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隣国の王子がバラ園で吐きながら懇願する。「頼む、僕の婚約者を寝取ってくれ」

作者: 柏原夏鉈
掲載日:2026/04/20


至高の品格と、洗練された社交――。

ここ王立学園は、王国中の高貴なる血統が集い、その矜持を競い合う学び舎である。


しかし、正午を告げる鐘の音波が空間を震わせば、いかに着飾った少年少女とて年相応の無邪気さを露わにする。

食堂に満ちる喧騒の波動は、付け焼き刃の礼節が〝食欲〟という本能にいとも容易く上書きされることを物語っていた。


「先約があるから、ごめんね」


昼食に誘う級友たちが発する音を、優雅な一礼とともに辞退する。

喧騒を背にボクが足を向けたのは、華やかな学園の波動から切り離された西端の地であった。


そこには、朽ち果てた鉄門が沈黙を守っている。力なく揺れる〝立入禁止〟の札。

十年前の災厄――薔薇を枯らし尽くした病害によって、人々の記憶から零れ落ちた〈忘れられたバラ園〉。


錆びついた門をくぐり、ボクが独自に編み上げた多重積層型魔導障壁の境界線をまたぐ。

その瞬間、環境は劇的な変貌を遂げた。


肌を刺す寒風のデータは霧散し、春の陽だまりのような、柔らかな温もりの情報がフィードバックされる。

頭上の空間を走査すれば、半透明の虹色のドームが、空の光を透かして幻想的に揺らめいているように認識された。


ボクが構築したこの障壁は、荒ぶる雨風も、忌むべき害虫も、そして大気中の不純な魔素さえも完全に遮断する。


ここは、魔導の粋を集めた温室であり、同時に――ある尊き方を守護するための〝ゆりかご〟であった。


認識空間を埋め尽くすのは、狂おしいほどの生命力。

本来なら存在し得ない〝青〟の薔薇を筆頭に、虹の欠片を敷き詰めたような色彩が咲き乱れている。

棘の鋭さから花弁の厚みに至るまで、野生のそれとは比較にならないほど完璧に調整されていた。


庭園の中央に鎮座するのは、白亜の東屋ガゼボ

学園の寄宿舎にある無骨な椅子など比較にもならない、私の領地から密かに取り寄せた〝人を堕落させる〟魔獣の毛皮ソファをしつらえてある。

傍らには、魔導結晶を核とし、蛇口を捻るだけで常に九十度の熱湯を供する自作の給湯器があり、いつでも優雅な茶会が開けるのだ。


居場所を失った一人の王女のために、ボクが持てる技術のすべてを動員して創り上げた、世界で最も快適で、最も閉ざされた聖域。


さて、今日も愛おしき我がきみと、心躍る語らいが始まる――はずだったのだけれど。


「……う、おぇっ……! 頼む、……婚約破棄してくれ……っ!」


東屋に続く、美しい大理石のタイルの歩道に、一つの〝物体〟の存在反応がある。

それは激しく振動しながら、断続的に〝なにか〟を排出し続けていた。――ああ、吐瀉物か、と識別する。


普通の人なら、その状況に眉をひそめたり、あるいは強烈な悪臭に鼻をついたりするのだろう。

けれど、ボクはひょいっと〝物体〟の座標を避けて通り、庭園の中央、白亜の東屋へとたどり着く。


そこには、ボクの愛しの王女が待っていた。


「……おかえりなさいませ、ハイドさん」


王女イリシュ。

彼女は深く腰掛けたまま顔を青ざめさせ、東屋からも明確に感知できる遠方の〝物体〟に意識を集中させていた。

ボクは手に持っていた弁当箱をテーブルに置き、彼女の意識のベクトルを遮らぬよう脇を抜け、後ろを振り返る。


「ただいま、イリシュ。昼食の準備が少し遅れてごめん。……それで、これはどういう状況?」


ボクは一度だけ、背後の入り口付近で今なおのたうち回っている〝男〟の存在反応を捉える。

感覚インターフェースに表示されたプロフィールには、彼がそんな場所でうずくまっているべきではないことが示されていた。

そして、下級貴族である男爵家の嫡男でしかないボクでは、本来、この場への同席は許されないことも理解する。


彼は、王女イリシュの婚約者にして、隣国の王子バイカ。

先触れもなく、隣国の王立学園にいて良い存在ではない。何かの視察という名目なら、全生徒に通達があってしかるべきだ。

今、たった一人で、〈忘れられたバラ園〉でうずくまり、顔を覆い、苦しみながら訴えている。


イリシュの気配が、言葉を失ったようにボクに向けられた。

彼女の魔力の揺らぎには、婚約者が地獄の苦しみを味わっているというのに、一ミリの嫌悪感も同情も見えず、ただ困惑の色が浮かんでいるだけだった。


「わたくしも、よく分からないのです。バイカ殿下は急にこちらへ現れて、ずっと、同じことを叫び続けていらっしゃいますの」


「婚約破棄してくれ! 頼む、……もう他に手はない、耐えられないんだ!」


王子の喉から迸る絶叫の波動。震える王女の魔力。そして、その状況をただ観測するボク。


「婚約破棄……? できないよね?」


ボクはイリシュに問いかけた。下級貴族とはいえ、貴族のルールは知っている。

イリシュは王女、バイカは隣国の王子。この婚約は、高度な政治背景を持つ、いわゆる〝政略結婚〟だ。

本人たちがどれほど頭を下げて望もうとも、婚約破棄できるわけではない。


「ええ、できませんわ。互いの王家の決め事。わたくしも、バイカ殿下も、その意志が介在する余地はございません。介入も不可能です」


顔を覆っているので詳細な生体情報は読み取れないが、地面にはバイカが嚥下したものが散乱している反応があり、滝のように分泌物が流れ出ている。

バイカは答えた。


「わかっている。これまでもあらゆる手段を用いて、この婚約を破談にできないものかと探ってきた。一時は、王女を暗殺することさえ考えた」

「それ、本人を前にして言っちゃだめなやつじゃないかなぁ……」


ボクのつぶやきは彼には届かず、バイカは続けていった。


「しかし、あまりにも強固に二国は結びつくことを望んでおり、もはや穏やかな手段ではこの婚約を覆すことなどできぬ」


ボクは首をかしげながらイリシュに尋ねる。


「暗殺って、穏やかじゃないよね?」

「いえ、穏やかな方法と言えるかと。上手くやれば、ですが」

「貴族、怖い」


ボクとイリシュのやりとりをしっかり認識していたバイカは、これに答えた。


「馬鹿なことも考えたさ。私が愛人を傍らに抱えながら、君に向かって婚約破棄を宣言しようか、と」

「わお、定番だね!」


なるほど、話には聞いたことがあったけれど、本当にそんなことを考えるんだなぁと、ボクは少し感心した。

でも、イリシュはすぐに否定する。


「……いえ、愚かと言わざるを得ませんわ。その愛人は亡き者にされ、事実は決して誰の口にも上らぬよう、念入りに潰されるでしょう」

「ああ、そのとき、私もただ生きる肉塊と化して王座を飾る花となるのだろう」


にくかい、ってことば。


「貴族、怖い」

「まるで他人事のように話しているが……、ハイド! 君に頼みがある!」


「え、ボク?」


他人事のように、というが。――他人事だ。

ボクは、下級貴族の子息というだけで、この王立学園に嫌々通っているだけの男だ。


たまたま、王女と知り合いになって、昼食を共にする仲になったけれど、それはこの〈忘れられたバラ園〉だけの関係だ。


一歩外に出れば、気安く名前を呼ぶことすら許されない。

爵位という階級は、この王立学園の中でも、そして貴族社会の中でも、絶対のルールなのだ。


「こうして、我が身で体験し、そして、我が目で見て、確信を得た。君だけが、この忌々しい鎖を断ち切ることができる存在だ」


「――バイカ殿下は何を?」


意味がわからず、通訳をお願いすべくイリシュに意識を向けたのだが、なぜかイリシュもまた、大きくうなずいていた。


「ええ、そうでしょうね」

「ごめん、イリシュ。ボクは多少は魔法を使うけど、それでも婚約破棄をする魔法なんて知らないよ?」


「わたくしは、あなたほどの〝魔法使い〟を他に存じませんが……。いえ、魔法ではございません。純然たる貴族の規則を使うのです」

「ますますわからない」


何を言っているのか全くわからないが、バイカ殿下は大きな声で賛同した。


「やはり、イリシュ王女もお気づきか。この状況を打破する唯一の道に」

「ええ。バイカ殿下には申し訳ありませんが、わたくしも、この縁談にはいささか思うところがございましたので、可能性としては、考えておりました」


「……」


二人の思考が同期している。さすが王族同士、さすが婚約者同士、ということだろうか。

そのどちらでもないボクには全くわからないけど、ボクだけが二人の絆であり鎖でもあり、婚約を破談させることができるらしい。


「それで、その方法は? イリシュが婚約破棄したがっているのは、以前にも聞いたから協力は惜しまないけど……。ボクに何ができるの?」


イリシュは、まっすぐにボクへと意識を集中させ、熱っぽく言った。


「平たく言えば、わたくしを、襲ってくださいまし」

「はい?」


おそう、の意味がわからない。


「頼む! ハイド! イリシュ王女と関係を持ってほしい。彼女の〝純潔〟が奪われたとなれば、間違いなく婚約は破棄される」

「かんけい?」


かんけいをもつ、の意味がわからない――。いや、もう、とぼけるのも難しいか。


王族の婚姻とは、個人の感情や愛着などは微塵も介入できない〝神聖にして不可逆な契約〟である。

二つの国家、二つの血脈が混じり合い、強固な同盟を構築するための楔。


その契約を成立させるための絶対条件こそが、女性側の〝純潔〟に他ならない。


高貴なる血を引く乙女の身体は、個人の所有物ではなく、家門の、ひいては国家の〝公共財〟であり〝担保〟。

その清らかな血こそが、次代の王位継承者が〝真正なる血統〟であることを証明する唯一の確証であり、婚約の履行を保証する絶対的な証なのだ。


もし、婚姻の儀を前にしてそれが損なわれるようなことがあれば、それは単なるスキャンダルでは済まされない。

国家に対する背信であり、神聖な契約の土台を根底から破壊する〝瑕疵かし〟となる。


一度でも他者の色が混じれば、その〝担保〟としての価値は瞬時に奈落へと転落する。


いかに強固な政治的背景があろうとも、汚された血を受け入れることは、隣国の王家の威信を泥に塗ることを意味する。

ゆえに、貞操の喪失は、両国がどれほど望もうとも婚約を維持できなくなる、不可避の〝破断条項〟だ。


「ボクは、下級貴族の子息。王家がふーっと息を吹けば、吹き飛ぶような存在だ。そのボクが、王女と――、ベッドを共にしろと?」


「はい」

「そうだ」


嫌々通うことになった王立学園で、ボクは、婚約者の懇願によって、王女を寝取れ、と言われているらしい。



・ ^ ・ ~ ・✿・ ~ ・ ^ ・



この奇妙な依頼に至るには、まず、彼女との出会いから語らねばなるまい。

あれは、一月ほど前のことだ。


「やばい、やばい、やばい……!」


ボクは、寄宿舎の重厚な石造りの廊下を、革靴が発する衝撃音も高く鳴らしながら全力で疾走させていた。

感覚インターフェースの端に浮かぶ魔導時計の針は、一限目の開始時刻を無慈悲にも数分ほど追い越している。


寝坊だ。昨晩、つい夜更かしをしてしまったのが運の尽きだった。


ボクの左右には、歴代の賢者や英雄たちの肖像画が並び、そのデータに付随する「厳しい眼差し」という概念情報が、〝不真面目な劣等生〟を圧迫する。


ここは王立学園。王国中の青い血が集う、文字通りの伏魔殿だ。

この学園において、最も重んじられるのは〝成績〟でも〝魔法の才〟でもない。


〝爵位〟、それだけだ。


ここでは、生徒たちは皆、互いの爵位を探っている。容姿や性別など二の次だ。

家の爵位が、自分よりも上なのか、下なのか。それを認識してから、自分の言動を切り替える。


そういう意味では、ボクは気が楽だ。だって、ここで一番低い爵位なのは、間違いないのだから。

廊下ですれ違う上級貴族の生徒たちの生体反応は、ボクを捉えても、魔力を眉一つほども動かさない。動かす必要もない。


「……本当、来たくなかったんだよね、ここ」


ボクは毒づく。


この国において、貴族の子息には〝王立学園への通学〟という名の義務が課せられている。逃げ道はない。

どんなに魔法の研究に没頭したくても、どんなに社交界の虚飾を嫌っていても、この檻の中で数年間を過ごさなければならないのだ。


従わないものは、王家への反意と受け取られ、無情にも処刑される。

ここは学問を学ぶ場所じゃない。階級社会での、自分の立ち位置を、魂に刻まれる場所なのだ。


ボクのような田舎の男爵家――つまりは〝数合わせ〟に等しい下級貴族にとって、この学園は呼吸をするだけで精神が削られる場所だった。


「……よし、あそこを抜ければショートカットだ」


ボクは校舎の廊下という高密度の空間を避け、手入れの行き届いた内庭へと足を踏み入れた。


左右に整えられたツゲの生け垣と、噴水が奏でる涼やかな音の波動。

本来なら昼休みに高貴なご令嬢たちが優雅にお茶を楽しむ場所だが、今は授業中だ。人影はないはず――。


「……あれ?」


噴水のほとり、一本の大きな木の影に、一つの人影を感知した。


そこにいたのは、陽光を反射して白く輝くようなシルエットとして認識される少女だった。

彼女は教室へ向かう気配もなく、ベンチに座って、ただじっと、地面に咲く名もなき雑草のあたりに意識を固定している。


(ああ、なるほどね)


ボクは直感的に理解した。彼女も、ボクと同じなのだ、と。

そう思うと、深く考える時間すら惜しみ、すたすたと近づいて――。


「君も寝坊でもした? 奇遇だね、ボクもなんだ! だから、一緒に行こうか? 二人で行けば、気まずさも紛れるよ?」


ボクは屈託のない笑顔でもって、彼女に声をかけた。


きっと彼女は、貴族令嬢らしく規律を重んじるあまり、一度の遅刻に心を痛めて教室に入る勇気を失ってしまった、真面目すぎるお嬢様なのだろう。

二人で同時に教室に飛び込んで「すみません!」と頭を下げれば、教師の小言も半分で済むかもしれない。


「……え?」


少女の意識がゆっくりとこちらへ向けられた。

彼女は、まるで生まれて初めて他人から話しかけられた、と言わんばかりの驚きようで、ボクの存在を精査している。


(……あ、ちょっと待って。この子……)


感覚インターフェースに、無機質な情報が展開される。

そこに表示された文字列を読み取り、ボクの背筋に冷たい感覚が走った。


【個体識別:イリシュ・フォン・アルカディア】

【属性:第一王女 / 王位継承権第2位】

【備考:筋肉王女】


「…………」


(わお……)


この学園の、――ひいては、この国のヒエラルキーの頂点。


王女様が、なぜこんなところで、授業が始まっている時間に、一人で佇んでいるのか。

その理由はわからないが、今のボクは、死刑台に自ら首を乗せたようなものだ。


彼女が「不敬」の一言でも呟けば――。

どこからともなく、訓練された特殊な工作員が、ボクを破壊しにくるのかもしれない。

……まあ、簡単にやられはしないけど。


けれど、彼女をじっと観測してみても……。


彼女の纏う〝魔力〟の波長からは、怒りも、不快感を示す揺らぎも、読み取れなかった。

あるのは、困惑を示す透明感と、ほんの少しの……薄桃色に染まる好奇心。


「あはは……。ごめん、急に話しかけて。ボクはハイド。田舎男爵の子息なんだ」

「…………ハイド、さん?」


ボクは後頭部を掻く仕草をさせながら、なるべく軽薄そうに、けれど精一杯の親愛を込めて告げた。


ここで怯えて跪けば、それこそ〝貴族としての無作法〟を認めることになる。

だったら、いっそ〝礼儀を知らない田舎者〟を演じきったほうが、この場は丸く収まる気がした。


「うん。貴族らしい振る舞いには、どうも慣れてなくてさ。……ねぇ、イリシュ王女様。君も寝坊したの? 侍女が意地悪して起こしてくれなかったとか?」


それが、ボクと、孤独な王女との最初のコンタクトだった。



<イリシュ視点>



視界の端で、一羽の小鳥がわたくしの存在に気づき、短い悲鳴のような鳴き声を上げて逃げ去っていきました。


いつものことですが……、慣れません。


わたくし、イリシュ・フォン・アルカディアは、この王国の第一王女であり、王位継承権第二位という身の上です。


けれど、その数字に意味などありません。

すでに隣国の第一王子、バイカ殿下との婚約が定められており、わたくしはいずれこの国を去る身。

王冠を継ぐことも、この土を踏みしめ続けることも叶わない、言わば〝期限付きの客人〟のような存在なのです。


それでも、この王立学園に通うことは避けられません。

貴族の子息には、この学び舎で〝階級社会の真理〟を魂に刻み込む義務があるからです。


王家がその頂点に君臨することで、初めて美しい階級制度は完成する。

秩序のため、わたくしはここにいなければならない。


しかし、わたくしには、あまりに致命的な〝特異性〟がありました。


生まれ持った魔力と存在感が、あまりに強大すぎたのです。


わたくしがただそこに佇むだけ。


それだけで、周囲の空気は鉛のように重く沈みます。

他者を威圧するどころか、文字通り押しつぶさんばかりの〝圧〟となって放たれてしまうのです。


それは、教育や礼節で抑え込める範疇を超えていました。


ゆえに、わたくしは教室に席を置くことができません。

わたくしが教室に入れば、他の生徒たちは恐怖で呼吸を乱し、ペンを握ることさえ叶わなくなる。

わたくしの存在そのものが、授業という平穏を破壊してしまうのです。


学園と王家の間で交わされた密約により、

わたくしは〝義務として二年間は登校はするが、授業には出席しない〟という奇妙な特別措置を認められました。


王女としての教養はすでに個別の家庭教師から履修済み。

卒業と同時に嫁ぐ身であれば、これは最も合理的な解決策でした。


これに異論はありません。

ただ、一つだけ不満を挙げるとするならば――わたくしには、この広い学園のどこにも、居場所がなかったことです。


他の生徒と接触しないよう、逃げ回る毎日。

本来なら最も居心地が良いはずの図書館も、わたくしが足を踏み入れれば誰も利用できなくなるため、立ち入ることは許されません。

結果として、誰もいない中庭の木陰で、独り本を読んで過ごすのが日課となりました。


けれど、今日は不思議と心がざわついています。


――なんでしょう、胸がドキドキと高鳴るのを感じるのです。


いつも感じている不安や寂しさなどは、本を読んで、その世界に没頭することで忘れることができました。

でも、今日に限っては、愛読書を開く気にもなれず、ぼうっと地面を見つめていたのです。


そこへ〝輝く光〟が飛び込んできました。


「君も寝坊でもした? 奇遇だね、ボクもなんだ! だから、一緒に行こうか? 二人で行けば、気まずさも紛れるよ?」


心臓が跳ね上がりました。

顔を上げると、まぶしいほどの笑顔で、わたくしに話しかけてくる男子学生がいました。


見たことのない顔です。


しかし、その姿を目にした瞬間、わたくしの思考は真っ白に染まりました。


「……」


声になりません。


まず驚いたのは、彼がわたくしの傍に立って、平然と呼吸をしていることでした。


わたくしの周囲に渦巻く、他者を撥ね退けるはずの魔力の奔流。

それに触れれば、並の人間なら肌を刺す恐怖に膝をつくはずです。

それなのに、彼は春風に吹かれる花のように、屈託のない笑みを浮かべてそこにいます。


そして、そのかたち


(なんて……美しい方……)


思わず、持っていた本を落としそうになりました。


そこにいたのは、わたくしが密かに理想としていた、どの物語の挿絵よりも完璧な造形の少年でした。


すっと通った鼻筋に、夜露を湛えた花びらのような唇。

男子生徒の制服を身にまとっていなければ、高貴な血を引く令嬢だと言われても疑わなかったでしょう。

中性的で、どこかこの世のものとは思えない儚さを纏ったその姿は、森の奥深くに住まう、気まぐれな妖精のようでもありました。


それでいて、向けられる瞳はあまりに温かく、真っ直ぐで。


わたくしを〝王女〟として恐れることも、〝異物〟として忌避することもなく、ただの「同じ学園の生徒」として見つめている。


ドクン、と。


地面を見つめていた時には感じなかった、激しく、暴力的なまでの鼓動が胸の奥で暴れ始めました。


王女として生を受けて十数年。

わたくしに対して、これほどまでに気安く、恐れもせず、声をかけてきた人間はいません。


――いて良いはずがありません。わたくしは王女なのですから。


「あはは……。ごめん、急に話しかけて。ボクはハイド。田舎男爵の子息なんだ」

「…………ハイド、さん?」


その名前には、聞き覚えがありました。


本人は〝田舎男爵〟などと自嘲していますが、〝決して彼を不快にさせてはならない〟という、厳重な通達が回ってきていたのです。

王女であるわたくしにさえ、その通達は伝えられている。それはつまり、通達の出所は、陛下だということを意味します。


理由は明かされていません。ただ、彼が〝ただ者ではない〟ことだけは、わたくしも察していました。


「うん。貴族らしい振る舞いには、どうも慣れてなくてさ。……ねぇ、イリシュ王女様。君も寝坊したの? 侍女が意地悪して起こしてくれなかったとか?」


わたくしを王女だと認識した上で、彼は一切態度を変えません。

そのあまりの自然体に、わたくしは戸惑いながらも答えていました。


「いえ、わたくしは、授業を受けませんので」

「へえぇぇ! すごい! うらやましい! それが最高権力ってやつ?」


うらやましい? この状況が? 代わってあげられるなら、喜んで代わって差し上げたいですわ。


「い、いえ、そうではなく、わたくしがいては、皆様の勉学の妨げになってしまいますから。見ての通り……」

「そっか、気を遣っちゃうってことか」


この人は、わたくしの何を見ているのでしょう。見ればおわかりになるはず。私がどういう存在なのか。


「え、あ……いえ、違います。わたくしの放つ〝圧〟が、皆様を……」

「え、じゃあ、授業の間、どうしてるの?」


あえて、見ていない振りをしている、ということもありませんわね。魔力を見ていればわかります。


彼はわたくしの言葉を、まるで些細な悩み事のように軽々と受け流していきます。


「――あ、はい。こうしてここで本を読んでいることが多いですわ」

「そうなんだ。今日はまだ暖かいからいいけど、寒いときとか、雨の日は?」


「ここにいます」

「え、屋内に入らないの?」


「他の方の居場所を奪うようなことはできませんから」

「うわぁ、王女様なのに気を遣いすぎなんじゃない? 図書館とか占拠すれば良いのに」


「いえ、そういうわけには――」

「でも、そっか。居場所がないんだね。せめて環境だけでもどうにかしたほうがいいよ、寒いでしょ、ここ」


「魔法で、ある程度は遮れます」

「えー、それ、疲れない? 設置型にしておけば、あとは魔力供給だけで済むのに」


「で、ですが、休憩時間にはここは離れて、他の方に明け渡しますので、設置型というわけにも……」


わたくしが説明しようとするそばから、彼の瞳が爛々と輝き始めました。


「あ! そうだ! ボク、良い場所を知ってるんだよ! 前から目をつけていたんだ。誰も来ないから、あそこに設置型のフィールド魔法を常時展開しておいて――」


彼は、こちらの返事を聞こうとはしません。


自分の頭の中で勝手に納得し、勝手に解決策を組み立て、あろうことか「じゃあ、ついてきて!」とわたくしの手を取らんばかりの勢いで誘うのです。


最初はためらいました。

けれど、彼の「いいから!」という強引な、けれど悪意の欠片もない誘いに抗うことができず、わたくしは導かれるままに歩き出しました。


辿り着いたのは、学園の西の端。


かつての災厄で廃墟と化した、今は〝立ち入り禁止〟の札が虚しく揺れるバラ園でした。


「まずはフィールド構成。環境変数は常春テンプレで……せっかくバラ園なんだからバラを創生しよう。カラフルな方が良いよね。いちおう、王女様なんだからセキュリティは整えて、と」


彼が呪文とも独り言ともつかぬ言葉を紡いだ瞬間、世界が震えました。


展開される魔法構成の緻密さ、多重に積層される術式の深淵――。


王族として、この国で最も高純度な魔法に触れてきたわたくしですら、これほどの術を見たことがありません。


それはもはや魔法という次元を超え、神話の具現に近いものでした。


見る間に、枯れ果てていたバラ園に生命が吹き込まれていきます。

時間を巻き戻したかのように、あるいはそれ以上に鮮やかに、狂おしいほどの色彩が咲き乱れ、中央には真っ白な東屋が屹立しました。


「ここが、今日から君の居場所だよ。誰にも邪魔されないから、安心して。雨風も防ぐようにしてあるし、気に入って貰えると良いんだけど」


そう告げて笑うハイドさん。


生まれて初めて、自分を〝怪物〟としてではなく、ただの〝居場所を求める一人の人間〟として扱ってくれた。


この瞬間から始まったこの穏やかな時間と空間。

まさかあのような〝婚約破棄の懇願〟に繋がるとは、その時のわたくしには知る由もなかったのです。



・ ^ ・ ~ ・✿・ ~ ・ ^ ・



あの日から、虹色のドームに守られた〈忘れられたバラ園〉は、今日も春の木漏れ日のような穏やかさに満ちていた。

東屋のふかふかなソファに深く腰掛けたボクは、手元の本をぱたんと閉じると、隣で刺繍を嗜んでいたイリシュに無造作に差し出した。


「イリシュ、借りていた本、読み終わったから返すよ」

「ハイドさん。ずいぶん熱心に読んでいらしたわね。わたくしがお薦めした本、気に入っていただけたかしら」


イリシュが刺繍の手を止め、慈しむような微笑みをボクに向ける。


「恋愛っていうものがよくわからない。――そうボクが呟いたとき、これを読めばわかるかもと、君がお薦めしてくれたけど――」

「ええ、そうですわね」


「……やっぱり、分からないままかも」

「ふふふ、そうですか。でも、何か感じるところはありませんでしたか? 率直な感想を教えてくださいまし」


「そうだね……」


ボクは、腕組みしながら、さっきまで読んでいた本の内容を、脳内でリプレイする。


主人公の令嬢は、家柄も容姿も完璧な、非の打ち所がない人物。

しかし、彼女には誰にも言えない秘密がある。彼女は、幼馴染の騎士に恋をしているのだ。


だが、貴族と平民の結婚は厳しく禁じられている。


彼は平民出身の騎士で、彼女は高貴な公爵家の令嬢。

二人の間には、決して越えられない壁がある。


彼女は自分の気持ちを押し殺し、彼には冷たく接する。

彼を傷つけないために、自分の気持ちを悟られないようにするために。


だが、彼もまた、彼女に恋をしている。

二人は互いの気持ちを知りながら、決して言葉にすることはない。


ただ、互いの存在を認識する瞬間、そこには秘められた愛の波動が感じられる……。


「好きなら好きって言えばいいのに、なんですぐに言わないんだろう?」

「それは……」


それが、ボクの〝率直な感想〟ってやつだった。

貴族という星の下に生まれた以上、自由に結婚はできないというのは、理解している。

ボクとイリシュだって結婚できない。


ボクは田舎男爵の嫡男で、イリシュは第一王女だ。

ましてや、イリシュはすでに隣国の王子の元に嫁ぐことが決まっている。


「でも、さ。好きなことを伝える、その行為は、誰にも止められない、って思う」

「……」


「もちろん、伝えたからと言って、二人が結ばれることはないけど。二人の関係はきっと変わるよね」

「……ええ。おっしゃることは理解できますわ。でも――」


イリシュの生体反応に、困惑の色が浮かぶ。眉が少しきゅっと上がっているように、脳内で映像が補完された。

けれど、小さな子供にルールやマナーを言い聞かせるように、ボクに優しく諭した。


「令嬢が、自らの気持ちを相手に伝えるなど、ありえませんわ」

「どうして? 恥ずかしいから?」


「もちろん、恥じらいもあるでしょう。それに、貴族令嬢には慎ましさが求められますから。気持ちを胸の内に秘めることは、ごく自然なことですわ」

「そうなんだ」


そう呟いて、納得しそうになったけれど、ボクの思考には別の疑問が湧いて出る。それをすぐに口にした。


「でもさ、早く気持ちを伝えないと、好きな男が他の令嬢に取られるかもしれないのに」

「えっ……?」


イリシュの魔力が、驚きと、恐ろしさも含んだ複雑な波形を示した。


「そうでしょ? その本の中でも、主人公の令嬢は何度もやきもきしてたじゃないか」

「ええ、そうですわ。素敵な幼馴染の騎士は、他の令嬢からもよく声をかけられますの。その度に、心を痛めるのです」


「取られちゃったら、さ。もう一緒に笑ったりできない。なのに、どうして黙っているんだろう」

「……」


「ボクなら、大切だと思ったらすぐに捕まえちゃうな。こんな風に」


ボクは両手を広げて、この〈忘れられたバラ園〉の空間を示す。ここは、学園内で居場所のないイリシュの、唯一の居場所。

イリシュを守るための〝籠〟でありながら、同時に閉じ込めておくための〝檻〟でもある。


ボクが屈託のない笑顔で彼女を見ると、イリシュは胸の奥を射抜かれたように、わずかに体温を上昇させ、意識を彷徨わせた。


「あなたらしい、強くて、そして真っ直ぐな感情ですわね。そういうところを、好ましく思います。でも――」

「うん?」


「この本の主人公も、決して、何もしていないわけではありませんの」


イリシュは、愛おしそうに本の表紙を撫でながら、意識を落とす。

その仕草は、つい見惚れてしまうほどに、美しく、儚げなイメージとして再構成された。


彼女は優しく言った。


「彼女は恋をしているのです」

「……どういうこと」


「殿方は、恋愛とは二人が結ばれるという結果を求めるものと考えがちですが……」

「うん」


「恋愛とは、相手を想うとき、胸が高鳴り、ドキドキしている、この気持ちのことを言うのです」

「気持ち……」


「ええ。そして、こんな気持ちがずっと続けば良いのに、と想っています。長く続けば続くほど、幸せだと」

「好きとも言わず、相手も自分を好きかもしれない、っていう、宙ぶらりんの状態なのに?」


「そうです。想いを告げてしまえば、答えが出てしまいますわ」

「うん……」


「それは望まない答えかもしれない。こうして側にいられる〝今〟を続けている限り、つらくなる答えは聞かずに済みますもの」

「でも、それは――」


「ええ。おっしゃりたいことは、わかります。先送りでしかない、と」

「……」


「けれど、恋愛とは、答えの出ない『今』を慈しむこと。相手を想って胸が鳴る、その一瞬一瞬を、できるだけ長く、永遠に近く引き延ばしたいと願う……それが、わたくしの思う『恋』ですわ」


イリシュは、少しだけ熱を帯びた声音でそう締めくくった。

けれど、ボクは彼女のティーカップに新しいお茶を注ぎながら、首を傾げることしかできない。


「うーん……。正直、やっぱりよくわからないな。ボクからすれば、目的地があるなら、最短距離で移動したほうが効率がいいと思うんだけど」

「ふふ、ハイドさんはどこまでも合理的ですのね」


イリシュは力なく笑い、その意識をボクから外して、ドームの向こう側――ぼんやりと霞んで認識される王立学園の校舎へと向けた。


「でも、わたくしには許されていません。時が来れば『出荷』されるだけの存在。わたくしの意思も、胸の高鳴りも、何の価値もありませんわ」


『出荷』――隣国に嫁ぐことを言っているのだろう。


王女である彼女の口から出たその言葉は、あまりに無機質で、冷ややかだった。

その一言で、彼女がこの婚約を望んでいないことが、如実にデータとして示された。


「せめて物語の中だけでも……。胸を痛めたり、誰かを想ってドキドキしたい。それは、わたくしに許された唯一の贅沢なのです」


彼女の声は、祈りのようでもあり、遺言のようでもあった。


ボクはティーポットを置き、彼女の横顔として構成されたイメージをじっと見つめる。

その横顔があまりに綺麗で、けれど今にも消えてしまいそうなほど儚かったから。


ボクは、ふっと思いついた疑問を、天然を装って口にした。


「ねえ、イリシュ。君は、今は『ドキドキ』してないの?」

「……っ!?」


イリシュの生体反応が、大きく跳ね上がった。

彼女は顔を真っ赤にしているのだろう、信じられないものを見るような強い魔力の指向をボクにぶつけてくる。


「な、な……っ。何を、何を仰っていますの、ハイドさん!?」

「いや、だって。ボクは今、すごく楽しいよ。君とこうしてお茶を飲んで、本の話をして……」


「わ、わ、わたくしも、同じ――」


「これがもし、君が言う『恋愛のドキドキ』に近いものなんだとしたら。――望むなら、この時間を無限に引き延ばすことだってできるよ」


ボクはさらりと言ってのけた。

驚愕に固まるイリシュの生体反応をよそに、ボクは虚空に指で魔法陣をいくつか描く動作をした。


「この空間に限っていえば、外と中の時間の進み方を変えられるよ。外の1秒を、ここでの1年に変えることだって、できる」

「え――。そんなこと、できるはずが……」


絶句する彼女。まあ、世間で知られている〝程度〟の魔法技術ではそうなんだろう。


「どう? 君がもし、本当に出荷されるのが嫌で、この『今』を永遠に続けたいと願うなら、ボクはそれを叶えてあげられるけど」


イリシュは言葉を失っていた。

ボクの提案は、魔導の極致であり、同時にこの世界の摂理を無視した傲慢な誘惑だ。


「……、え。……」


彼女の魔力の奥に、烈しい渇望の揺らぎが浮かんだのをボクは見逃さなかった。


義務も、血統も、王女という役割もすべて捨てて。

この虹色のドームの中で、ボクと二人きり、永遠に終わらない午後を過ごす。


その甘美な誘惑に、彼女の心は激しく揺さぶられたに違いない。

けれど、彼女の唇から零れ落ちたのは、震えながらも、気高く、毅然とした拒絶だった。


「……いいえ。お気持ちだけで十分ですわ、ハイドさん」


彼女は背筋を伸ばし、王女としての完璧な微笑みをボクに向けた。


「わたくしは、アルカディアの第一王女。この身を国に捧げることは、わたくしの誇りであり、使命ですから」

「……」


「使命から逃げることは、わたくしの美学に反しますわ」

「そっか。わかった。君の意志は尊重するよ」


ボクは少しだけ残念に思いながら、けれど彼女らしい答えに満足して、毛皮のソファに深く体を沈めた。


「でも、今はまだ、その使命を果たす時じゃないでしょ。昼休みの終了までは、あと少しある」

「……ええ」


ボクは、くいっとティーカップをあおり、そして言い放つ。


「今だけは、使命を忘れていい。ここには、快適なソファと、美味しいお茶と、君の好きな本の話。――そして、それらを面白がっているボクだけ」


イリシュは、ふう、と深く、長く息を吐き出した。

張り詰めていた身体の緊張が抜け、彼女は再び、穏やかな少女の気配に戻る。


「……そうですわね。今は、まだ。この暖かな空間で、もう少しだけ……」


彼女はそっとカップを口に運び、熱いお茶の温もりを噛みしめるように飲み下した。


外の世界では、残酷な時間が一刻一刻と彼女を『出荷』へと近づけている。

けれど、この聖域の中だけは、二人の幸せな沈黙が、春の陽だまりのように優しく、密やかに満ちていた。


今はまだ、結論を出す必要はない。

二人でこの幸せを、一分一秒でも長く、この胸に刻みつけておこう。

虹色のドームが、二人の静かな語らいを祝福するように、幻想的に揺らめいていた。



・ ^ ・ ~ ・✿・ ~ ・ ^ ・



穏やかな昼休みは、やがて来る残酷な未来から目を逸らすための、甘い麻薬のようなものだった。


――そしてまた、別の日。


午前中の最終講義を告げる鐘が鳴り響くと同時に、教室内には安堵の溜息と、それ以上に鋭い選別の空気が流れ出す。


教科書を閉じる音、椅子が引かれる音。

それらすべての波動が、自らの爵位という目に見えない重力に従って整列していく。


高位貴族の周囲には自然と取り巻きの生体反応が集まり、ボクのような下級貴族は、その動線から弾き出されるように教室の隅を歩くのがこの学園の〝作法〟だ。


ボクは机に散らばった魔導理論のノートを雑に鞄へ放り込む。

今のボクの思考リソースを占めているのは、午前中の退屈な講義内容ではなく、西端のバラ園で待っているであろう、不器用で愛らしい王女のことだけだ。


「……ハイド。あなた、今日もあの方のところへ行くつもり?」


背後から突き刺さるような声。

その声に振り返れば、そこには燃えるような赤髪を緩やかに巻いているイメージの少女が、腕を組んで立っていた。


クローディア・フォン・ヴァレンシュタイン。

伯爵家の令嬢であり、ボクのような男爵家の子息が本来なら意識を向けることすら許されない存在。


けれど彼女は、なぜか最近よくボクに絡んでくる。


「うん。イリシュがお腹を空かせて待っているからね」


ボクが屈託なく答えると、周囲にいた生徒たちの生体反応が「ヒッ……」と短くこわばるのがわかった。

王女を呼び捨てにし、さらに「お腹を空かせている」などと、彼女をまるで野良猫か何かのように扱う不敬。


クローディアは眉間に深い皺を刻んでいるように認識され、ボクに一歩詰め寄った。


「ご忠告差し上げるわ。もう、王女様にお会いになるのはおやめなさい。……いいえ、今すぐに断ち切るのです」

「どうして? 誰かに迷惑をかけてるかな。バラ園は立ち入り禁止区域だし、ボクの結界の中なら誰にも感知されないよ」


「そういう問題ではないわ! 貴方が断頭台に送られたら、みんなが困ると言っているの!」


彼女の声には、焦燥に似た響きがあった。


「有象無象の『みんな』なんて対象が困っても、ボクはどうでもいいよ。……でも、君が困るっていうなら、一応、君の話くらいは聞くけど?」

「わ、わたくしも困るのよ! 当然でしょう!」


クローディアの体温が上昇し、顔が朱に染まっているのだろうと推測される。ボクは首を傾げた。


「最初からそう言えばいいのに。大丈夫、ボクが死んでも君や君の家門に傷がつかないよう、処置はしてあるから。君が困ることは何もないよ」


「そういうことが言いたいのではないわ! 根本的に、王女様にお会いになるのをおやめなさいと、そう言っているの!」


「やめないよ。大丈夫、イリシュは優しい人だ。ボクを無礼者と言って刑場に送るような趣味はない。むしろ、ボクがいなくなったら、あの子はまた一人ぼっちで地面の雑草を数える日々に戻ってしまう」


ボクが淡々と告げると、クローディアはギリリと奥歯を噛み締める音を立てた。


「そんなはずはないわ! だって、あの方は王女様よ。あなたとは爵位も、住む世界も違いすぎる。あの方、あなたのような……その、礼儀知らずの田舎者を気に入るはずが無いもの」


「まあ、爵位のことを言われると、ボクは最下層だから言い返せないかな。礼儀知らずって部分も、その通りだしね」


「そうでしょ! 釣り合わないのよ。それに、あの方は隣国の王子殿下へ嫁がれることが決まっている。あと二年もしないうちに、この国からいなくなる存在なの。今さら仲良くなっても、傷つくのはあなたの方なのよ」


クローディアの魔力の波長に、かすかな憐憫の色が混じる。

それが彼女なりの優しさなのだと理解はできる。けれど、ボクが求めているのはそんな〝現実的な予測〟ではない。


「でも、今はまだ、イリシュはここにいるんだよ」


一歩、彼女の方へ歩み寄った。


「未来がどうあれ、今のひとときを一緒にいられるなら、それを全力で楽しむ。それが『恋』というものだと、彼女から教わったんだ。ボクにはまだ、実感としては難しいけどね」


「王女様が恋を……? まさか。あの方にそのような感情があるはずがありませんわ。あの方は、あの『筋肉王女』は――」

「クローディア様、それ以上は不敬になりますわ!」


側近の少女が慌ててクローディアの袖を引く。

クローディアはハッとしたように口を噤んだが、その意識はまだボクを捉えて離さない。


「……どうして君がそこまで困るのか、やっぱり理解できないな。ボクのことが好きで、王女に嫉妬してるってわけでもないでしょ?」


「ば、馬鹿なことを! 誰が貴方のような非常識な男を……っ!」


「――ああ、ごめん。言い方が悪かったね。こういう言い方をすると、たとえボクのことが好きだったとしても、貴族令嬢は否定するのが『決まり』だってイリシュが言ってたよ」


「ち、違う! 好きなんかじゃ――」


「え、嫌い? それなら謝るよ。嫌いな相手に長々と話しかけて悪かったね」


ボクが少し肩を落とす仕草をして、そのまま背に向けようとすると、クローディアはあわてて、ボクの制服の裾を掴んだ。


「そんなことないわ! 嫌いじゃない! あなたの、その……笑顔はかわいいし、誰に対しても偉ぶらないし、話していると少し……暖かな気持ちになるから……」

「クローディア様! それじゃまるで――」

「あ」


そこまで一気に捲し立て、彼女は自分の言葉の内容に気づいたのか、耳まで真っ赤になっているのだろう、体温を上げて固まった。

けれど、ボクが気になったのは、そんなことじゃなかった。時間だ。イリシュを待たせてしまっている。


「よかった。嫌われたのかと思った。もう行くね。イリシュを待たせたくないんだ。今度、時間が空いたらじっくり君の話も聞くから。じゃあね」

「……っ! ちょ、ちょっと、ハイド!」


背後でクローディアが何かを叫んでいたが、ボクは振り返らなかった。


今、この瞬間、ボクが必要とされている場所は、虹色のドームが揺らめくあの静謐な庭園なのだ。

軽やかな足取りで、午後の陽だまりへと駆け出した。



<イリシュ視点>



虹色のドームが、今日はひどくどろりとした毒の色に見えました。

静寂は安らぎではなく、耳鳴りのような鋭い拒絶となって、わたくしの鼓膜を刺し貫きます。


膝の上に広げた詩集。

そこに綴られた〝愛〟だの〝慕情〟だのという甘ったるい言葉の数々が、今は吐き気を催すほどに浅ましく、薄汚いものに感じられて仕方がありません。


(……遅い。遅すぎますわ、ハイドさん)


正午の鐘が鳴り止んでから、どれほどの時間が過ぎたでしょう。

わたくしは、この美しく整えられた〝檻〟の中で、一分、一秒と削られていく自らの命を数えるように待っていました。


けれど彼は来ない。


この学園のどこかで、わたくしの預かり知らぬ〝外の世界〟で、彼は今、誰にその微笑みを振りまいているのか。

想像の棘が、心臓の内側を滅多刺しにします。


わたくしの脳裏には、燃えるような赤髪を巻いた伯爵令嬢の顔が浮かびました。

一度でも見れば忘れません、無理に出席した王家主催の舞踏会で、カーテンの隙間から遠目に見ただけですが。


――いえ、彼女だけではありません。


ハイドさんのような、性別を超越した美貌と、誰に対しても〝毒〟のない優しさを持つ殿方が、猛獣のような令嬢たちの巣窟で無傷でいられるはずがないのです。


(あの女たちは……わたくしがこのバラ園に押し込められている隙に、あの方の衣を、髪を、視線を、その香りを……貪っているに違いありませんわ)


そう思うだけで、わたくしの内側から〝黒い魔力〟の奔流が溢れ出しそうになります。

ただでさえ、しとどと溢れるこの〝黒い魔力〟のせいで、わたくしは人を寄せ付けないという忌々しい体質になりました。


『魔素循環不全による外在筋形成および魔匂散布』。


わたくしは、生まれつき魔力に暴虐性が備わっていました。

暴虐性――すなわち、持ち主の意志を無視し、周囲や自身の肉体を〝支配・破壊・変造〟しようとする性質。

わたくしの魔力は〝制御されることを拒む、猛々しい捕食者〟のようなものなのです。


本来ならば身体の中を循環すべき魔力が、その暴虐性から、わたくしの身体の中で行き場を失い、内側から肉体を突き破ろうと暴れ狂う。

その結果として、わたくしの身体は、可憐なドレスを引き裂くような異形の筋肉に覆われてしまいました。

醜く肥大した筋肉の塊にあわせて仕立てたドレスを纏っているけれど、隠しようのない巨躯は人を常に見下ろすほどです。


さらに恐ろしいことに、暴虐性の魔力は、皮膚の裂け目から絶えず外へと漏れ出しています。

それは、かつてこのバラ園を滅ぼした薔薇の病害を思わせる〝腐り落ちた花の蜜〟のような、むせ返るほどに強烈な悪臭となって、周囲に漂います。


一目見れば異形の姿、近寄れば嘔吐するような悪臭、誰も寄せ付けない化け物。


それが、わたくし、イリシュ・フォン・アルカディアの真実なのです。


その忌々しい「筋肉王女」としての暴虐性が、今、猛烈に叫んでいます。

ハイドを独り占めにしたければ、ハイドに群がる羽虫どもを、一人残らずその手で握り潰せ、と。


「……っ」


しかし、その瞬間、別の声が脳内で鋭く制しました。


(ダメ。……ダメですわ、イリシュ。そんな姿を見せれば、彼でさえ怯え、離れていってしまう。王女としての矜持を、エレガンスを失ってはなりません)


心の中で、狂おしい独占欲と、王女としての矜持、そしてハイドに嫌われたくないという恐怖が、激しく拮抗していました。

内なる荒ぶる魔力を、必死に、血を吐くような思いで抑え込みます。


彼だけが、わたくしを一人の少女として接してくれるのです。


そう――。ハイドは、ただ者ではありません。


わたくしの、この鋼のように隆起した醜い肉体を目の当たりにしても、眉一つ動かさず。

ただの、本当にただの「少し困った症状を持つ一人の乙女」として扱ってくださるのです。


あの方の鼻腔には、わたくしから絶えず溢れ出すあの忌まわしき腐臭――腐蜜魔瘴など、まるで届いていないかのよう。

それでいて、庭園に咲く薔薇の芳香や、淹れたての紅茶の繊細な香りは、誰よりも鋭く、愉しげに感じ取っていらっしゃる。


そして、あの方が操る魔導技術の深淵。


この〈忘れられたバラ園〉を維持している多重積層型魔導障壁一つをとっても、そうです。

王国の最高峰と謳われる宮廷魔術師たちでさえ、その術式の構成を理解することすら叶わないでしょう。


彼らが一生をかけても辿り着けない高みに、あの方は欠伸をしながら立っていらっしゃるのです。


その類まれなる、いいえ、神話の領域に踏み込んだ魔導の才。

それを操り、あの方は学生の身でありながら、この国で唯一無二の事業を展開する実業家としての顔をお持ちです。


その事業の内容までは、わたくしは詳しくは存じ上げませんが……。


確かなのは、陛下でさえ、ハイドには並々ならぬ気を遣われ、格別の特別扱いを認めていらっしゃるということです。

わたくしの耳にも届いておりますわ。とても重いお触れを出されていることを。


『決して彼を不快にさせてはならない』


あの方は、ただの田舎男爵の嫡男などではありません。

この虹色のドームの中に、わたくしという怪物を匿い、笑いかけてくれる――この世界のことわりの外側に座す、美しき支配者――。


「ごめん! 遅くなっちゃった! お腹すいたよね!」


待ちわびた、いつもの、のんきな声が聞こえてきました。

東屋に足を踏み入れたハイドの姿を見た瞬間、わたくしの中の何かが一本、音を立てて切れました。


「……ハイドさん」


わたくしの声は、自分でも驚くほど冷やかで、地を這うような低い響きを帯びていました。


ハイドが「えっ」と足を止める。

わたくしは立ち上がり、音もなく彼との距離を詰めました。

第三者が、もし、その様子を見ていたのなら、こう思ったはずです。


――まるで猛る大猪が鼻息荒く、小柄な少年に向かって突進しているかのようだ、と。


けれど。どう思われようとも。逃がさない。この聖域に持ち込まれた〝不純物〟を、わたくしは見逃さない。

自身の悪臭は、わたくし自身はまったく感じないからこそ、その〝異臭〟にはすぐに気づけました。


「どなたですの? ……あなたに、甘ったるい香油の匂いを擦り付けた女は」


「え? 香油……? あ、さっきクローディアがボクの制服の裾を掴んで――」

「クローディア……。ああ、やはり、あの牝狐めぎつねでしたのね」


わたくしの指が、無意識にハイドの肩を強く掴んでいました。

ミシミシと、彼の身体が悲鳴を上げます。普通の人間なら肩の骨が砕けているはずの力。


(ああ、また……。魔力が暴走してしまう。……でも、止まらない……!)


しかし、彼は痛みなど感じていないのか、きょとんとした表情でわたくしを見上げます。


「ハイドさん、あなたはご存知ありませんの? あなたが誰に対しても向けるその『平等な慈愛』が、わたくしをどれほど鋭い棘で引き裂いているか」

「イリシュ、落ち着いて。ボクはただ――」


「落ち着けるはずがありませんわ! わたくしは、あなたがいなければ、地面の雑草を数えるだけの怪物に戻るしかないのです! なのに、あなたは……あなたは、わたくしをここに閉じ込めておきながら、外では別の女にその慈悲を分け与えている!」


わたくしの瞳から、大粒の涙が零れ落ちました。


それは悲しみではありません。

他者を拒絶し、すべてを破壊し尽くしたいという、醜悪な暴虐性の結晶です。

わたくしの魔力そのもの。すなわちわたくしの本質なのでしょう。


「卒業すれば、わたくしは出荷される。……ええ、わかっています。隣国のバイカ殿下に、この忌々しい『処女きよらかな血』を捧げ、政略の道具として使い潰される。それがわたくしの運命……!」


わたくしは、さらにハイドを掴む力を、強くします。

鋼のようなわたくしの腕の中で、彼の華奢な体が折れてしまわないかという恐怖。


(……嫌。……嫌われたくない。……でも、行かないで……!)


「……いっそ、ハイドさん。今ここで、わたくしはあなたを壊してしまいたい! 他の女の匂いがつくくらいなら、わたくしの手で、あなたを握りつぶしてしまいたい」


わたくしは顔を下げ、覗き込むように、ハイドの顔に、顔を近づけます。

ハイドの唇のすぐそば、口づけするかのような近さで、呪いのような言葉を紡ぎました。


「わたくしは、そんなに出来た女ではありません。……嫉妬に狂い、あなたを食べてしまいたいと願う、浅ましい、ただの女です。ねえ、ハイドさん……。あなたが他の女に微笑むたび、わたくしの心には、消えることのない棘が、一本、また一本と突き刺さっていくのですわ。……この痛みが、あなたにわかりますか?」


ハイドは、初めて……ほんの一瞬だけ、困惑に瞳を揺らしました。

わたくしの剥き出しの暴虐性が、彼の〝合理的〟な思考の壁を、わずかに削り取ったのかもしれません。


しかし、彼はすぐにいつもの凪のような瞳に戻ると、優しく、わたくしの手を解きました。

さきほどまで暴れ回っていた魔力が、力を削がれ、こぼれ落ちていくのを感じます。

ハイドの触れた場所は、浄化されていくかのよう。


力なく、わたくしは彼から手を離します。


そして、わたくしの涙を、指先で愛おしそうに拭いました。


「イリシュ。……『今』を楽しもうって。答えの出ない一瞬一瞬に感じる、淡い感情が恋だと。ボクにそれを教えたのは、君だよ」


ハイドの、穏やかで、けれど決定的な言葉。


「……っ」


その一言が、わたくしの内側で暴れ回っていた暴虐性の魔力を、柔らかな布で包み込みました。


(ああ、わたくしは……。何て見苦しい姿を。……彼を怯えさせ、この『今』を、自らの手で破壊するところでしたわ。……これほど無様なことはありません)


狂おしい嫉妬という〝棘〟は、まだ心臓に深く突き刺さったままです。


けれど、アルカディアの第一王女としての矜持が、それを表面に出すことを断じて許しません。

たとえ心の中が棘で血まみれであっても、表面上は、完璧な微笑みを浮かべねばならない。


わたくしは深く、長く息を吐き出しました。

荒ぶる魔力を霧散させ、乱れた呼吸を整えます。


そして、ハイドから離れ、王女としての完璧な微笑みを浮かべました。


「……そうでしたわね」


わたくしの声は、先ほどまでの激情が嘘のように、穏やかで、気品に満ちた響きを取り戻していました。


「わたくしとしたことが、みっともない真似を。……ハイドさんが仰る通りですわね」


わたくしは、彼の制服を優しく整えました。特に、裾は念入りに。


(……クローディア。……あの女の匂いは、わたくしの悪臭で上書きして差し上げますわ。今だけは、この悪臭が役に立ちますわね)


それが、今のわたくしにできる、唯一の抵抗でした。


「『今』を大切に。……ええ、わたくしが教えたことですのに、忘れてしまうなんて、お恥ずかしい限りですわ」


ハイドは、ほっとしたように笑うと、手に持っていた弁当を掲げて、言いました。


「さあ、お昼だ。食事をしよう。お腹がすいたら怒りっぽくなるんだよ」


ハイドは手際よく、テーブルに弁当箱を広げていき、魔導器でお湯を沸かして、ティーポットに注ぎます。

美味しそうな匂いと、紅茶の穏やかな香りが満ちていきます。


「ええ、そうしましょう」


わたくしは、彼に再び、完璧な王女の微笑みを向けました。

棘は、まだ、深く、深く突き刺さったまま、血を流し続けているというのに。



・ ^ ・ ~ ・✿・ ~ ・ ^ ・



――そして、最初の場面に戻る、わけだ。


二人だけの〈忘れられたバラ園〉へ、隣国の王子にして、イリシュの婚約者であるバイカ殿下が、お忍びで来訪したのをきっかけに。

ボクとイリシュの関係は大きく動こうとしていた。


ボクが〈忘れられたバラ園〉に足を踏み入れたときにはもう、バイカ殿下はイリシュの〝圧〟によって平伏しながらも、気丈にも訴えていた。

すなわち――〝婚約破棄してくれ〟と。


そして、今。

二人の意識が、痛いほどにボクを射抜いていた。


大理石の床に這いつくばり、胃の中のものをすべてぶちまけながらも、救いを求めるようにボクを仰ぎ見る隣国の王子、バイカ殿下。

そして、頬を紅潮させ、覚悟と、それ以上の「なにか」を魔力に宿してボクを見つめるこの国の第一王女、イリシュ。


ボクに、王女を「おそえ」と言う。


神聖にして不可逆な契約に瑕疵かしが生じ、二人は望まぬ政略結婚という鎖から解き放たれる、そのために。


ボクは、ふぅ、と小さく溜息をついた。

傍らに置いた弁当箱が、なんだかひどく場違いで、滑稽なオブジェクトに思える。


「……二人の願うことは理解したよ。協力したいとも思う。でもね」


「……」

「……」


二人は静かにボクの言葉を待っている。

ボクは、二人の生体反応を交互に捉えた。


「その願い、今のままでは、絶対に叶わないんだ」


「……っ、なぜですの!?」


イリシュが、弾かれたように身を乗り出した。


「わたくしが、……わたくしが、醜いからですか? この異様な肉体と、バイカ殿下をのたうち回らせるほどの腐臭が、あなたを拒絶させているのですか……っ!」


「違うよ、イリシュ。決して君のせいじゃない。……ボクの問題なんだ」


ボクは、掌を見つめた。

透き通るような白い肌。繊細な指先。完璧に整えられた、非の打ち所がない少年の手。


「ボクはここにあるけれど、ここにはいないんだ」


「……え?」


「この身体は、ボクの本体じゃない。魔導工学と精神転写技術を組み合わせた、精巧なアバター……現しうつしみ、あるいは操り人形とでも言えばいいかな」


その場の空気が、凍りついた。

のたうち回っていたバイカ王子さえも、その動きを止めてボクを凝視している。


「ボクは、自分の領地にある屋敷の自室から、一度も外に出たことがないんだ。……いわゆる、引きこもりというやつだね。ボクはそこから、この身体を操っている」


ボクが淡々と告白すると、イリシュは幽霊でも見るような目でボクのアバターをまじまじと見つめた。


「そんな……、そんなこと、できるのですか? ゴーレムを操るような物……だとしても、あなたと領地とここまで、どれほど離れていると――」


「距離は関係ないんだ。ボクがやっている事業の一つ、〝ドローン〟と名付けた飛行型魔導ユニットによる運送業も……って、今はそのことは関係なかったね。とにかく、大切なことはね」


「はい」


「この身体には、不要な機能はつけていない。例えば、嗅覚センサーもない。勉強するだけなら、聴覚と空間認識機能があれば十分。そして、もちろんだけど、〝そういう〟機能もない。ただの人形に過ぎないんだ。君を〝おそう〟ことはできないよ」


「匂いも……!」


「貴族の子息は学園に通わなければならない。王女の君でさえ従う絶対の義務だ。でも、ボクは外に出るのが嫌だった。だから、陛下に直接交渉して、許可をいただいたんだ。アバターによる代理通学をね。……王家が、この学園内だと言っても、ボクたちの関係――このバラ園で男女が二人きりで過ごすことを黙認していたのも、それが理由だろうね。王女の〝純潔〟の心配がないから」


イリシュの瞳に、衝撃と、そして納得の光が走った。

彼女の中で、今までの不自然な欠片が、パズルのように組み合わさっていくのがわかった。


「……だから。あなたは、わたくしに話しかけることができた、わたくしが力強く掴んだときもびくともしなかった。わたくしの放つ、この忌まわしい腐臭も、あなたには届いていなかった」


「ああ。……ある意味、ボクは本当の君を〝正しく〟認識していなかった。イリシュという存在を、都合よく美しい部分だけデータとして捉えていたに過ぎないんだ」


ボクはアバターを東屋の柱に背を預けさせ、空を仰がせた。虹色のドームが、いつもより人工的な光に見えた。


「……失望しただろう? 唯一、自分に近づくことのできた者が、実は遠く離れた場所でレバーを握っているだけの、正体不明の男だったなんて。百年の恋も冷めるとは、まさにこのことだね」


ボクは、彼女が絶望して、あるいは激怒して、このアバターを握りつぶすのを待った。

そうなれば、この奇妙なおままごとも終わりだ。ボクは領地の部屋で、また一人、効率的なビジネスに没頭する日々に帰るだけ。


けれど――。


「……馬鹿にしないでくださいまし」


聞こえてきたのは、怒号ではなく、震えるほどに力強い拒絶だった。


「わたくしを、そんなに薄っぺらな女だと思われていたのだとしたら、心外ですわ。ハイドさん」


イリシュが立ち上がった。

その瞬間、彼女の背後の空間が、強大な魔力の渦によって歪んだ。


「あなたがここにいない。そしてここにいるのは操り人形だということは、納得いたしました。むしろ、なぜ今までそのことに思い至らなかったのか、恥じる思いです」

「そう簡単に見抜かれたら、ボクは少し傷つくかな。この技術に関しては絶対の自信があるからね」


「いえ、他の誰でもない、わたくしだけは、気づくべきでした。どんな聖人君主であっても、このわたくしの放つ匂いに全く動じずに、わたくしに優しくしてくれる者など、存在するはずがないのに」

「……君をだまし続けていたことになる。ごめんなさい、としか、ボクには――」


「いいえ。あなたを責めていません。むしろ、感謝しかありません。それに、あなたと出会えたことに、何の嘘も偽りもありませんわ。わたくしに、あなたは自然と話しかけてくださいました。わたくしが愛したのは、誰にも見捨てられたわたくしを変えてくれた、あなたのその意思ですわ!」


真っ直ぐにボクを、ボクのアバターを通して、その先にいるであろう〝向こう側〟のボクを射抜くような視線を向けた。


「決めましたわ。――バイカ殿下、申し訳ありませんが、あなたの懇願には今すぐにはお応えできません」

「な……、何を……!?」


バイカが驚愕の声を上げる。あ、そういえば、バイカ殿下がいたんだった。しまったな、この技術のことは他国には機密扱いなんだけど――。


「ハイド。――あなたに会いに行きます」

「え?」


「おそらく、反対され、止められるでしょうが、そのすべてを振り切ってでも、あなたに会いに行きます」

「……そりゃ、反対されるよね。王女である君が、田舎男爵の我が領地を訪問する。ましてや、その目的たるや、婚約破棄のために――」


「〝純潔〟を捧げる覚悟ですわ」


ここだけ切り取って陛下に聞かせたら、卒倒するんじゃないかな。

完璧な淑女であるべき王女が、他国に嫁ぎ、いずれ国母となる令嬢が、口にして良い言葉じゃない。


ましてや、その婚約者さえも――。


「ぜひ、お願いしたい」


と、公認している始末だ。


「ええ、お任せください、バイカ殿下。周りの反対など、知ったことではありません。女が、一人の殿方に会いに行く。邪魔する者は、すべて握りつぶして見せますわ」


イリシュは、ボクのアバターの手をつかみ、優しく、けれど逃がさないという確かな意志を込めて、力を込める。


「会いに行きます。直接、このわたくしの目で、あなたの真実を確かめますわ。あなたの目で、わたくしを見てもらいます。……そこで、あなたがわたくしを拒絶し、化け物として退けるのであれば、わたくしは諦めて王子に嫁ぎましょう」


イリシュの瞳に、見たこともないような烈しい炎が宿る。


「けれど。もし、あなたが、わたくしの悪臭に顔をしかめ、恐怖に震えながらも、それでもわたくしを『イリシュ』と呼んで受け入れてくれるのであれば。……その時こそ、わたくしのすべてを、あなたに捧げますわ」


「……イリシュ」


「それが、わたくしなりの『恋』ですわ。……覚悟しておいてくださいまし、ハイド」


彼女の、狂おしいほどの〝恋〟への渇望で満たされた微笑みを、ボクは遠く離れた自室から、ただデータとして受信していた。



<イリシュ視点>



匂いが外に漏れぬよう特別な細工が施された、わたくし専用の重厚な馬車に揺られながら、わたくしは自らの指先を見つめていました。


鋼のように硬く、ドレスの袖をいとも容易く引き裂いてしまう異形の腕。

今も放たれているであろう、腐蜜魔瘴の悪臭。


ハイドが、生身でこれを見て、嗅いだとき、どんな反応をするのでしょうか。


本来なら、王家の者が男爵家を訪ねるとなれば、領民を挙げての歓迎と、主である男爵夫妻による最敬礼の出迎えが当然の礼儀です。

けれど、わたくしはそれを固く禁じました。


これは公務ではなく、ましてや親善の訪問でもありません。

――婚約者であるバイカ殿下さえも公認した、不貞のための〝夜這い〟。


誇り高き王女としての仮面を脱ぎ捨て、一人の女として、愛した殿方に会いに行くのです。密やかな進軍なのです。


馬と馭者を次々に入れ替えていくリレー方式で、わたくしの乗った馬車は休みなく走り続けました。

そうしなければ、どちらも長くは持たないからです。体力がではなく、鼻が。


わたくしは、馬車から出ることなく、最小限の水と食料で到着の合図を待ちます。


そうして四日目の朝を迎えたとき、辺境の男爵家領地に入ったと、合図がありました。


かなりの強行軍です。

当たり前の行軍では季節が一つ進むほどの遠方に、たったの四日で移動するというのですから。

しかし、今回ばかりは、今まで使ったことのない、王女という特権を、良いように使わせてもらいました。


たどり着いたハイドさんの屋敷は、静寂そのものでした。

すでに、馬も馭者も避難を済ませ、馬車だけがぽつんと屋敷の前にありました。


わたくしが馬車から降り立つと、そこには一人の執事が立っていました。


「いらっしゃいませ、イリシュ王女殿下。お待ちしておりました」


洗練された動作。けれど、顔にあるべきものがない、一目で人形であるとわかる相貌です。

ハイドさんが操る「人形」の一体なのでしょう。


「こちらへ」


執事の案内で、わたくしが屋敷に足を踏み入れると、空気はぴんと張り詰め、使用人たちの気配はまったく感じられません。

まるで、廃墟のようで――。しかし、視線だけは感じます。彼らはひれ伏すように身を潜め、嵐が過ぎ去るのを待っているのです。


執事に導かれ、わたくしは屋敷の最奥――ハイドさんの自室へと向かいました。

重厚な扉の前で、人形が静かに立ち止まります。


「では、イリシュ。このドアは、君の手で開けてほしい」


人形の口から、ハイドさんの、あの穏やかな声が漏れました。


「それが君の決意表明だ。今から何が起ころうとも、すべてを受け入れる……というね」


わたくしは、躊躇いませんでした。

ここで引き返せば、わたくしは一生、自分を呪いながら生きる筋肉塊に戻るだけ。

覚悟を決め、その巨大な手で、扉を押し開けました。


目の前に広がっていたのは、わたくしの想像を絶する光景でした。

そこには、貴族の私室にあるべき豪華な寝台も、美しい絵画もありません。


部屋を埋め尽くしていたのは、見たこともない「鉄の箱」の群れ。

それらは奇妙な唸り声を上げ、無数の小さな光が、呼吸するように青や緑に明滅しています。


魔導の粋を集めた演算機――ハイドさんの事業の心臓部なのでしょうか。


その奥、いくつもの発光するモニターに囲まれた椅子に、一人の少年が座っていました。


「……あ」


思わず、安堵の吐息が漏れました。


ひょっとしたら、アバターとは似ても似つかぬ醜い男が、あるいは"装置"が待ち構えているのではないか……。

そんな不安が、胸の片隅にこびりついていたのです。


けれど、そこにいたのは、学園で見慣れたあのハイドさん、そのままでした。

いえ、実在するその肉体は、アバターよりもさらに鮮明で、性別さえも超越した神秘的な美しさを湛えています。


彼は椅子から立ち上がると、わたくしを見て、柔らかく微笑みました。


「いらっしゃい。……いや、初めまして、かな。イリシュ――、これまでと同じように、そう呼んでもいい?」

「……ええ。ええ、もちろんですわ、ハイドさん」


感動で、視界が滲みました。


ハイドは、わたくしのこの醜い姿を、今、この瞳で、加工なしの真実として捉えているはずです。

それなのに、あの方は何一つ態度を変えない。今まで通り、わたくしを「イリシュ」として受け入れてくださる。


わたくしが感極まって一歩踏み出そうとした時、ハイドさんの眉が、わずかに曇りました。

わたくしは、凍りついたように足を止めます。


「なるほど。この臭い……なんだね。君を一人にしてしまった原因というのは」


覚悟はしてきたつもりです。しかし、いざハイドの口から聞かされると、足を止めざるを得ません。


「……ええ。臭いでしょう? わたくし自身には分かりませんが、誰も近づけない、呪われた毒なのですわ」


沈黙が、重く、粘りつくように部屋を満たしていました。


鉄の箱が発する機械的な駆動音と、明滅する光の粒子。それらすべてが、わたくしを裁く陪審員のように思えてなりません。


ハイドの眉間の皺。

それは、わたくしの存在そのものに対する不快感の現れなのでしょうか。

それとも、わたくしの体から溢れ出す〝毒〟に、本能が悲鳴を上げているのでしょうか。


(……ああ、やはり。暖かだった幻想は、ここで終わるのですわ)


鼻を突く腐臭。ドレスを内側から引き裂かんばかりに隆起した、女としての美しさを冒涜するような筋肉。

アバターという「フィルター」を失った今、わたくしはただの怪物に過ぎない。


ハイドは美しい。

その透き通るような白い肌も、知性に彩られた瞳も、汚らわしいわたくしとは対極にある〝正解〟の形。


もしも、その彼が、ゴミを見るような目でわたくしを見下し、吐き気を堪えながら扉を指差す――。


その瞬間を想像するだけで、心臓が握りつぶされるような痛みにのたうち回ります。


(いいのです。……ええ、それでいい。わたくしを拒絶してくだされば、心置きなく、この『今』を終わらせることが出来ますもの)


ドレスのひだに隠した短剣の柄に、指先が触れました。

ひんやりとした金属の感触が、狂いそうなほど昂ぶる感情を、冷酷なまでに落ち着かせます。


一言、「不快だ」と。あるいは、目を逸らして「帰ってくれ」と告げたなら。


その瞬間に、この刃を自らの喉元へ――。


それこそが、わたくしがハイドさんに捧げられる、最後で最大の「純潔」の証明。

醜い怪物のまま生き永らえ、誰かに飼われる家畜になるくらいなら、あなたの目の前で、あなたの記憶に鮮血の薔薇を刻んで果てたい。


「……ハイド、さん」


拒絶を待つわたくしの唇が、震えながらその名を呼びました。

絶望という名の安寧に身を委ね、目を閉じようとした、その時です。


「…………」


無機質な駆動音を切り裂いて、革靴が床を叩く、小気味よい音が響きました。


(……え?)


予想していた、後ずさる音ではありません。

それは、わたくしの方へと真っ直ぐに、一点の迷いもなく近づいてくる足音。


わたくしが驚いて目を見開くと、ハイドはスタスタと当然のような足取りで歩み寄ってきました。


鼻を覆うことも、顔を顰めることもない。

学園のバラ園で、弁当を広げていた時とまったく同じ、凪のような自然な表情。


ハイドは、わたくしの吐息が届くほどの至近距離で立ち止まりました。


あまりの近さに、わたくしの体から漏れ出す腐蜜魔瘴が、容赦なく彼の服を、肌を、髪を侵食していくのがわかります。

これほどまでに近づけた者はいません。アバターであったハイドを除けば、誰一人近づけた者のいない〝死〟の領域です。


気絶するか、激しい嘔吐に見舞われているはずの距離。


しかし、ハイドは、まるで目の前の複雑な魔導回路を検分するかのような。

極めて冷静で、けれどどこか熱を帯びた瞳でわたくしを凝視しました。


そして、あろうことか。


彼はわたくしの隆起した鋼のような肩に、そっと、温かな素手を添えたのです。


「……っ!?」


驚愕に息を呑むわたくしをよそに、彼は首を少し傾げ、ごく日常的な世間話でもするかのようなトーンで、静かに問いかけました。


「ねえ、イリシュ。――この症状、自分なりに原因はわかっているの?」


その声には、拒絶も、憐憫も、ましてや恐怖など微塵も混じっていませんでした。


そこにあったのは、未知の難問を前にした学究の徒のような、純粋な好奇心。

わたくしという〝怪物〟を、修正すべき一つの〝不具合〟として正しく認識し、救い出そうとする――圧倒的な、肯定の響きでした。


「ええ……。王宮医の診断では『魔素循環不全による外在筋形成および魔匂散布』と。わたくしは、生まれつき魔力に暴虐性が――」

「それは違う」


ハイドさんのあっさりとした否定の言葉に、唖然とするほかありませんでした。


「……ハイド、さん? 違う、とは、どういうことですの?」


わたくしは呆然と立ち尽くしました。

王宮の賢者たちが、当代随一の医師たちが、口を揃えて「忌むべき変異」と断じたこの症状。

それを、目の前の少年は、まるで書類の間違いを指摘するかのように、あっさりと否定したのです。


「イリシュの魔力は、変異しているわけではないよ。少なくとも、ボクの目には――」


ハイドは、さらに一歩、わたくしの懐へと踏み込みました。


「――ひどく弱々しく映る。まるで、嵐の夜に布団の中で震える子供みたいに」

「……よわよわしい?」


「うん。今も、ボクが近づいたことで、イリシュの魔力はさらに鋭い棘を逆立てて、警戒度を増している。……自覚はある?」


自覚。

言われてみれば、ハイドの指先がわたくしの肩に触れている箇所に、チリチリとした痺れのような魔力の緊張を感じます。

それは、彼を傷つけまいとする〝理性〟ではなく、ただひたすらに、他者を拒絶しようとする肉体の〝本能〟。


ハイドは、しばしの間、黙ってわたくしを観察し続けました。

その視線は、わたくしの醜い筋肉を、そして鼻を突く悪臭の源泉を、逃げることなく真っ向から捉えています。


やがて、ハイドはふっと息を吐き、静かに告げました。


「試したいことがあるんだ」

「試したいこと?」


「もし、イリシュが嫌だというのなら、力一杯、ボクを跳ね除けてほしいんだけど……」


ハイドは、その宝石のような瞳でわたくしを見つめ、少しだけ、はにかむように笑いました。


「君を、抱きしめてもいいかな?」

「……っ!」


心臓が、跳ね上がりました。

抱きしめる? この、化け物を?


物心ついた頃から、わたくしの身体は異形の肉に覆われ、周囲を嘔吐させる悪臭を振りまいてきました。


誰かに触れられた記憶など、ありません。断言できます。物心ついた頃から――、いえ、生まれた瞬間ですら、放り投げられたとしても不思議ではない。

ましてや〝抱擁〟など、わたくしの人生には存在しない、お伽話の中だけの概念でした。


けれど、ここへ来るまでに、わたくしはすべてを捧げる覚悟を決めてきたのです。

ここで彼の手を拒む理由など、どこにもありません。


「……はい。……お願いしますわ、ハイドさん」


わたくしは、震える声で答え、大きく頷きました。


――その瞬間。


わたくしに比べればあまりに華奢で小さな身体が。

暴虐的までに膨らんだわたくしの筋肉の塊にしがみつきました。


「……あ……」


温かい。

わたくしの鉄のような肌に、彼の柔らかい体温が伝わってきます。


腐蜜魔瘴の悪臭が、彼の美しい顔を、肺を、容赦なく侵しているはずだというのに。

ハイドは、わたくしの胸に顔を埋めるようにして、強く、さらに強く、その腕に力を込めました。


「抱きしめ返して、イリシュ」

「な……っ!? 無理ですわ! そんなことをすれば、あなたの身体を……骨を、バラバラに砕いてしまいます……っ!」


「いいから。ボクを信じて」

「でも……!」


「お願いだ。抱きしめ返してほしい。……イリシュ、君のその腕で」


ハイドの、静かで、透き通るような声。

それは、極上の催眠術のように、わたくしの魂の奥底へとしみ込んでいきました。


わたくしの腕は、自らの意志とは関係なく、抗うことをやめました。


鋼のように硬く隆起した腕を、彼の細い背中に回し……。

羽毛を扱うような慎重さで、そっと、抱きしめ返しました。


「もっと。……もっと、ぎゅっと!」

「し、死にたいのですか!? わたくしの力は――」


「死なないよ。ボクは、これくらいじゃ壊れない。……さあ、もっとだ」


ハイドさんの温もりに当てられ、わたくしを縛っていた〝恐怖〟の鎖が、音を立てて崩れ落ちていきました。


(……ああ……温かい……)


意識が、純白の多幸感に染まりました。

抱きしめられるということが、これほどまでに安らぎ、満たされるものだったなんて。


わたくしを怪物として閉じ込めていた〝筋肉〟という名の鎧が、彼の熱によって溶かされていく感覚。

一人で嵐に耐えてきた孤独な魂が、ようやく見つけた〝安息の地〟に、静かに涙を流しているような……。


愛情、幸せ、安心感。


それらがいっぺんに胸の奥へ流れ込み、わたくしの頭は、今までに経験したことのない陶酔で一杯になりました。


それゆえに。

わたくしは、自分の身体に起きている〝劇的な変化〟に、まったく気づいていませんでした。


抱きしめ続けているうちに、なぜか、ハイドの存在が、どんどん大きく感じられていきました。

最初は、わたくしの巨大な身体の影に隠れてしまうほど小さな彼を、潰さないように慎重に触れていただけでした。


けれど、密着する面積が増えていくにつれ、わたくしの視界は少しずつ下がっていき――。

あんなに見下ろしていたはずのハイドさんの顔が、いつしかすぐ目の前に。


そして、彼の首筋にわたくしの顔が埋まるほどの高さへと、距離が縮まっていきました。


(……不思議。……ハイドさんが、大きくなっていく……?)


疑問を疑問と感じるよりも前に――。


ふわっ、と。

鼻腔を、今まで嗅いだことのない「ニオイ」がくすぐり、再びわたくしの思考は麻痺します。


それは、例えようのない、初めて感じるものですが、決して〝いい香り〟ではありません。

けれど、不快でもない。根源的で、心地よい。魂を包み込むような、柔らかで温かな――。


(これが、人のニオイ、殿方のニオイ――、愛する人のニオイ)


わたくしはハイドの首元に顔を埋めて、懸命にそのニオイを覚えようとします。

いつまでも嗅いでいたい。


「安心していいんだよ」


彼の心臓の鼓動が、規則正しく、力強く、わたくしの胸に直接語りかけてきます。

わたくしは、愛されることを知らなかっただけの、一人の少女なのだと。


「……はぁ……、あ……」


わたくしの口から、熱い吐息が漏れました。


どれくらい、そうしていたのでしょう。


永遠のようでもあり、一瞬のようでもあった、至福の抱擁。しかし、唐突に終わりを告げられました。


「もう、大丈夫だね」


ハイドは、耳元で優しく囁くと、ゆっくりと腕の力を抜きました。

わたくしは、あまりの名残惜しさに、胸を引き裂かれるような思いがしました。


ずっと、このまま、彼の腕の中で溶けてしまいたい――。

そんな子供じみた願望を必死に抑え込みながら、わたくしはゆっくりと、彼から体を離しました。


「じゃあ、お茶でも淹れさせよう。そこの椅子に座ってほしい」


そう言うと、ハイドは、机の上に置かれた機材を押して、何かを指示しました。


「……もう大丈夫だから、紅茶をお願い。それから姿見を用意して。この部屋には無いからね」


わたくしは夢見心地のまま、導かれるように簡素な椅子へと腰を下ろしましたが――。


「……?」


違和感。座った瞬間に感じた、明らかな〝違い〟。

慌てて椅子を観察しましたが、何の変哲もない、木製の椅子です。


ノックの音が響き、侍女がティーセットを運んできました。

彼女はわたくしを見ても顔をしかめるどころか、優雅にお辞儀をし、淡々と準備を始めます。


部屋に満ちる、紅茶の芳醇な香り。

侍女が置いたのは、小さく繊細なティーカップでした。


(わたくしの、太い指では持てないわ……)


そう思いながらも、無意識に手を伸ばした、その時。


「……えっ?」


視界に入ったのは、白く、細い、しなやかな腕。

おそるおそる自分の手を見つめれば、そこにあるのは鋼の筋肉ではなく、美しい、一人の少女の手でした。


再びノックの音がし、執事たちが大きな姿見を運び込んできました。


「見てごらん」


ハイドさんの声に促され、わたくしは鏡の前へと立ちました。


そこに映っていたのは。


立ち塞がる巨大な姿見の中にいたのは、わたくしが全く知らない、一人の〝他人〟でした。


風が吹けば折れてしまいそうなほど細い首筋と、陶器のように滑らかな肩を持つ少女。

わたくしが着ていたドレスの袖は、今は無残に余り、彼女の細い腕を幽霊のように頼りなく包んでいます。


「……これが、わたくしなのですか?」


鏡の中の少女が、わたくしと同じ唇を動かして、震える声で問いかけます。


かつてドレスを引き裂かんばかりに隆起していた鋼の筋肉は、跡形もなく消え失せていました。

あまりの軽さに、わたくしは自分自身が霧にでもなって消えてしまうのではないかと、言いようのない不安に襲われました。


「醜い怪物でも、筋肉の塊でもない……。こんなに、こんなに、小さくて、か弱い……一人の、女なのですか?」


わたくしは、縋るような思いで隣に立つハイドに視線を向けます。


この奇跡を起こした、わたくしの唯一の理解者。

彼なら、この戸惑いに対する〝正解〟をくれる。そう信じて。


ハイドさんは、宝石のような瞳を優しく細め、わたくしの震える手を取ろうと、その唇をゆっくりと開きました。


「そうだよ、イリシュ。君はいつだって――」

「はい、そこまででございます、ハイド坊ちゃま」


その時、感動的な空気を無慈悲に切り裂いて、背後の重厚な扉が音もなく開きました。


「……え?」

「……あ」


わたくしたちが呆然と振り返ると、そこには完璧に整えられたエプロンドレスを纏い、山のような布を抱えた女性――。

この屋敷の筆頭侍女と思わしき方が、涼しい顔で立っていました。


彼女は、わたくしのこの劇的な変化を目にしても、驚くどころか眉一つ動かしません。

それどころか、まるで〝散らかった部屋の片付けにでも来た〟と言わんばかりの、ひどく手慣れた様子でハイドさんの隣まで歩み寄りました。


「坊ちゃま、デリカシーという言葉をご存知ですか? 淑女にそのようなドレスのままで話を続けるなど、紳士の風上にも置けませんわ」

「いや、マルタ。今、すごく良いところだったんだけど……」


「後にしてくださいまし。それより今は『お召し替え』でございます」


彼女――マルタと呼ばれた女性が指示すると、わらわらと湧いてきた侍女たちが、ハイドの背中を手で押し始めました。


「あ、ちょっと、マルタ! せめて、説明をしてから……!」

「すべて後です。別室にお茶を用意してありますから、そちらでお待ちください。さあ、さっさと。邪魔でございます」


「わ、わかったよ! 押さなくても出るから!」


ハイドは、慣れた手つきの侍女たちにズルズルと扉の外へ押し出されていきました。


「あ……ハイド、さん……っ!」


わたくしが思わず手を伸ばしますが、無情にもハイドの姿は扉の向こうへと消えていきました。

部屋に残されたのは、呆然と立ち尽くすわたくしと、山のようなシルクを腕に抱え、悠然と佇む一人の女性。


彼女はわたくしの劇的な変化を前にしても、驚きに目を剥くような無作法はいたしません。

ただ、慈しむような、けれど鋭い審美眼を持った瞳でわたくしを見つめ、優雅に膝を折りました。


「イリシュ王女殿下」

「は、はい」


「王女殿下をお迎えするに相応しい列も整えられず、このようにお部屋でのご挨拶となりましたこと、主人に代わり、まずは幾重にもお詫び申し上げます」

「……あ、いえ。こちらこそ、突然の訪問で……。出迎え不要とお願いしたのはこちらですもの」


わたくしは、今にもずり落ちそうなドレスの胸元を必死に押さえながら、王女としての矜持をかき集めて答えました。


「私、この男爵家にて侍女長を仰せ付かっております、マルタと申します。以後、お見知りおきを」

「マルタ……侍女長。よろしく。わたくしのことは……その、ハイドさんから?」


「この国の貴族に仕える身で、王家の令嬢を知らぬ者などおりませんわ。それに……ハイド坊ちゃまの口から出てくることと言えば、いつも何を食べたいだの、あれを調達しておけだのと、そんなことばかり。学園でのご様子など一言も――」


マルタさんは、そこでふっと表情を和らげ、けれど言葉には確かな重みを持たせて続けました。


「我が主ながら、デリカシーのなさには心底呆れておりますの。殿下をこのような危ういお姿のまま、長々とお喋りに興じさせるなど……。後ほど、淑女に対する礼節というものを、骨の髄まで叩き込み直しておきますわ」


「……っ。あ、いえ、ハイドさんは……わたくしを救おうと……」

「殿下がお庇いになる必要はございません。殿下のお心に甘え、無作法を働くのは男の傲慢でございますもの」


マルタさんは、腕に抱えていた柔らかな輝きを放つ布地を、宝物を扱うような手つきで広げました。


「急なことで、殿下のお召し物に相応しい品が整わず、奥様も胸を痛めておいでです。……せめてもの繋ぎにと、奥様が大切に保管しておりました、若き日の最も良き一着を預かって参りました。男爵家の古着など、本来ならお肌に触れさせることすら憚られる不調法……何卒、今回ばかりはお許しくださいまし」


「……奥様の? ありがとうございます。でも、わたくしに……合うかしら。この、細くなってしまった身体に……」


わたくしは、自分の白く細い腕を見つめ、戸惑いながら問いかけました。


「ええ、もちろんでございます。……お召し替えが済みましたら、別室にてお茶の席を整えさせていただきます」

「お茶の席……?」


「はい。旦那様も奥様も、是非ともご挨拶したいと、今か今かと待ち構えておりますの。……田舎の男爵家ゆえ、至らぬ点もございましょうが、お顔を出していただけますか?」


マルタさんの言葉には、押し付けがましさのない、包み込むような余裕がありました。


「……ええ、わかったわ。領主夫妻とお会いできるのを、楽しみにしている、そうお伝えくださるかしら」

「ありがとうございます。では、早速始めましょうか」


マルタさんは、迷いのない手つきでわたくしの肩に、春の雲のように軽いシュミーズを掛けました。

その指先からは、長年この屋敷を守ってきた女性特有の、揺るぎない安心感が伝わってきます。


扉の向こうで待っているあの人に。そして、彼を育んだこの家の人々に。

本当のわたくしを、一番綺麗な姿で見てもらいたい。

鏡の中の〝恋する乙女〟は、熟練の侍女の手によって、より鮮やかに、気高く、その蕾を開こうとしていました。



・ ^ ・ ~ ・✿・ ~ ・ ^ ・



「坊ちゃま、別室でお待ちくださいと――」


ボクは、イリシュが着替えを終えた頃合いを見計らい、見張りの侍女が道具を取りに離れた一瞬の隙を突いて部屋へと滑り込んだ。

すぐに咎めるマルタであったが、しかし黙って引き下がるわけにもいかない。


「わかってる。でもね、マルタ。きちんと彼女が知るべきことを知らせたいんだ。今のままでは、彼女の容姿も魔力も安定しない。彼女のためなんだ」


ボクが真剣な声音で告げると、マルタは表情一つ変えず、ただ静かに一礼した。


「……わかりました、手短にお願いいたします。旦那様も奥様もお待ちですから」


そう言い残して、彼女は音もなく去っていった。

部屋には、新しいドレスに身を包み、見違えるほど華奢になったイリシュが、まだ夢の中にいるような瞳で立ち尽くしていた。


「……ハイド、さん」

「座って、イリシュ。君の身体に起こっていたことを説明するよ」


彼女が椅子に座る。


テーブルの上には、淹れ直したらしい紅茶の満たされたティーカップから、湯気が立ち上っている。

真剣な表情でボクを見つめるイリシュに、ボクは説明を始めた。


「イリシュが思っていたような〝黒い魔力〟なんておどろおどろしいものじゃない。ましてや、王宮医が言っていた『魔素循環不全による……』えっと、なんだっけ?」


「『外在筋形成および魔匂散布』、ですわ」

「そう、それ。そんな仰々しい病名、全部間違いだよ。ただの誤診だ。その証拠に、今の君はこれほどまでに安定している」


イリシュは、自分自身の細い指先を不思議そうに見つめ、首を傾げた。


「……これは、何かハイドさんの、高度な医療魔法の結果ではないのですか?」

「いや。魔法なんて一つも使ってないよ」


「では、いったいどうして……」

「防衛本能の暴走。それが原因のすべてだと思う」


ボクは彼女の向かいに座り、淡々と事実を積み上げていく。


「今まで誰からも正しく愛されているという実感を持てなかったイリシュの心が、無意識に身の危険を感じていたんだ」

「……」


「取り巻く世界は、イリシュにとって敵地そのものだった。……だから、自身を守るために暴走した。『自分を強く見せなきゃいけない、誰も寄せ付けないようにしなきゃいけない』ってね」


イリシュの瞳が、大きく揺れた。


「その結果、魔力で筋肉を鋼のように強化して肉体を鎧に変え、異臭という拒絶のベールで他者を遠ざけた」

「そんな……、では、わたくしは病気であんな姿になっていたのではなく、思い込みで?」


「思い込みっていうと語弊があるけど。……でも、誰かに受け入れられたと感じることで、その防衛本能は役目を終える。武装を解いた筋肉は元に戻り、異臭も消える」


イリシュは溢れそうになる涙を堪え、ボクの言葉を一つ一つ、宝物のように噛み締めているようだった。

けれど、ボクはあえて無情に、彼女の〝現実〟を突きつけた。


「さて。イリシュ、これからどうしたい? 今のその姿なら、隣国の王子も『婚約破棄してくれ』なんて泣き言は言わないだろう。君が望めば、完璧な王女として嫁ぐことができる。それが君の言っていた『貴族としてあるべき姿』なんだろう?」


その瞬間、彼女の瞳から涙が消え、鋭い光が宿った。


「……それは、どういう意味ですの?」


「言った通りの意味だよ。ボクが貴族特有のまどろっこしい言い回しを嫌いなのは知ってるだろ? 君は美しい。今の君なら、誰も逃げたりしない。むしろ、世界中の男が君を求めて寄ってくるはずだ――」


バン!


激しい破砕音が、ボクの言葉を遮った。

見れば、イリシュの右手だけがボクの記憶にあるあの筋肉質な腕へと膨れ上がり、手に持っていた高価なティーカップを粉々に握りつぶしていた。


見目麗しい可憐な少女の、右手だけが巨大化している。異様な光景だった。

ボクの母から借りたドレスを破らぬよう、袖から先だけが変化しているところを見ると、どうやら制御はできているようだ。


「わたくしが知りたいのは、ハイド、あなたの気持ちです! その他大勢の気持ちなど、今この場で持ち出すのは無粋の極みですわ!」


飛び散った陶器の破片を視線で追いながら、ボクは小さく溜息をつく。


「……ボクがなぜ、この部屋から一歩も出ずにアバターなんて使っているのか。その理由を話しておくよ。君には知る権利があるからね」


ボクは椅子の背にもたれかかり、明滅するモニターの光を背に受けた。


「驚かないで聞いてほしいんだけど、ボクにはね、生まれた時から『前世』の記憶があったんだ。そこはもっと食が豊かで、誰もが満たされている世界だった。だから、この世界のあまりに遅れた食糧事情が我慢できなかったんだよ。不味くて、少なくて、何より非効率だ」


「前世……? 別の人生を歩んでいたというのですか? ……まあ、あなたほどの規格外な方なら、あり得ない話ではない気がしますわ」


イリシュは戸惑いながらも、ボクの話を否定せずに先を促す。


「ボクはまず、自分の領地の農改革を始めた。領民を説得して、みんなで大規模農業を成功させた。でも、作れば作るほど、次の壁にぶつかった。……『流通』だよ」

「流通……。収穫した食糧を、届けるべき場所へ運ぶ。難しい問題ですわ」


「そう。他人任せにしていると、届けたい人たちに届く前に、どこかの強欲な奴らに奪われてしまう。それが許せなかった。だから、ボクは既存の輸送手段を捨てて、自動運用できるドローン型飛行ユニットを開発したんだ」


「どろーん? 蜂、ですの? ゆにっと?」

「聞き慣れない言葉だよね。まあ、早い話が、空飛ぶ魔導具のことなんだ。目的地を設定すると、気象状況などを把握して、最適なルートを飛んで行く」


「そう説明されても意味がわかりませんわ。そんなこと、可能なのですか、としか。でも、あのバラ園のことを思えば、あなたなら、できるのでしょうね」


「ああ。馬車でまとめて運ぶから狙われる。なら、数で圧倒すればいい。小さなユニットを数万、数十万と飛ばし、小分けにして世界中に輸出する。一つや二つが打ち落とされたところで、全体の供給には影響しない『面』での輸送だよ。……でもね、その代償として、ボクはこの部屋から出られなくなった」


「……どういうことですの?」


「数万の飛行ユニットの経路、在庫、妨害への即時対応。それらを完璧に制御し続けられるのは、世界でボクの脳だけなんだ。ボクがこの部屋を離れれば、世界の食のインフラが止まり、多くの人が飢えることになる。ボクは、この巨大なシステムの『心臓』になってしまったんだよ」


ボクが淡々と語り終えると、部屋には機械の駆動音だけが響いた。

イリシュはしばらくの間、黙ってボクを見つめていたが、やがて静かに口を開いた。


「事情はわかりました。あなたがどれほど並外れた存在で、どれほど過酷な責任を背負っているかも。……でも、わたくしがお聞きしたのは、そのようなシステムの話ではありません。ハイド、あなたがわたくしのことをどう思っているのか。ただ、それだけですの」


「ボクの気持ち、か」


きっとボクのしていることの一部たりとも理解などしていないだろう。

けれど、イリシュにとって、今、もっとも大切なことが、ボクの気持ちだという。


「ボク個人の事情や、立場、効率、そういったものを全部無視して、ただ純粋に言葉にするなら――」

「……」


「君のことは、好きだよ」

「……」


しばし、イリシュが動きを止めた。

巨大化していた右手はいつの間にか、本来の細く美しい手に戻っていたが、粉々になったティーカップは戻らない。


しばらく目を離してしまったけど、ドローンは大丈夫だろうか。

ここ二年くらい自動制御の精度を上げるべく、必死にシステム構築してきたので、ある程度は目を離しても、すべてが落ちたりはしない。

誰もわかってくれないけど、一人でここまで組み上げた苦労は、誰かに労ってもらいたい。


「――え、それだけですの?」


唐突に、イリシュは拍子抜けしたような声を上げた。


「うん」

「もっとこう、様々な言葉を使って、情熱的に表現してくださいませんか! 詩を詠むように、あるいは深遠な哲学を語るように!」


「無理だよ。ボクの語彙は論理とデータで構成されてるんだ」


イリシュは、粉々になった破片を放り出し、椅子を蹴るようにして立ち上がった。


「本当に、わたくしのこと、女性として好きなんですの!? その言い方では、『美味しい食べ物が好き』というのと同じに聞こえますわ!」


ボクは本気で困惑した。


「好きに、それ以上もそれ以下もある?」

「わたくしがお薦めした恋愛小説で、あなたはいったい何を学んだのですか!」


「ああ、なるほど。女性が望むであろう、甘い砂糖菓子のような言葉を求めている、というデータは入力されたよ。安心してほしい」

「安心などできません! わかっているなら、今すぐ実行してくださいまし!」


「また、筋肉が戻り始めてるよ。その武装、怒りの感情にも連動してるんだね」

「あなたがいけないんでしょう!」


しばらくの間、イリシュからの猛烈な抗議を、ボクは穀物の流通グラフを眺めるような気分で受け流していた。

早く本題に戻りたい。ボクは、この国の胃袋を預かる身として、やるべきことが山積みなのだ。


「……わかりましたわ」


不意に、イリシュが抗議をやめた。


怒りが収まったのか、それともお帰りになるのかと思ったけれど、彼女はつかつかと歩み寄ってきて、ボクを正面から抱きしめた。

ボクも、自然とその細い背中に腕を回す。


「何がわかったの?」

「あなたとの話し合いは、きっとこの先もずっと、こんな風に永遠に続くのだということが。ですから、今すぐ答えを求めるのはやめますわ。今はただ、この幸せを堪能しなくては」


「ここに来た目的、忘れてない?」

「何をおっしゃいますか。目的は、もう果たされましたわ」


「え?」


「貴族の淑女が、婚約者以外の男性の私室で、二人きりで過ごしたのです。ドアもしっかり閉まっていた。この状況だけで、婚約破棄の『瑕疵』としては十分すぎるほどですわ」


「関係、持たなくてよかったの?」

「ええ。……まあ、教会あたりは『純潔の確認』だのと言い出すかもしれませんが。近づけるものなら近づいてみなさい、一喝して差し上げれば、皆さん逃げていくでしょうし」


「……脳筋だね」

「筋肉王女ですもの」


イリシュはボクの胸の中で、いたずらっぽく笑った。


「でも、お望みとあらば、わたくしは――」


コンコン。


再び、絶妙なタイミングでドアが開く。マルタが中には入らず、声だけを投げかけてきた。


「ハイド坊ちゃま、旦那様が様子を見てこいと。入室しても大丈夫でしょうか?」


絶対に中の様子はわかっているはずだ。

抱きつかれたままの状態を見られたら、後でどれほど教育的指導(小言)を受けることになるか。


「今行くよ」


ボクはそう答えて、貼りついたままのイリシュを少しだけ名残惜しく思いながら引き剥がす。


「……残念ですが、当主様と奥様に、ご挨拶はしなくては」


イリシュもギリギリの理性は残っていたらしい。


「御覚悟くださいまし。奥様が、それはもう……」


マルタが脅すように言う。


「……行きたくなくなってきた。イリシュ、君だけで行ってくれない? どうせボクには用はないよ。ボク、忙しいし……」


「何をおっしゃいますか。ここできちんと話をしておかなくては、本来であれば男爵家の取り潰しすらあり得ますわよ。ハイドさんの功績、この国の食糧事情を牛耳っておられるようなので、心配はいらないと思いますが、話の持って行き方は慎重にしなくては」


イリシュの可憐な手に引かれ、ボクは部屋から連れ出された。



・ ^ ・ ~ ・✿・ ~ ・ ^ ・



数週間後。王立学園の西端、〈忘れられたバラ園〉を包む虹色のドームは、今日も変わらず幻想的な光を放っていた。


けれど、その中に流れる空気は、以前とは決定的に異なっていた。

東屋のソファに寝転がっているボクは、依然とあまり変わりないか。


「……ハイド、そろそろ時間ですわ。予鈴が鳴りましたよ」


その涼やかな声に顔を上げた。

ボクに膝枕をして、じっと見つめているイリシュは、劇的に変化した。

白磁のような肌と、しなやかな四肢を持つ、誰もが二度見するほど可憐で高貴な王女そのものだ。


「あと少し……。放っておくと、大陸の北側ルートが半壊しちゃうから、討伐用ドローンを――」

「遅刻は感心しませんわ。あなたが『男爵家の嫡男』としてここにいる以上、最低限の出席日数は確保していただかないと」


イリシュは困ったように微笑み、ボクの頭をなでる。

彼女から漂うのは、かつての腐蜜魔瘴などではなく、王宮御用達の調香師によって調合された、瑞々しい朝露のような花の香り――らしい。


アバターのボクにはわからないけど。


「……ふふ、まあ、少しくらい待たせても、よろしいでしょう。こうして二人っきりの時間を過ごせるのも、限られてしまいましたから」


今や、本来の姿を取り戻した王女様は、この学園のヒエラルキーの頂点に君臨している。

廊下を歩けば、多くの学生が一言でも言葉を交わして顔を覚えてもらおうと必死で、イリシュの周りには常に取り巻きがいる状態になってしまった。


かつては、イリシュの唯一の居場所であったはずの〈忘れられたバラ園〉は、ボクが自室で作業している間にアバターの安全を確保するための避難所でしかない。

イリシュも、まだ騒がしくなった環境に慣れておらず、ときおり取り巻きを振り切っては、ここに避難している。


「早く卒業したいよ。この二重生活にもうんざりしてるところなんだ」

「同感ですわ。アバターであるハイドを抱きしめても、嬉しくありませんもの。卒業して、すぐにでも婚約の儀を行いましょう」


婚約、と言えば――。


「バイカ殿下とは、もう婚約解消できたの?」

「ええ。あの方は『怪物の嫁から解放された!』と、三日三晩の大宴会だったそうです」


「そうなんだ。でも、こんなに可憐になった君を見たら、やっぱり惜しくなって求愛しに来るんじゃないかな?」

「失礼ながら、あの方にそんな度胸はありませんわ。わたくしが、ほんの少し腐蜜魔瘴を一吹きでもすれば――」


「ああ、そっか。そこでうずくまって、穴という穴から垂れ流してたからね、心に傷を負ったかも」

「ええ」


「〝それ〟で、教会の特使も追い返したんでしょ?」

「滑稽、その一言でしたわね。特使の老司教様が自ら乗り込んできて、わたくしの寝室まで乗り込もうとなさいましたから。一息、吹きかけて差し上げました。ふーっと」


「……生きてた?」

「残念ながら。あんな化け物に近づける者などいるはずがない!と最後までお認めになりませんでしたが、そのままご勇退されたとのことです」


「けんかを売る相手を間違ってるよね」

「ええ。……間違っていると言えば、王宮の重鎮たちですわね。権力の座にしがみついたままだから、本当に力を持っている者を見間違えましたわ」


「ああ。ボクの極刑を叫んでたって? 王女の純潔を奪った不届きな下級貴族として。当然といえば、当然なんだろうけど」

「ええ、それはもう勇ましく。広場の断頭台を磨いて待っている、とまで仰っていましたわ。……でも、あなたの『正体』を知る者ほど、面白いほど顔が真っ青に、いえ、真っ白に染まっておりました」


「まあ、だから、輸送ルートの改編案をちょっと流出させてみたんだよね」

「てきめん効果がありましたわね。国の中でも辺境も辺境にある男爵家に、輸送ルート改編に対する陳情書を携えた使者が行列を作ったとか」


「陛下が、すごい形相でここに飛び込んできたときはびっくりしたね」

「まったく。情けないかぎりですわ。正直申しまして、わたくし、陛下のご尊顔を近くで拝見したのは、あの時が初めてでして。なのに、その初めてが――」


「びっくりした君が、魔力をすべて解放しちゃうからだよ。――陛下の名誉のために、見なかったことにしたけど」

「しようがありませんわ。あんな情けない方が、わたくしのお父様だと信じたくはありませんから、わたくしも見なかったことにいたしました」


――えっと、なんの話だっけ?


「あ、そうそう。授業の時間じゃなかったっけ?」

「そうですわ! もう! 楽しい時間はあっという間ですもの、まいりましょう」


ボクがアバターを立ち上がらせ、イリシュの手を引いて立たせて、〈忘れられたバラ園〉を出る。


「まあ、睨まれはするけど、ボクたちを叱りつけるような気概のある教師はいないよ」

「それはそうでしょうね。わたくしたちやこの〈忘れられたバラ園〉が学園内で、何と言われているか、ご存知ですの?」


「しらない。なんて言われてるの?」


「インヴァイオラブル・エデン、ですわ。侵されざる楽園の主、それがわたくしたちなのです」

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