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最終章 台風一過

一、惚れた、惚れた、惚れました


1


翌日の早朝、峪口は帰国する施川と邑中を見送るために“虹橋空港”へ向かっていた。

「いやぁー、峪口ぃ、楽しかったよ。悪いねぇ、こんな朝早くから」

「ご満足いただけましたか、施川さん、邑ちゃん?」

「うん、満足。余は大満足じゃぞ。また、ポイントが貯まったら来てもいい?」

「もちろん、お待ちしています。邑ちゃんもね」

「うん。で、なんだぁ、ポイントってなぁ?」

「まあ、チミにはあんまり関係ない話よ」

日曜日の早朝ということもあり、道路は空いていた。

タクシーは快調に飛ばす。

「今度はさぁ、どこかへ観光に行きたいなぁ」

「そうだな。上海は見るところがないからな。近場にいい場所がたくさんある。蘇州に杭州、それに南京、無錫、紹興に景徳鎮。高速道路が開通したから、ひとっ飛ばしで行けるよ」

「蘇州は俺ぁも知ってるど、“楓橋夜泊”だんべぇ。“張継”の作だ」

「おっ、おおおお……すごいねぇ邑ちゃん」

「ただのデブじゃねぇな」

「あっ、施川、そりぁ俺ぁの科白だ」

「月が落ちて、カラスがカァと鳴いて、なんとかかんとか、ってやつだろう。そのくらいは、わしでも知っとるわい」

「おおッ! てぇしたモンだ、見上げたもんだよ屋根屋の褌と。……月落烏啼霜満点、江楓漁火対愁眠、蘇州城外寒山寺、夜半鐘声到客船」

「なんじゃ、そら」

「中国語ではこうなる。こっちでは子供でも知っているよ」

「あらぁ~、そうなのぉ~」

「峪口もただの馬鹿じゃねぇ」

「あんがと、とても有名な詩だからね。日本にも良く知られているだろう。特に“寒山寺”は有名で、正月にはわざわざ日本から、鐘を突きに来るツアーもあるそうだ」

「へーえ、暇な日本人が多いなあ。中国人が迷惑するだろう」


2


「はっははは……大丈夫、中国の正月は旧暦だから、元旦は全く関係なし、本当に静かなモンだよ。日本人には寂しいくらいだ」

「なんだよぉ、餅は喰わねぇのかぁ。初詣もしねぇのかぁ」

「ああ、なんにもなし。一応、元旦は休みだけどね。以前はそれもなかった」

「日本の正月を舐めてンのかぁ。国際問題になんど」

「日中関係は君に任せる。へえ、そうなンだ。確か、旧暦だと毎年日にちが変わるンだよな。今年の旧正月はいつなの?」

「そのとおり。今日の施川さんはとてもおりこうさんだね。残念ながら、今年はもう終わったよ。その年によって一ヶ月くらいずれるからね。来年の正月はいつと訊かれて、正確に答えられる人はほとんどいない」

「ふんじゃあ、どうすんだよぉ?」

「なにが?」

「正月の歌だよ。も~う、い~くつね~ると、お正月~、って歌あんべぇ」

「それは日本の歌だろう」

「テレビで見たことある。あれは香港だったかな? 毎年爆竹で怪我人が絶えないとか」

「上海も同じさ。いや、それがさあ、ものすごいンだよ。大の大人が夢中で花火をあげまくるンだから。しかも五日間も。特に五日目がすごいンだ。お金の神様がどうとかこうとか言ってたな」

突然タクシーが車線を変えた。

「いてッ! おい、運ちゃん、安全運転で頼む。家で優しい母ちゃんとかわいい子供たちが、わしの帰りを待っているンだからよ」

「へっへへへ……、おんもしれぇ冗談だぁ」

「馬鹿者ッ! こう見えても、わしの家には愛があるンじゃ。君たちとは違う。それより、ほら周さん」

「ん? 周さんが、どうかしたか?」

「いやぁー、実に好い女だったねぇ」

「おっ、また始まった。ど助平が」

「ふふん、邑ちゃんは下品だね」

「また惚れたか?」

「うん。惚れた、惚れた、惚れました。かわいいあの娘に惚れました。次は一緒に旅行に行こう。峪口ぃ、セッティングしてちょうだい」

「バ~カ。やっぱし只の馬鹿だんべぇ」

「へへへへっ…、バカでもなんでも結構、結構。わしは人畜無害の善人じゃ」

「へぇへへへっ…、バカにつける薬はねぇってけど、ふんとだぁ」

「けぇけけけけ……」

タクシーが国際線ターミナルに到着した。



二、えっ、お土産は偽札!?


1


「いくら? わしが払うから、領収書をもらってよ」

「いいのか?」

「このくらいは経費で落とせるよ。ん? 三十五元。はい、五十元、釣りは」

「あんだぁ、経費かぁ…。俺ぁたち農民は、経費じゃおっことせねぇ」

「えッ! 施川、これ偽札だって」

運転手は五十元札を光に翳し透かしを確認し、手触りを確かめてから峪口に突っ返した。

「うっ、嘘ッ!」

「上海は多いンだよ」

「どうするのよ、これ?」

「どうしようもないな。警察に届けても没収される」

「そうなの……。じゃあこっちの札は?」

施川は別の百元札をつまみ出した。

運転手はその札も先ほどと同じように光に翳し、指で感触を確かめた。

「こっちはオッケーだって」

「チェッ! 峪口ぃ~、ほんものと代えてよ」

「嫌だよ。記念に持って帰れば。スナックでも行ったとき、女の娘にでも見せなよ」

「そうだな、その手があるな。うん、そうしよう」

「ほら、お釣りと領収書」

「あいよ」

「俺ぁにくんど。記念にするべぇ」

「駄目だよ。スナックの朱美ちゃんに見せるンだから」

「なぁー、俺ぁにくんどってばぁ~」

「しつこいなあ。どうするンだよ、偽札なんか?」

「村への土産話にすんだからよぉ。なぁ~」

「しょうがねえなあ。よし、じゃあ千円で売るよ」

「千円、ああ、ふんなら買うべぇ。うんでも、おもしれぇべよぉ」

「おお~、君は、ほんとは、善い奴だったんだなぁ」

上海の旅の途上、なんらかの買い物をして百元か五十元札を出すと、それを受け取った従業員は、すかさず紙幣の手触りを確かめ、蛍光灯の光にかざす。

偽札判別機にかける店もある。

そのときになんと失礼な、と怒ってはいけない。

偽札は全て没収されるので、真贋を確かめるのは従業員にとって、とても大切なことなのだ。


2


私(作者)が、或る朝いつものカフェで、コーヒーとサンドイッチを買って五十元札を渡すと、それを手にしたレジの小姐から、即座に、

「お客さん、これ偽札」

と突っ返されたことがある。

「えッ! でも、今これ、タクシーの……」

と主張しても後の祭りだった。

偽札に対する考え方も実に大らかである。

日本なら早速NHKニュースのメイン記事に取り上げられるが、こちらでは日常茶飯事のこと故三面記事にもならない。

戦争の話に触れると中国人は機嫌を損ねるが、こんな逸話が残っている。

日中戦争のとき、中国の経済を混乱させる目的で、旧日本軍が大量に中国紙幣の偽札をばら撒いた。

ところがそれを、中国政府は自国紙幣として使用し、混乱どころか大いに経済を援けた。

仮にババ(偽札)を引いても、警察や銀行に届け出るような愚を中国人は冒さない。

なぜならば、全て没収されて終わるからである。

そこでババ抜きよろしく、なんとか他の者に回すことを考える。

その結果、どうしても、偽紙幣の判別のできない外国人が多く掴まされることになる。

「いやぁー、今朝偽札をつかまされちゃったよ。あのタクシー、今度会ったら……」

と言う私の怒りを遮ったスタッフが、

「日本人には見分けがつかないでしょうね、まず無理でしょう。警察へ持って行ったら没収されますよ」

「ええーっ、じゃあ、どうすんのよ、これ?」

と、五十元札をヒラヒラさせる私に、

「どこかで使っちゃえばいいンですよ。タクシー司机(運転手)に掴まされたンだから、他の運転手に回せばいいじゃないですか」

と、事もなげに言う。

「でも偽札使ったら、日本では犯罪だよ」

「全く問題ありません。相手が気づいたら、ああそうですか、わからなかったと言って、別の紙幣を渡せば終わりです」

ですから、いつになっても偽札はなくならない。

また、中国が千元札などの高額紙幣の発行を躊躇する原因でもある。

中国ではかなりの割合で、偽札が混じっていることを覚悟しなければならない。

当然ながら、その割合は地方に行くほど高くなる。

地方には偽十元札もあると聞くが、手間と経費を考えると、果たして採算が取れるのかと疑問に思う。

噂によると、地方では村ぐるみで偽札を作っているところもあるそうだ。

そんなところにも、沿岸部と内陸部の所得格差の歪が顔を出している気がする。

旅行中に運悪く掴まされたら、上海旅行のお土産を買ったと思って諦めるしかない。

日本に帰国すれば、きっといい酒の肴になるはずだ。

「じゃあ、二人とも気をつけて帰れよ」

「ああ、また来るよ。峪口もタバコ、早く止めろよ」

「峪口ぃ~、世話かけたな。身体、気ぃつけろよぉ」

その日は、上海には珍しい、日本晴れを思わせるような紺碧の空が、虹橋空港の上空に広がっていた。



お終い


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