋さん
一、漢方薬の“片仔廣”
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「すんげぇ人だなぁ」
豫園はいつ来ても観光客で賑わっている。
圧倒的に多いのは地方からのオノボリさんだが、外国から観光客もたくさん訪れる。
上海で唯一といえる観光地である。
「へーえ、ここが豫園ていうのか」
「浅草みてぇなとこだなぁ」
邑中の的確な指摘があった。
「そう、それ。オノボリさんのメッカだ」
「熊にぴったりだな」
「オメェだって同じようなモンだべぇ」
「へいへい……。峪口ぃ、ずいぶん古そうな建物だな」
「ああ、一見ね。でも、ほんとは三、四年前に土産物屋として建てられたものなンだ」
「ふーん、なるほど。よく見ると漆喰なんか新しい。それに造作もかなりいい加減だな」
「ふんじゃ、豫園てのも新しいのかぁ?」
「否、豫園は明代に造られた庭園だ」
「明? 清のめぇか。中へ(へ)れンのかぁ?」
「ああ、でも金を取られるよ。後で入ってみる?」
「うんだぁ。へぇってみんべぇ」
「おい、スリに気をつけろよ。鞄はこうやって、前に掛けろ。後ろのポケットに財布は入れるな」
「はい、了解しました」
「俺ぁも了解、しやした」
三人は観光客の人波に揉まれながら、奥へ奥へと進んで行った。
「ふんとだぁ、峪口のゆうとおりだ。土産物屋だぁ」
「だろう、だから正式には“豫園商城”ってゆうンだ。“商城”ってのは、デパートの意味だよ」
「なるほど、漢方薬屋に茶ッ葉屋、貴金属に洋服屋、電気製品まであるじゃないの」
「土産に、なんか買うべぇ」
「漢方薬でも買って帰れ。あのトカゲの乾したやつなんかいいンじゃねぇの。家族みんなで齧れば」
「おっ、“肯徳其”もある。おや、あれ、モス・バーガー? ……へ~え、出てるンだ。それにしても客が入ってねぇな」
「あれトカゲか……、あんなの俺ぁ家の近所にいっぺぇいらぁ。施川ぁ、今度持ってってやんべぇ」
「いんねぇ、いんねぇ」
「モスの隣に、“八重洲”って暖簾が掛かっているだろう」
「うん? ああ」
「鰻屋だ。梨田総経理も言っていたけど、日本の下手な鰻屋よりもよっぽどうまいって。何回か一緒に来たことがあるよ。確か、彼がなにかの本で調べたンじゃなかったかな。マメだからねえ、仕事以外は……」
「あっ、そんなことゆって、梨田さんに言い付けてやろっと」
「どうぞどうぞ。“あらぁ、わかっちゃったぁ”って言うはずだよ」
「へぇへへへっ…、中国人も鰻を食うンだ?」
「中華料理じゃ、ぶつ切りにして炒めて食べるけど、日本のようにポピュラーな食べ物じゃないな」
「ぶつ切りかよぉ、ヘビを連想するなぁ。熊なら頭から齧り付きそうだけど」
「俺ぁ、長げぇのはダメだぁ」
「なにがぁ、“長げぇのはダメだぁ”だ。化け物みてぇな、ぶっといのぶら提げているくせによぉ」
「へへへっ…」
「糞ッ! 勝ち誇るな、エロ豚」
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「この店は、夜は居酒屋になる。日本人の溜まり場だそうだ」
「嫌だねぇ、日本人は。どこへ行っても群れたがる。わしゃ嫌いじゃ」
「俺も嫌いだ。こっちでは必要以外に、日常生活では日本人と付き合わないンだ」
「うん、峪口らいしな」
その後、一年ほどして八重洲は閉店した。
峪口が聞いたところでは、家賃が高過ぎて、賃貸契約交渉が決裂したとのことだ。
「ひょえー、まるでお祭りだね。祭りの夜店みたいのがたくさん出ている」
バタバタと羽ばたいて飛ぶ鳥、似顔絵描き、水飴細工など、実際にその場でやって見せる。
鳥の玩具に見入っていた邑中が、
“あの鳥の玩具、孫に買ってけぇったら喜ぶべぇ”と呟いて、
「なあ、峪口ぃ、買ってくんど」
と切り出した。
「十元渡せば売ってくれるよ」
「ふ、ふんなこと、ゆうなよぉ。なあ、峪口ぃ~」
「わかった、わかった。気持ち悪りぃから擦り寄るな。何個買えばいいンだ?」
「店ごと買っちまえ。わしは漢方薬が見たい」
「漢方薬?」
「勃起グスリだんべぇ…、スケベ」
「エロ熊、肝を抜いて売っちまうぞ」
“熊の胆嚢”は肝臓や胆嚢機能の回復に効果的な名薬で、質の良いものは一グラムで一万円以上する。
「なにか欲しいの?」
「片仔廣」
「片仔廣……、本物は高いぞ」
「そんなに高いの? 会社の人に頼まれたンだけど、お金足りるかな……。お母さんが末期癌なンだって。本物は日本じゃ買えないンだそうだ」
片仔廣の材料の一つの麝香がワシントン条約に触れるとかで、日本へ輸入できない。
「銭ならある。貸してやんべぇ」
「そうか……邑ちゃん、ありがとう」
施川が邑中の手を右手で包み込むように握った。
「あんれ、オメェの手、やっこいなぁ」
と言って、左手を添えた。
邑中の目に星が煌いた。
「よっ、よせッ! わしにその趣味はない」
と、施川が慌てて手を振りほどく。
「君たち、今日は同じベッドで寝なさい」
「うん」
「だ、誰がぁー」
ひと箱、一か月分で一万元(約15万円)というのを、三人で値切り倒して八千元に負けてもらった。
「ほんとうに安くしてくれたのかどうかはわからないけど、まあ、好意的に解釈して、善しとしましょう」
「うんだなぁ」
「邑ちゃん、金、借りておくよ。ずぅーっと……」
二、南翔饅頭の“小龍包”
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「そこの狭い路を曲がってくれ」
「ここね。おっ、なにこの行列?」
二百人ほどの行列が、狭い路地を二列縦隊でクネクネと続いている。
「小籠包」
「ショウ・ロンポー……、ってあの食う小籠包か?」
「食えねぇ小籠包てな、なんだ?」
「じぁーまし」
「くくくくっ…、“南翔饅頭”。ここは有名な店で、いつ来てもこんな状態だ。うちのスタッフも雨の日に買いに来るそうだ、雨が降ると行列が短いから」
「へーえ、そんなに人気があるのか。どれどれ……」
店頭では小籠包を作る実演を見せている。
熟練した小姐(女性従業員)たちが、団子状の練り物を延ばした餃子よりも小振りの皮に、実に手際よく具を詰めていく。
それを丸い木製の輪っぱに十六個並べ、輪っぱを十段重ねて蒸す。
ここはテイクアウト専門の売場で、値段は一パックに十六個入って八元(120円)だ。
好みで備え付けの酢を付けて食べる。
皮は若干モチモチしていて、齧ると中から熱い肉汁が泉の如く湧き出してくる。
この肉汁がうまいのだが、量が多く味に変化がないので飽きてしまう。
十八個は一人で食べるには多過ぎる。
出来上がるそばから客に手渡されていくのだが、行列は常に二百名以上で途切れることがない。
「これじゃあ、待ってられないな。一時間は待たされるだろう」
「ふんじゃいんねぇ」
「食おうと思えば二階でも食えるけど、どうする?」
二階に上がると左右に部屋がある。
左奥の“船舫庁”では、一階と同じ小籠包が十六個で十五元になるが座って食べることができる。
右奥“長興楼”で供される小籠包は“特製蟹肉小龍”と呼ばれるもので、六個二十元と一階の七倍近い値段である。
ここでは最低消費ラインとして、一人二十五元が設定されている。
それで終わりではない。
更に奥の“鼎興楼”には鱶鰭の小籠包がある。
値段は一階の実に三十倍、六個で八十八元である。
因みに、最低消費ラインはお一人様六十元である。
「焼肉食ったばっかしだかんな、へぇらめぇ…」
「わしはうまいモンは別腹だ。でも、今はいいわ」
三人は行列を横目に見ながら歩を進めた。
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「賑やかだねぇ、この辺りは。まさに邑中洗いだな」
「あんだ?」
「イモ洗い」
「あんで?」
「へいへい」
「邑ちゃん、キョロキョロして迷子になるなよ」
「うん……」
返事はすれど気は漫ろ。
「峪口ぃ、首輪しておいた方がいいンじゃねぇか」
「そうだな、放し飼いは拙いかもな」
「熊、離れるなよ。捕獲員が飛んで来るぞ」
「うん……」
三人は池の側の広場に出た。
しかしそこは、今まで以上に人で溢れかえっている。
「ひぇーッ! な、なんちゅう人出だ」
施川が驚嘆の声をあげた。
ジャンジャン、ドンドン、ジャンジャン、ドンドンと喧しいことこの上ない。
古の従者の衣装に身を包んだ先導者たちが、銅鑼や太鼓を打ち鳴らし、舞い、踊り、輿に皇帝の衣服を羽織った観光客を乗せ、狭い広場を一周する。
「いくらだ? 俺ぁも乗りてぇ…」
「邑、あんたは乗せる方だ。はぁい、お客さん。この熊と相撲を取って、買ったら千元もらえるよ。さあ、いらはい」
「俺ぁは金太郎か」
「謙遜するな、熊の方だ」
二十元を払って邑中が輿に乗った。
担ぐ男たちが“重いよ”とよろける格好をしたので、観光客からドッと笑いが起こった。
邑中はのん気にピースサインなどを出し、写真を撮れと促している。
「あれ、スターバックスじゃねぇか」
「ふんとだぁ。“すたーばっくす”って書ぇてある。外ぇ人がコーシー飲んでいるどぉ」
「平仮名でゆうな」
「あんだ?」
「おお、ここはラーメン屋か? 緑、波、廊……?」
「はははっ…、リュ・バ・ロウと言って、“点心”で有名な店だ。クリントンも寄ったそうだ」
「点心ちゃんね、ふーん……」
「クリちゃんが、ふーん……」
「熊、おまえがゆうといやらしいな」
ここも観光客の定番の店で、忙しく食事をしては次々に送り出されていく。
三、湖心亭
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「その橋が有名な“九曲橋”。ほら、真っ直ぐじゃなくて、折れ曲がっていだろう。九つに曲がっているから、九曲がり橋だそうだ」
「わかり易いな」
「ふんとだ。どれ、一、二、三……、なるほど九つだ。で、九曲がり橋か。あの建物はなんだ?」
「“湖心亭”といって、昔の楼閣だな。中でお茶が飲めるよ」
「タダで?」
「とんでもねぇ。一杯、四、五十元。とても高いよ。まあ、おまけでお菓子が付いたりするけどね」
「へぇってみんべぇ」
湖心亭は木造で、二階に上がる階段はギシギシと軋む音を立てる。
「おい、峪口ぃ。大丈夫かよ、この建物? 熊、おまえは下にいろよ、餌は投げてやるから」
二階は狭い空間に、立錐の余地もないほどテーブルと椅子が並べられている。
席はほぼ満席で、白人の観光客が景色を愛でながら、思い思いにお茶を味わっていた。
「こうなっているのか。なるほど、なるへそ、雰囲気があるねぇ」
「せっかくだからお茶を飲んでみようか。これが菜単だよ」
施川は菜単に目を落とし、
「ひやぁーッ! たっけぇーッ! それにしても種類が多いなあ」
など言いながら、
「わし、これにするわ」
と、“茉莉花茶”を指差した。
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「ジャスミン茶だけどいいのか?」
「そうなの。これでジャスミンか。いいよ、それで」
「そうか。じゃあ、俺は緑茶、龍井茶にしようっと。邑中はなんにする?」
「なんだよぉ、銭っ子出してお茶なんか飲むことあんめぇよぉ。バカらしい……」
「邑ちゃんはいらない、と」
「あ、駄目。俺ぁにもなんか頼んでくれぇ」
「ほれ、グダグダゆってねえで、なんか頼め。なんなら池の水でも飲むか」
「ふんじゃ、俺ぁ峪口と同じやつ」
「それじゃあおもしろくない。こっちにしよう」
「ん? どれだぁ…」
「これ、“菊花茶”」
「菊、って……、あんなモン飲めんのかぁ?」
「野生動物の胃袋なら、なにを飲んでも大丈夫じゃ。その点、わしは繊細だからな」
「なぁにが繊細だぁ。くへへへっ…、オメェは落っこちてるモン拾って食っても、でぇじょうぶだぁ」
「わしは犬か」
「犬が怒んべぇ」
「はいはい、小姐が怒ってるぞ。これでいいだろう?」
「…………」
「よしわかった。邑ちゃんは池の水、と」
「うんにぁ、駄目だよぉ。いいよぉ、そンで」
「おしおし、五十元」
「ご、五十、元……、こんな菊の花がぁ……」
「ブツブツとうるせえ男だなあ。ほれ、早く百五十元だせよ」
「なんでぇ、五十元だんべぇ」
「わしと峪口の分じゃ」
「ほうか、うんじゃ百元だ。施川の分は払う筋合いがねぇ」
「いいよ、一人五十元だ。ほれ、施川、おまえも」
「生意気に筋合いときたか。へーえ、おもしろいな、あれ」
施川が隣の客席を顎でしゃくった。
「わしのもああやって出てくるのかな?」
「いや、君のは違うと思う。ガラスのコップに茶ッ葉をぶち込んでお湯を注ぐだけ」
「なんだよ、それ。あらぁ~、ほんとだ。いいなあ、峪口のは……。あれ、熊のもだ。なんだかわし、損をした気がする」
出てきたお茶を目の前に、施川は不満気に呟いた。
「くへへへっ…、悪は滅びる。くへへへっ…」
「あっ、また勝ち誇りやがって。しかも標準語で」
「ほら、茶碗がいくつもあるから、これも飲めよ」
「あんがと。わしのは、色気もへったくれもねぇな。そこいくと峪口のは、如何にもお茶、って感じだな。それにしてもかわいい茶碗だな。まるでお猪口だ」
「ほれ、俺ぁのも、ほれ。ほれ……」
と、邑中が誇らしげに指し示したが、施川はそれを無視している。
「写真撮ろうか?」
「おお、峪口はいつも気が利くねえ。それに比べてこっちの熊は、ったくもう……」
「施川ぁ~、なんかゆったかぁ」




