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絵を食う怪

作者: Ono
掲載日:2026/04/11

 山間に、時刻表からも忘れられたような鄙びた田舎町があった。町の名は雨綴(あまつり)町という。列車は一日にのぼりが二本、くだりが三本。駅舎の木のベンチは古く、夏でもどこか冷たく、改札には誰もいない。それでも列車は律義にやってきて、降りる人より、風と落ち葉のほうが多かった。

 家々の間を縫うように流れる小川は浅く、橋は低くて、夕方になると家庭の晩餉の匂いが漂ってくる。味噌、焼き魚、煮豆、湿った匂い。そういうものが町の一日の大半を占めていて、人々の暮らしの隙間にはいくつかの怪異がごく自然に棲みついていた。


 雨綴町の怪異は、たとえば軒先に吊るした風鈴の音を少しずつ集めて夜の間に縁側の下へ蓄えるものだったり、誰も通らない路地にだけ朝顔を一斉に咲かせるものだったりした。

 春先には郵便受けの口から白い蝶が出てきて、配達人が困った顔でそれを見送ることもある。夏には西瓜の蔓がすべてまっすぐに伸ばされ、子供たちが指でくるくると巻いてまた元に戻すことがある。秋には銀杏が調理済みで落ちてきて、冬の最初に咲いたツワブキだけをヒマワリに変えてしまう。

 けれど誰も騒がない。多少戸惑う悪戯ではあれど、誰かが困るものではないことを誰もが知っていた。


 そんな雨綴町で最も古くから知られている怪異が、“むし食い”と呼ばれるものだった。むし食いは物語を食べる。特に子供が好むような絵本をよく食べた。

 もちろん表紙ごとむしゃむしゃやるわけではない。食べるのは、絵や文の中に描かれたものだけだ。真っ赤に熟れたリンゴ、湯気をたてるスープ、バターが照る焼きたてのパン、匙で掬った金の蜂蜜――そういった、物語の中の“おいしそうなところ”を選んで、夜の間にそっと食べてしまう。朝になると絵本の中からそのページだけが真っ白になっている。


 町の人はそれを惜しまず、むしろ丁寧に受け入れていた。古い絵本が一冊あると、誰かがこう言う。

「これはもう結構読まれたから、むし食いにやってもええんじゃないか」

 そして夕暮れ、窓辺や寺の縁、無人の駅舎の待合室、古本屋の棚の下のほうへ、用の終わった絵本が伏せて置かれる。すると夜の間にむし食いがやってきて、描かれた料理や果物やお菓子を食べる。翌朝、白くなったページからは満足げな香りが仄かに残る。イチゴの描かれていたページならイチゴの匂い、家族の食卓のページからはバターと玉ねぎの甘い香り。

 雨綴町において、その名残の匂いが漂った朝の食卓は、少しだけ気持ちが豊かになるのだった。


 休暇に里帰りしてきた(しおり)が、祖母の古本屋『つづら堂』の戸を開けたのは、そんな晩秋のことだった。祖母が亡くなって店じまいの支度をするための帰郷だった。

 大学へ進んでから栞は東京でひとり暮らしをしていたし、雨綴町の静けさは、いつのまにか自分には古すぎるもののように思えていた。駅前の小さな商店も減り、薬屋は閉まり、かつて映画館だった建物は蔦に包まれている。町は以前にもまして鄙びていた。

 けれど『つづら堂』の中へ入った瞬間、古い紙と木の棚の匂いに混じって微かに甘い香りがした。ミカンの香りだった。

 見れば児童書の棚の下段に、小さな絵本が一冊、開いたまま置かれている。真っ白になったページの余白だけが夕陽を受けて明るかった。

「まだ、おるんやね」

 思わず栞は呟いた。すると棚の影で紙片が翻るような気配がした。灰色のしおり紐みたいな細い尾が揺れる。雨粒を閉じ込めたような丸い目。


「……むし食い?」

 猫ほどもない大きさで、狐に似ているとも、紙魚に似ているとも言われるが、誰もはっきり見たことはない。はっきり見えないからこそ、昔から町に馴染んでこられたのかもしれなかった。

 栞は昔、“鈴隠し”が風鈴の音色をいそいそと運ぶところを見かけたことがある。“春配り”が郵便受けの扉を開けようとして、栞に気づいて慌てて蝶を撒きながら逃げていくのを見たことがある。

 しかし、その怪異は初めて見た。祖母が生前、よく言っていたことを思い出す。

『むし食いはな、腹が減ると絵本を食う。ほんとうは、あれは話の続きを待っとるんよ』


 店の片づけを始めて三日目、栞は倉庫の奥から見覚えのない一冊を見つけた。布張りの表紙に題名はなく、ページの一枚一枚が厚い画用紙で、どこか手作りめいている。開くと、そこには祖母の字で短い文と素朴な絵が描かれていた。

 ――むかしむかし、ある町に、夜になると絵本を食べるものがおりました。食べられたページの匂いは、朝の台所へ帰っていきました。だから町の人は、食べものの絵をたくさん描くようになりました……。

 そこまで読んだところで、次のページは白紙だった。最後まで、ずっと白紙だった。

 栞はその絵本を開いたまま考え込む。祖母は書き終える前に亡くなってしまったのだろうか。それとも最初から、誰かに続けさせるつもりだったのだろうか。


 その晩、栞は店の帳場に布団を敷いて眠った。夜半、雨戸の隙間から月の光が斜めに差し、古本屋の棚という棚がひそやかな息づかいで満ちた。紙が擦れる音。頁がひとりでにめくられる音。

 ふと目を開けると帳場の上にあの白紙の絵本が開かれていて、むし食いが一匹、行儀よく座っていた。丸い目がじっと栞を見る。

『……続きが食べたいんよ』

 そう言われたような気がした。


 むし食いは単に描かれた絵だけを食べるのではない。この町では昔から、誰かが描き、誰かが語り、誰かが食べるものを思い浮かべる、その一連の営みごと怪異の食事になっていたのだ。だから絵本の食べものが白く消える朝には、家々の味噌汁が妙にうまく、パン屋のあんぱんが少しだけ艶やかになる。

 怪異は町の暮らしを侵さない。ただ人々の暮らしのすぐそばで、同じように腹を空かせている。


 翌日から、栞は白紙のページに絵を描き始めた。我ながらあまり上手ではないなと思う。むしろ不器用だった。リンゴはテーブルの角にぶつけたように歪んでいるし、シチューの鍋のふちは波打って、湯気は雲みたいに太っていた。けれど描くうちに栞は祖母の台所を思い出していた。

 冬になるといつも煮ていた大根。焦がした砂糖の匂い。小豆を炊く鍋のふつふつという音。熱いお粥に卵を落としてくれた朝。

 熱を出して何も食べられなかった時、祖母は「ひと口だけでええから」と言って、匙をふうふうと冷まして口許へ運んでくれた。あの優しい香り。

 食べることは、栞にとっていつしか生き延びるための作業になっていた。都会での暮らしは忙しく、コンビニの包装を剥がしてパソコンの画面を見ながら口へ運び、味もろくに覚えていない。祖母が死んでからはなおさらだった。

 けれどここに絵を描いていると、それらの線は急に食べものの顔を取り戻した。誰かが誰かのために作るもの。いただきますが揃うまでに湯気を見つめるもの。口に含むと胸の奥まであたたかくなるもの。


 一週間かけて、栞は一冊の絵本を仕上げた。題名は『ふゆのしたく』とした。

 雪の降る前に町の女の子が家々をまわって、カボチャをもらい、豆をもらい、川魚をもらい、最後におばあちゃんの家で大鍋のシチューを食べる、ただそれだけの話だった。大きな事件も説教じみた寓意もない。

 ページをめくるごとに町の風景と台所の灯りと、ひとの手からひとの手へ渡る食べものの絵が並ぶだけの、日常の絵。

「スライス・オブ・ライフ……なんて、ちゃんと言うたら大袈裟やんね」

 苦笑しつつ、栞はその絵本を、祖母がいつもそうしていたように『つづら堂』の棚の下段へ伏せて置いた。


 夜半、雨が降っていた。屋根を打つ雨音に混じって微かな咀嚼の気配がした。

 とん、とん、さく、さく、こと、こと。

 雨音と紙を食べる音と、煮込みの音がひとつになったような、不思議にやさしい音だった。

 朝になって絵本を見に行くと、最後の見開き――大鍋のシチューのページだけがきれいに白くなっていた。そして『つづら堂』いっぱいに湯気の匂いが満ちている。

 飴色になるまで炒めた玉ねぎの甘さ。とろけた牛乳のやわらかさ。ローリエの青い影。祖母の家で何度も嗅いだ、冬が近い夕暮れの匂いだった。栞は思わず店を飛び出して、向かいの肉屋の隣、小さな惣菜屋へ走った。店先でおかみさんが鍋の蓋を開け、目を丸くしていた。

「あら栞ちゃん、見てみい。昨夜仕込んだシチュー、えらいよう出来とる。むし食いが出たんかね」

 ひと口もらって、栞は胸のどこかが熱くなるのを感じた。祖母の味に似ていた。まったく同じではない。けれど同じでないからこそ、ちゃんと今この町で作られた味だった。むし食いは絵に描かれた食べものを咀嚼して、町の朝へ返してくれたのだ。


 その冬、栞は『つづら堂』を閉めるのをやめた。本屋として続けることは難しかったので、残されたものを読むための居場所として、人々が集って茶を飲む場所として、そして時々、誰かが“むし食い”にあげたい絵本を置く場所として残すことにした。

 子供たちは放課後になると店へ集まり、下手でも構わずオムライスやハンバーグの絵を描いた。年寄りたちは昔話の本を持ってきて、「このぼた餅は、昔からよう食われるから」と笑った。白くなったページが増えるごとに、町の食卓は少しずつ賑わうのだった。


 春になれば菜の花の絵が食べられて、おひたしがやけに青く香った。夏には西瓜の頁が消えて、井戸水がよく冷えた。秋には栗ご飯の絵がなくなって、炊飯器から甘い匂いが洩れた。

 怪異は相変わらず怪異のままだった。理屈では説明がつかない。捕まえることも、飼い慣らすこともできない。けれど人々は理解しきれないものと、何を気にするでもなく一緒に暮らしている。

 おそらく、毎日の湯気や食卓の明かりや、誰かに「お食べなさい」と言われる声のほうが、理屈よりも先に心へ届くからだった。


 ある雨の夕方、栞は店の戸口に立って濡れた町を眺めていた。屋根瓦は黒く光り、川面に夕靄が立ち、遠くで一両編成の列車が遠吠えをする。あれは列車のふりをした何かだった。時刻表にない時間に駆ける列車を見つめ、栞は微笑む。

 鄙びた田舎町はどこまでも静かだ。その静けさの底に、人々と共に無数の怪異が息づいている。

 ふと足元を見ると、戸口の脇に小さな足跡があった。濡れた土の上に、筆で刷いたような跡が、ちょん、ちょん、と並んでいる。その先には昨夜置いた新しい絵本。表紙には誰が書いたものか見知らぬ字で『あめのひのごちそう』とあった。


 夜まで待てなかったのだなと栞は笑って、それを拾い上げる。

「ごちそうに弱いんよね」

 中身を確かめるのは明日の朝にしようと思った。今日むし食いは何を食べて気に入ったのだろう、そんな些細な楽しみもまた日々の暮らしに混じっていった。

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