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「口うるさいお前より、可憐な彼女を守りたい」と浮気した婚約者様。〜私が自費で雇っていた腕利きの料理人と有能な侍女を全員引き連れて退去しますので、あとはご自由にどうぞ〜

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/03/25

 ヘヴントール侯爵家のサロンに、午後の柔らかな光が差し込んでいた。


 窓際の花瓶には今朝ベアトリスが活けた白百合が飾られ、磨き上げられたテーブルの上には、私が今朝焼かせた胡桃と蜂蜜のブリオッシュがまだ半分ほど残っている。


 あのパンには三日かけて起こした自家製酵母を使った。小麦粉はフェルダー産の石臼挽きを七割、ライデン産の強力粉を三割。バターの量は通常のブリオッシュの六割に抑えてある。ヘヴントール様の直近の健康診断で中性脂肪の数値が基準を超えていたからだ。代わりに胡桃の良質な油脂で風味を補い、蜂蜜は精製糖より血糖値の上昇が緩やかなものを選んでいる。一次発酵は二十八度で四時間。二次発酵は三十五度で四十分。焼成温度は百八十度で十八分。パン職人のハインツにはその都度、温度計の数値を記録させていた。


 ふっくらと膨らんだ黄金色のクラムは、何度も配合を試した末にようやく辿り着いた最適解だった。口に含めば、外はさっくりと軽く、中はしっとりと甘い。噛むほどに胡桃の香ばしさが広がり、蜂蜜の優しい甘みが鼻に抜ける。


 ──それを、ヘヴントール様は一度たりとも褒めてくださったことがない。


 パンだけではなかった。血圧を考慮して塩分を控えた肉料理。消化に負担をかけないよう、繊維質の多い野菜を取り入れた付け合わせ。就寝前の胃もたれを防ぐため、夕食は必ず就寝三時間前に終えるよう調整した食事の時間割。


 そのすべてを、ヘヴントール様は「地味で味気ない食事」と呼んだ。


「エレアナ」


 ヘヴントール様の声が、サロンに響く。


 私は姿勢を正してその声を受け止めた。目の前に立つ婚約者は、私ではなく隣の少女の肩を抱いている。


 ふわふわの蜜色の巻き毛に、大きな碧眼。小柄で華奢な体躯。薄桃色のドレスの裾を両手でちょこんと摘まんで、不安そうにこちらを見上げる仕草。ライラ・フォン・メルツ男爵令嬢。社交界で「小鳥のライラ」と呼ばれる、いかにも庇護欲をそそる容姿の少女だ。


「お前との婚約は、今日をもって破棄する」


 ヘヴントール様は芝居がかった仕草で宣言した。その横顔には、長年の夢がようやく叶ったかのような昂揚がある。


「口うるさいお前より、可憐な彼女を守りたい。食事だの金だのと小言ばかりの地味な女を、妻にしたら心労で早死にしてしまう」


 ライラ嬢がヘヴントール様の腕にぎゅっとしがみつき、「ヘヴントール様……」と甘い声を漏らす。


 口うるさい地味な女、か。


 たしかに、そう見えていたのだろう。毎月の家計簿を一銅貨の単位まで記録し、食材の仕入れ値が不当に高ければ業者と交渉し、使用人の給金の支払日を一日たりとも遅らせなかった私は、華やかな社交界の花とはほど遠い存在だったに違いない。


 けれど私は、驚かなかった。


 なぜなら、この日が来ることを──正確に言えば、この日が来ても困らない準備を、私はとうに済ませていたからだ。


 半年前から、ヘヴントール様とライラ嬢の関係には気づいていた。夜会の後にほんのりと漂う甘い香水の残り香。帳簿に記載のない宝飾品の出費。ライラ嬢の実家であるメルツ男爵家への不自然な「贈答品」の支出。すべて、家計簿を管理していた私の目には筒抜けだった。


 そして私は、怒るのではなく、計算を始めた。


「──予定通りですね」


 背後に控えていた従者のルーカスが、そう短く呟き、音もなく私の横に進み出た。


 栗色の髪を短く刈り込み、灰色の瞳には一切の感情を浮かべない。没落した下級貴族・ヴェーバー家の三男坊として、幼い頃から私の側仕えをしてきた男。無口で、必要なこと以外は口にしない。けれどその代わりに、私が何を考え、何を必要としているかを、視線ひとつで読み取る。


 今日も例外ではなかった。


 ルーカスの手には、すでに用意されていた革の書類挟み。飴色の革に銀の留め金がついたそれを、彼は一切の躊躇なくテーブルの上に置いた。


 中身は二種類の書類の束だ。


 一つは、過去三年間の「精算書」。


 もう一つは、この屋敷で働くすべての使用人に対する「解雇通知書」。


「……なんだ、これは」


 ヘヴントール様がテーブルの書類に目を落とし、眉をひそめた。数字の羅列が並ぶ精算書の意味を、すぐには理解できなかったらしい。無理もない。この三年間、帳簿を開いたことなど一度もない方だ。


「過去三年間、私がこの屋敷の運営に投じた費用の明細です」


 私は穏やかに、けれどよく通る声で説明した。


「料理長ハインツの給金。菓子職人マルタの給金。筆頭侍女ベアトリスの給金。その他、侍女三名、庭師一名、洗濯係一名、馬丁一名の人件費。加えて、毎月の食材費、厨房の設備維持費、屋敷の修繕費。すべてを項目ごとにまとめてあります」


「は……? 何を言っている。使用人の給金は侯爵家の経費だろう」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「ヘヴントール様。あなたの侯爵家の資産状況では、まともな使用人を一人も雇えません」


「な……っ」


「領地に引きこもっておられるお義父様たちは、この別邸を維持する費用などとうの昔に出せなくなっています。あなたの連日の夜会費や見栄のための馬車代で、侯爵家の金庫はとうに底を突いているのですから」


 ヘヴントール様が息を呑んだ。痛いところを突かれたのだろう。


「そもそも、この婚約は私にとって望んだものではありませんでした。我がカーライル伯爵家の莫大な財力と、侯爵家の高い爵位を交換するだけの、愛のない政略結婚。それでも、嫁ぐと決まった以上は次期侯爵夫人としての『義務』を完璧に果たそうと、私は将来自分が取り仕切るこの屋敷を、私の基準で整えるための『先行投資』をしたに過ぎません」


「なっ……」


「ですから、この屋敷で働く者たちの高い給金は、初日から一銅貨に至るまで、すべて私個人の資産から支払われていたのです。そして何より──あなたが自らこの婚約を破棄してくださったこと、心から感謝いたしますわ」


 私は心底晴れやかな気持ちで、目を丸くするヘヴントール様に微笑みかけた。


「これでようやく、私は重苦しい義務から解放されて、自由になれるのですから」


 沈黙が落ちた。


 ライラ嬢がヘヴントール様の腕を不安そうに握り締めるのが視界の端に映ったが、私はもうそちらを見なかった。


「それに、あなたの健康を思っての食事管理でしたが、お気に召さなかったのなら仕方ありません。これまでに立て替えた修繕費などは手切れ金と思って差し上げます。慰謝料は不要ですので、私の『私物』だけ引き上げさせていただきますね」


「私物……だと?」


「ええ」


 私は微笑んだ。三年間、この屋敷で浮かべ続けた「良き婚約者」の微笑みではなく、すべての荷を下ろした、清々しい笑みだった。


「この屋敷で働く使用人たちは、全員が私個人との雇用契約を結んでいます。雇い主は最初から私でした。ですから、彼らは私の『私物』のようなもの。当然、私と一緒に退去いたします」


 ヘヴントール様の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。唇が震え、何か言おうとして、けれど言葉が出てこない。その隣でライラ嬢が「え……? どういうこと……?」と小首を傾げているのが、どこか滑稽だった。


 けれど、私はもう振り返らない。


 ルーカスが滑らかな動作で扉を開けた。彼の所作には一分の乱れもなく、まるでこの瞬間のために何百回も予行演習を重ねてきたかのようだった。


 私は三年間を過ごしたサロンを後にした。白百合の香りが、背中に残った。




---




 屋敷の正門を出ると、砂利を敷き詰めた車寄せに二台の馬車が整然と並んでいた。


 一台目は黒塗りの四頭立て。カーライル伯爵家の紋章入りで、これは私が嫁入り道具として持参したものだ。二台目はやや小ぶりの幌馬車で、荷台には使用人たちの荷物が隙間なく積み込まれている。


 そして、その馬車の前には、見慣れた顔ぶれが並んでいた。


 白い料理帽を小脇に抱えた大柄な男──料理長のハインツ。その隣に、小柄で丸顔の菓子職人マルタ。白髪交じりの髪をきっちりとまとめた筆頭侍女のベアトリス。さらに若い侍女が三名、庭師のフリッツ、洗濯係のヒルダ。全員が旅支度を整え、静かに私を待っていた。


「エレアナ様、お待ちしておりました」


 ベアトリスが深く一礼する。その動きには一片の動揺もなかった。当然だろう。彼女は侯爵家に仕えているように見えて、実際には私の実家であるカーライル伯爵家から派遣された人間だ。三年前、私がこの屋敷に入る際に「目付け役」として送り込まれた、母の右腕ともいえる女性である。


「皆、急な話で申し訳ないわね」


 私がそう言うと、ハインツが太い腕を組んで鼻を鳴らした。


「急も何も、三日前にルーカス殿から『そろそろだ』と聞いておりましたんで。酵母の種も道具も、とっくに荷造り済みですよ」


「あら、用意がいいこと」


「嬢様のパンの味を、あの侯爵の坊ちゃんに食わせるのは今日で最後だと思えば、気合も入るってもんです」


 ハインツの言葉に、マルタがくすくすと笑った。


「私も砂糖の在庫は全部持ってきましたよ。あの屋敷に残してきたのは、塩と酢くらいのものです」


 ベアトリスがたしなめるように咳払いをしたが、その口元にはかすかに笑みが浮かんでいた。


 彼らは皆、知っていたのだ。ヘヴントール侯爵家の火の車の家計を支えていたのが誰なのかを。派手な夜会の費用も、日々の食卓の贅沢も、すべて私の財布から出ていたことを。そして、婚約者がその事実に気づくことなく、別の女の肩を抱いていたことも。


 使用人たちが次々と幌馬車に乗り込んでいく。ハインツが最後に屋敷の厨房を一度だけ振り返り、「まあ、世話になったな」と呟いて背を向けた。三年間、毎朝暗いうちから火を入れ、私の細かい指示に応え続けてくれた厨房。彼にとっても、思い入れがないわけではなかったのだろう。


 私は一台目の馬車に乗り込んだ。ルーカスが後に続き、扉を閉める。


 御者の合図で馬車が動き出した。車輪が砂利を噛む音がして、やがて石畳の滑らかな振動に変わる。


 窓の外を、ヘヴントール侯爵邸の白い外壁が流れていった。春の陽光に照らされたその壁は美しかったが、私にはもう何の感慨も湧かなかった。あの屋敷で過ごした三年間は、言ってしまえば「業務」だった。家計を管理し、使用人を指揮し、婚約者の健康を守る。伯爵令嬢としての責務を、私は完璧にこなした。ただそれだけのことだ。


 ヘヴントール様を愛していたわけではない。ただ、伯爵令嬢として完璧に役割を演じきらなければならないというプレッシャーだけが、三年間の私を縛り付けていた。それが今、すべて消え去ったのだ。


 これで私は、社交界において「婚約破棄された傷物の令嬢」になった。利益に聡いお父様のことだ、価値の下がった私を無理に他家へ押し込むような真似は諦め、見栄えの良い次女や三女を新たな政略結婚の駒として使うだろう。


 感傷に浸る暇もなく、ルーカスが動いた。


 不意に私の右手を取り、懐から出した柔らかな起毛布でそっと包み込んだのだ。


「……冷えていますね」


 言われて初めて気づいた。自分の指先が氷のように冷たくなっていたことに。三年間、表面上は穏やかに、けれど常に神経を張り詰めて過ごしてきた。帳簿の数字を睨み、使用人に指示を出し、ヘヴントール様の体調を記録し、来るべき日のために書類を整える。その緊張の糸が、馬車の扉が閉まった瞬間にぷつりと切れたのかもしれない。


「紅茶をどうぞ」


 ルーカスは馬車に備え付けの携帯茶器から、手際よく一杯を注いだ。磁器のカップに満ちた琥珀色の液体から、ほのかにベルガモットの香りが立ち上る。


 私はそれを受け取り、一口含んだ。


 温度は六十五度。私がいちばん美味しいと感じる、舌を火傷せず、かといってぬるくもない、ちょうどいい温度。馬車に揺られながらこの温度を維持するのは簡単なことではない。出発の時間を逆算して湯を沸かし、茶葉の蒸らし時間を計算し、注ぐ直前まで保温布で茶器を包んでいたのだろう。


 こういう男なのだ。ルーカスという人間は。


 言葉にはしない。けれど、すべてを察して、すべてを整える。


「これからは、ご自身のためだけにお過ごしください」


 ルーカスは窓の外に目を向けたまま、静かに言った。


「他の誰かのために身を削る必要は、もうありません。嬢様が食べたいものを食べ、嬢様が眠りたいときに眠り、嬢様が笑いたいときに笑えばいい」


 そして、一拍の間を置いて。


「俺は、どこまでもお供いたしますから」


 従者としての一線を、ぎりぎり越えない言葉だった。「お供いたします」は従者の常套句に過ぎない。けれど、その声の奥底に、常套句では済まされない熱が籠もっていたことを、私は聞き逃さなかった。


 返事はしなかった。ただ、冷えた指先を温めてくれた起毛布を、少しだけ強く握り締めた。


 窓の外では、街路樹の白い花びらが風に舞っていた。




 それから数日のうちに、私は王都の南郊外にこぢんまりとした別荘を購入した。煉瓦造りの二階建てで、裏手には小さな菜園がついている。屋根裏には使用人たちの部屋を整え、一階の広い厨房にはハインツが目を輝かせた。


「この竈の造りは上等ですな。温度の回りが均一だ。嬢様、ここならもっと良いパンが焼けますよ」


「じゃあ明日から、新しい酵母を起こしましょう。この辺りは空気がいいから、天然酵母の培養にも向いているはずよ」


 マルタが菓子の型を棚に並べ、ベアトリスが寝室のカーテンを吊るし、フリッツが菜園の土を耕す。小さな別荘は、一日と経たずに「私たちの家」になった。


 ヘヴントール様のための食事はもう作らなくていい。中性脂肪の数値を気にして脂質を計算する必要もない。好きな粉を好きな配合で混ぜ、好きな温度で焼き、好きなだけバターを使える。


 その夜、私は自分のためだけに焼いた、バターをたっぷり使った贅沢なブリオッシュを頬張って、生まれて初めて「ああ、自由だ」と思った。




---





 私たちが去った翌朝。ヘヴントール侯爵邸では、前代未聞の事態が起きていた。


 朝食の鐘が鳴っても、厨房に火が入らない。食堂のテーブルには布すら掛かっていない。花瓶の水は替えられず、廊下の燭台には蝋の垂れた跡がそのまま残されている。


 ヘヴントール様が寝室から降りてきたとき、広大な屋敷には人の気配がなかった。あるのは、昨夜の暖炉の灰と、誰もいない厨房の冷えた竈だけ。


「おい、誰かいないのか! ハインツ! ベアトリス!」


 返事はない。


 侯爵家の屋敷というのは、使用人がいて初めて機能する精密な機械のようなものだ。朝は暗いうちから火を入れ、水を汲み、パンを焼き、食卓を整え、廊下を掃き、窓を磨く。その歯車がすべて一度に抜け落ちたのだから、屋敷はただの大きな空箱になったに等しい。


 ライラ嬢が寝間着のまま食堂に現れ、空のテーブルを見て目を丸くした。


「あら……朝食は?」


「今、なんとかする」


 ヘヴントール様は慌てて王都の使用人ギルドに馬を走らせた。ギルドの窓口で「至急、料理人と侍女を手配してほしい」と告げると、受付の中年女性が分厚い台帳を開いてこう言った。


「料理長クラスですと、月に金貨十五枚。菓子職人は別途金貨八枚。筆頭侍女が金貨十枚。一般侍女が金貨五枚。庭師が金貨四枚。洗濯係が──」


「待て。月に金貨十五枚だと?」


「ええ、これが相場です。以前はもっとお安い方もいらっしゃいましたが、近年は腕のいい料理人の需要が高まっておりまして」


 ヘヴントール様は目を見開いた。侯爵家としての月収は金貨七十枚。まともな使用人を一通り揃えれば、人件費だけで月に金貨六十枚を超える。そこに食材費、光熱費、屋敷の維持費を加えれば、あっという間に赤字だ。


 ──これまで、その差額をすべて埋めていたのが誰だったのか。


 ヘヴントール様はようやくその事実に直面したが、認めるわけにはいかなかった。認めれば、自分が三年間、婚約者の金で生活していたことになる。侯爵家の当主としての矜持が、それを許さなかった。


「……安く雇える者はいないのか」


「金貨二枚程度でしたら、多少腕は落ちますが……」


 結局、ヘヴントール様は最低限の給金で雇える三流の料理人と、仕事にやる気のない侍女を数名雇い入れた。


 そして、地獄が始まった。


 新しい料理人は、まずパンが焼けなかった。


 酵母の扱いを知らないのだ。温度管理という概念がそもそもなく、「適当に温かいところに置いておけば膨らむだろう」という程度の認識しかない。結果、出来上がるのは発酵不足でずっしりと重い、石のように硬いパンか、あるいは過発酵で酸っぱい異臭を放つ失敗作のどちらかだった。


 ハインツの焼いたブリオッシュとは、文字通り別の食べ物だった。


 肉料理も悲惨だった。安い部位の肉は筋が多く、臭みも強い。本来ならば下処理に時間をかけ、ハーブやワインでマリネし、低温でじっくりと火を通すことで柔らかく仕上げるべきところを、この料理人は大量の油で揚げ焼きにし、塩をこれでもかと振りかけることで臭みを力ずくで消そうとした。


 舌が痺れるほど塩辛く、胃にもたれる脂の塊。それが毎日の食卓に並んだ。


 しかし、ヘヴントール様は意地を張った。


「あの女の薄味の飯よりよほどましだ。これが本来の、男らしい食事というものだろう」


 ライラ嬢もまた、歯止めの利かない食欲を見せ始めた。


「ヘヴントール様、私、甘いものが食べた〜い。ケーキとか!」


 以前の屋敷では、菓子職人のマルタが作る焼き菓子の砂糖の量は、私が厳密に管理していた。バター百グラムに対して砂糖は四十グラム。甘さは控えめだが、素材の風味がしっかり感じられる上品な味わいに仕上がる。


 だが今、その管理者はいない。


 三流の料理人が作る菓子は、砂糖の塊だった。バターと砂糖を同量ぶち込み、卵で繋いで焼いただけの、甘さだけが取り柄の重たい菓子。ライラ嬢はそれを「美味しい、美味しい」と頬を膨らませて食べ、ヘヴントール様も「ライラが喜ぶならいいじゃないか」と満足げに笑った。


 最初の一ヶ月は、それでも二人とも幸せそうだった。


 好きなものを好きなだけ食べ、誰にも小言を言われない生活。それは確かに、自由に見えただろう。


 異変が現れ始めたのは、二ヶ月目からだった。


 まずヘヴントール様の体に変化が出た。もともと中性脂肪の数値が高かったところに、毎日のように脂質と塩分を過剰摂取しているのだ。顔が浮腫み、腹部がせり出し、以前は颯爽と着こなしていた上着のボタンが閉まらなくなった。階段を上るだけで息が切れ、食後には決まって胸焼けに苦しんだ。


 ライラ嬢の変化はもっと顕著だった。砂糖と脂の過剰摂取は、まず肌に出た。頬や額に吹き出物が次々と現れ、あの透き通るような白い肌は赤みを帯びた斑模様に変わった。体重も増え続け、「小鳥」の異名は嘲笑を込めて使われるようになった。


 追い打ちをかけたのは、屋敷の衛生環境だった。


 やる気のない侍女たちは掃除を怠った。寝室の隅には綿埃が溜まり、厨房の排水溝には食べ残しが腐って悪臭を放ち、食器は生乾きのまま戸棚に戻された。洗濯物も溜まる一方で、シーツは何日も替えられない。


 不衛生な環境は、容赦なく病を呼んだ。二人は頻繁に腹を壊し、微熱が続き、ヘヴントール様は慢性的な頭痛にも悩まされるようになった。


 三ヶ月後。社交界の夜会に姿を見せた二人を見て、貴族たちは囁き合った。


「あれがヘヴントール侯爵……? まるで別人だわ」


「隣の女も、小鳥どころか……ねえ」


「醜い、としか言いようがないわね」


 扇の陰に隠された嘲笑。それがどれほどヘヴントール様の神経を逆撫でしたか、想像に難くない。かつて「端正な侯爵子息」と称賛された男が、今では社交界の笑い者になっていた。


 医者の診断は、さらに追い打ちをかけた。


「侯爵様、中性脂肪と血圧がともに危険な水準です。このままの食生活を続ければ、心臓発作を起こしても不思議ではありません。あと数年もつかどうか……」


 ヘヴントール様は初めて、あの「薄味の食事」に込められていた意味を理解したのかもしれない。あの地味な料理の一つ一つが、自分の命を守るために設計された処方箋だったのだと。


 しかし、理解したところで、もう遅かった。




---




 一方の私は、別荘での暮らしを存分に楽しんでいた。


 毎朝六時、ハインツが窯に火を入れる。菜園で採れた新鮮な卵と、フリッツが育てたハーブを使った朝食。マルタが焼く季節の果物を使ったタルト。ベアトリスの完璧な家事によって隅々まで清潔に保たれた居住空間。


 小さな別荘は、かつての大きな侯爵邸よりもずっと快適だった。なにしろ、「ご主人様の顔色を窺う」必要がない。食卓に並ぶ料理は私が食べたいものであり、使う食材は私が選んだものであり、すべてが私自身の生活のために機能している。当たり前のことが、これほど心地よいものだとは知らなかった。


 ルーカスは従者としての務めの傍ら、私の個人資産の運用にも力を発揮していた。


 元々、数字に対する鋭い感覚を持っていた彼だが、侯爵家の家計管理を通じてその才覚はさらに磨かれていたらしい。私が持参した伯爵家の資産を元手に、王都の穀物市場への投資、郊外の農地の取得、新興の織物商会への出資。いずれも堅実でありながら確実に利益を生む案件ばかりを選び、半年も経たないうちに資産は一・五倍に膨れ上がった。


 今では王都の商会主たちから「カーライル商会のルーカス殿」と敬意を込めて呼ばれるようになっている。以前の質素な従者服は姿を消し、仕立ての良い濃紺の上着に銀の袖釦、首元にはきちんとしたクラヴァットという、商会の若主人のような装いが彼の日常になっていた。


 もっとも、私の前では変わらず「嬢様」と呼び、「お供いたします」の一言で控えているのだが。




 そんなある日の昼過ぎだった。


 別荘の門前に、一台のみすぼらしい馬車が止まった。かつてはそれなりに立派だったであろう塗装は剥げ、車軸は軋み、引く馬も痩せ細っている。


 馬車から転がるように降りてきた人物を見て、門番のフリッツが目を見張った。


「エレアナ様、お客様です。その……ヘヴントール侯爵と名乗っておられますが……」


 応接室に通したその男は、かつての婚約者とは似ても似つかない姿だった。


 顔は浮腫み、腹は帯の上にだらしなく垂れ下がり、目の下には暗い隈が刻まれている。肌は不健康な灰色を帯び、頬には小さな吹き出物の跡がいくつも残っていた。服は皺だらけで、袖口にはシミがついたまま。洗濯すらままならない生活を送っているのが一目で分かった。


 その男が──かつて「口うるさい地味な女」と私を切り捨てた男が、応接室の椅子に崩れるように座り込んだ。


「エレアナ……」


 掠れた声だった。


「頼む、戻ってきてくれ」


 私は向かいの椅子に腰を下ろし、静かに彼を見つめた。ルーカスが無言で私の斜め後ろに立つ。仕立ての良い上着を纏った彼の姿は、もはやかつての質素な従者ではなかった。その対比が、ヘヴントール様の落ちぶれた姿をいっそう際立たせていた。


「借金が膨らんで、もう首が回らない」


 ヘヴントール様は両手で顔を覆った。指の隙間から、途切れ途切れの言葉が漏れる。


「使用人の給金が払えなくて、料理人もメイドも逃げた。屋敷の修繕費も滞納している。領地からの税収は借金の返済で消えて、もう何も残っていない」


 そこで一度言葉を切り、搾り出すように続けた。


「ライラも……金が尽きたと知ったら、出ていった……」


 やはり、と思った。ライラ嬢にとってヘヴントール様は、「甘い菓子と美しいドレスを与えてくれる庇護者」でしかなかった。その前提が崩れた瞬間、あの大きな碧眼は別の庇護者を探し始めたのだろう。哀れと言えば哀れだが、その結末を選んだのはヘヴントール様自身だ。


「お前の料理が恋しいんだ。あの……柔らかくて、ほんのり甘い、あのパンが。お前の管理がなければ、俺は駄目なんだ。頼む、俺のところに戻って──」


「ヘヴントール様」


 私は静かに遮った。


 ちょうどそのとき、厨房からハインツが焼き上げたばかりのパンの香りが、廊下を通って応接室にまで流れ込んできた。胡桃と蜂蜜のブリオッシュ。あの日、サロンのテーブルに残されていたのと同じ配合だ。三日かけた自家製酵母の、あの芳醇で甘やかな香り。


 ヘヴントール様の喉がごくりと鳴った。


 私はベアトリスに目配せをして、焼きたてのブリオッシュを一切れ、白い小皿に載せて運ばせた。黄金色の断面が、午後の光を受けて艶やかに輝いている。テーブルに置かれたその皿から、たまらないほどの良い香りが立ち上った。


 そして私は、その皿をヘヴントール様の手が届かない、テーブルの端に置いた。


「このパンの酵母を起こすのに三日かかります。一次発酵は二十八度で四時間。粉はフェルダー産の石臼挽きを七割、ライデン産の強力粉を三割。バターの量は通常の六割。あなたの中性脂肪の数値を考慮して、良質な胡桃の油脂で補っていました」


 ヘヴントール様が息を呑むのが分かった。


「砂糖の代わりに血糖値の上昇が緩やかな蜂蜜を選び、焼成温度を百八十度に設定することで外はさっくり、中はしっとりと焼き上げる。──あなたの寿命を一日でも延ばすために、私がどれほどの計算をしていたか、今ならお分かりになりますか」


 沈黙が落ちた。パンの香りだけが、残酷なほど甘く漂っている。


「あなたはそれを『口うるさい小言』と呼びました。『地味な食事』だと蔑みました。そして、甘い菓子と脂っこい料理を好む方を選んだ」


 私は微笑んだ。今度こそ、何の感情も込めない、ただ事実を述べるだけの表情で。


「ご自身の無知と怠惰で、健康も財産も、あなたを慕う人もすべてを失ったのです。それはもう、私の責任ではありません」


「違う、俺は……俺が間違っていた。全部間違っていた。だから──」


 ヘヴントール様が椅子から立ち上がり、よろめきながら私のほうへ手を伸ばした。


 その瞬間、ルーカスが動いた。


 一歩。たった一歩前に出ただけだった。けれどその一歩が、壁のように立ち塞がった。


 灰色の瞳が、ヘヴントール様を射抜く。普段の穏やかで無口な従者の面影は、どこにもなかった。そこにいたのは、大切なものを守るために一切の容赦を捨てた男だった。


「お引き取りください」


 低く、静かで、しかし鋼のように硬い声だった。


「これ以上、私の大切な主に気安く触れることは──お許ししません」


 私の大切な主。


 その言葉の重みに、ヘヴントール様はたじろいだ。怯えすら浮かべた、と言っていい。かつて「地味な従者」と見下していた男の目に、燃えるような感情が宿っているのを見て、ようやくすべてを悟ったのだろう。


 自分がどれほど愚かだったのかを。


 そして、自分が捨てたものの本当の価値を。


 しかし、悟ったところで、時は巻き戻せない。


 ヘヴントール様は項垂れ、力なく肩を落とし、来たときと同じように転がるような足取りで別荘を去っていった。


 テーブルの上のブリオッシュには、最後まで手を触れさせなかった。


 あの香りだけを、残酷な土産として持ち帰らせた。




---




 その後の話は、社交界の噂として断片的に耳に入ってきた。


 ヘヴントール侯爵家は多額の負債を抱え、領地の大半を債権者に差し押さえられた。残された僅かな土地からの収入では生活もままならず、最終的には爵位の返上にまで追い込まれたという。


 ライラ嬢は実家のメルツ男爵家に戻ったものの、浪費癖は一向に治らず、家族からも疎まれている。縁談の話も来なくなったと聞いた。


 哀れだとは思う。けれど、同情はしない。


 あの日、ヘヴントール様が選んだのだ。私ではなく、ライラ嬢を。薄味の健康食ではなく、脂と砂糖の快楽を。地道な管理ではなく、目先の享楽を。


 その選択の結果を引き受けるのは、選んだ本人以外にはいない。


 


 私にとっては、もう遠い世界の出来事だった。




 初夏の朝。


 別荘の厨房には、焼きたてのパンの甘い香りが満ちている。窓から差し込む朝日が、粉を振るった作業台の上に淡い光の模様を描いていた。菜園では、フリッツが育てたローズマリーとタイムが青々と茂り、開け放した窓からその爽やかな香りが厨房に流れ込んでくる。


「明日の朝食は、ライ麦を少し多めに配合してみましょうか」


 私は生地を捏ねながら言った。手のひらに伝わる生地の弾力が心地いい。


「最近暑くなってきたから、さっぱりした食感のほうが合う気がするの」


「ライ麦を三割まで増やすなら、水分量を五パーセント上げたほうがいいですね。生地の扱いが良くなります」


 隣に立つルーカスが、当然のように応える。


 いつの間にか、彼は私のパン作りの欠かせない助手になっていた。商会の仕事で忙しい日でも、朝のこの時間だけは厨房に立つ。上着を脱ぎ、袖を肘まで捲り上げ、粉まみれの手で生地を捏ねるその横顔は、洒落た商会主の顔でも、冷徹な従者の顔でもない。ただの「ルーカス」だった。


「今日も良い生地ですね」


 彼がそう言って、穏やかに微笑んだ。


 そのとき、生地に向けていた私の手に、彼の手がそっと重なった。


 粉だらけの、大きくて温かい手。


 不意の接触に息を呑みかけたが、私は顔を上げなかった。手を引くこともしなかった。作業台の上で、白い粉を纏った四つの手が重なったまま、どちらも動かない。


 ルーカスも、何も言わなかった。


 厨房には竈の火がぱちぱちと爆ぜる音と、遠くでハインツが包丁を研ぐ規則的なリズムだけが響いている。


「……ええ。明日もきっと、良いパンが焼けるわ」


 私はそれだけ言った。


 身分は「主人と従者」のまま。決定的な言葉は、まだ誰も口にしない。


 けれど、同じ窯の火を見つめ、同じ生地に手を触れ、同じ朝日の中で同じ空気を吸っている。この人の淹れた紅茶は、いつも私の好きな温度で、この人の手は、いつも私の指先が冷えていることに気づいてくれる。


 それだけで十分だった。


 これからも、きっと。



 窓の外で、初夏の風が菜園のハーブを揺らしていた。ローズマリーの鮮烈な香りが、焼きたてのパンの甘い匂いに混じって、厨房いっぱいに広がっていく。


 穏やかで、静かで、どこまでも温かい朝だった。




(了)

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― 新着の感想 ―
菜園で採れた新鮮な卵とは?オウバジーンの庫とでしょうか?
親がちゃんとちゃんと伝えて上げないと・・・ 親も見栄があったのでしょうね。
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