自転車操業
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──自転車操業
自転車操業と言うのにいい意味はない。これは自転車を売って商売をしているというわけではなく、漕ぎ続けていないと倒れてしまうぐらい経営が安定していない状況をさすのだ。
経営が順調なヴォルフ商会とは無縁の言葉である。
さて、それはともあれフリーデンベルクにクリストフは自転車を持ち込んだ。
「あれは何だ……?」
「大道芸人か?」
街の人が見つめるのは、そう自転車に乗ったクリストフだ。
彼は宿泊している宿から商業ギルドまで自転車で移動しているところだった。街の石畳の道路を自転車はすいすいと進んでいき、その様子を街の人は驚きの目で見ていた。
「すまない。それはどういうものだろうか?」
興味を持った街の人間の中にはそう言ってクリストフに尋ねてくるものもいた。
「これはジテンシャという乗り物でしてね」
クリストフは興味を持った人間に丁寧に自転車について説明していく。
「なら、これは何の訓練も受けずに乗りこなせると!?」
「私も乗り始めてから数日ですよ」
人々が驚くのは訓練がほとんどいらないことや馬と違って餌を食べさせたりする必要のないことだった。
クリストフが商業ギルドの前で自転車の説明回をしているのに、商業ギルドの中からも興味を持った人間たちが出てきた。
「クリストフさん。それは?」
「乗り物のように見えるのだが……」
商業ギルドの人間はこれまでボールペンやノートと言った画期的な商品を持ってきたクリストフがまた新しい品を持ってきたのだろうと思っていた。そして、既にその価値を考え始めている。
こののちにフリーデンベルクでは自転車がブームを迎えることになる。
郵便配達の人間がまずは使い始め、好評を得る。
さらに商業ギルドが宅配のために使い始め、物好きで新しもの好きの貴族が購入しと実績が宣伝となり、瞬く間にフリーデンベルクでは自転車文化が花開いた。
手工業ギルドの中には自転車に似たような乗り物を作ろうとする試みもあったが、今のところは上手くいっていない。
自転車は今は高価で市民の足とは言えないが、このまま広がりを見せるならば類似品などは出てくるかも……しれない。
* * * *
自転車が流行し始めたフリーデンベルクをある貴族が訪れていた。
その名はフィリップ・フォン・ハーゲンフェルト。
彼は王国侯爵の地位にある大貴族であり、自らの領地を治める他に国王マクシミリアンに対する助言をする顧問の立場にもあった。
「ここが最近、話題になっているフリーデンベルクですか……」
フィリップがフリーデンベルクを訪れたのは、ここ最近どうにもフリーデンベルクの名をよく聞くからである。
貴族間で珍しい品が流行った? その出所は? となるといつも上がるのは決まって『フリーデンベルク』なのである。
「やはり調査をしておく必要があるでしょう」
フィリップはそう言ってまずはフリーデンベルクの中を視察して回ることにした。
今日はあいにくの雨で馬車から降りたフィリップも雨を防ぐ革の外套を持ち込んでいた。しかし、そこで彼は奇妙なものを目にする。
「……? あれは……?」
着飾ったご婦人が雨の中で持っているもの。それは傘だ。色鮮やかな傘を差したご婦人が濡れることなく通りを進んでいき、建物の中に入るのをフィリップは茫然として眺めていた。
さらにそれよりも安そうな傘を差した人間が近くを通るのに、フィリップが慌てて呼び止める。
「き、君、それは何かね?」
「はい? それって……?」
「その手に持っているものだよ!」
フィリップは傘を指さして尋ねた。
「ああ。これはビニール傘ですよ。ご存じない?」
「知らない。それはどこで買えるのかね?」
「ヴォルフ商会って店が扱ってますよ。魔法使い連盟の中に店舗があります」
「おお。ありがとう!」
フィリップは早速調べるべきものを定めた。ヴォルフ商会だ。
フィリップは再び馬車に乗り、魔法使い連盟フリーデンベルク支部を目指した。
「あ、あれは!?」
そこでさらに衝撃的なものを見た。レインコートに身を包んだ郵便配達員が自転車で馬車を追い抜いていったのだ。
全く雨を気にせずに走り去っていく自転車は、これまでフィリップが見たこともないようなものであった。
「あれもヴォルフ商会なのか……?」
もうフィリップは大混乱である。
そのような状態にフィリップを乗せて馬車は魔法使い連盟の支部に到着した。
「失礼する」
フィリップはそう言って魔法使い連盟の中に入り、ヴォルフ商会の店舗というものを探す。きっとそれは輝かしく大きななのだろうと思っていたが、あるのは小ぢんまりとした売店であった。
「もし、ここがヴォルフ商会の店舗かね……?」
「はい、そうですよ。何をお買い求めですか?」
ちょうど店番をしていたのはウルリケで、彼女は笑顔で接客する。
「傘というものを買いたい。あるだろうか?」
「ええ。こちらになります。好きな柄のをお選びください」
ウルリケはそう言って傘を何本かフィリップに見せる。フィリップはそのうちの黒いものを手に取り、どうやって使うのかと首を傾げた。
「それはここのボタンを押して傘を広げて使うのですよ」
「あ、ああ」
ウルリケに説明を受けてフィリップは傘を広げてびっくりした。その中には精巧な金属のパーツがあり、どれだけ凄腕の職人でもこれは作れないのではないかとおもうものだったからだ。
「凄いな……。他にどんな品があるんだろうか?」
「売れ筋はこのボールペンとノートですね。とてもよく売れていますよ」
「ほうほう。それも買おう」
フィリップは次にノートとボールペンを買い、早速使ってみた。
「こ、これは素晴らしい書き心地だな……。インクが染みたりせず、さらには途切れない。それにこの滑るようなペンの動き。いやはや素晴らしい!」
フィリップは気づけばすっかりボールペンとノートのとりこになっていた。
「他には何かないのかね?」
「そうですね。次は紅茶とコーヒーでしょうか?」
「ふむふむ。それはどのような道具なのだろうか?」
「いえいえ。道具ではありません。これは飲み物です」
「……飲み物?」
ここで不意にジャンルの異なる商品が出てきたことにフィリップが戸惑う。
「ええ。試しに試飲されてみますか?」
「いいのかね?」
「私もちょうど休憩しようと思っていたところですから」
そう言ってウルリケはカップを用意し、魔法でお湯を沸かすとコーヒーを入れた。彼女は紅茶よりコーヒーの方が眠気を覚ますのに好きだったからだ。
「どうぞ」
そして、フィリップの前にコーヒーが差し出される。
「匂いは香ばしいが……随分な見た目だね……」
泥水のように真っ黒なコーヒーにフィリップは渋い顔。それでも確かめねばと彼はコーヒーを口へと運んだ。
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