青の空域
赤毛の青年ピックと金髪の少女ロナは、クエンを置き去りにして村から出たあと「青の空域」に入った。
なおピックたちの住む世界に、いわゆる国家は存在しない。
ただし統一された政府はある。
よって空域から空域への移動は、比較的自由におこなえる。
ロナとピックが今まで進んでいたのは「無の空域」と呼ばれるエリアだが……そこから「青の空域」に入るときも、すんなり関所を通過できた。
通過の際に受けたのは、感染症の検査と荷物チェックくらいだった。
♢♢♢
青の空域の大気は、名前のとおりに青みを帯びる。
空気の色は、薄い青。
ほとんど透明に近いので、あたりの視界は悪くない。
「ここの空気は爽やかで、おいしいですね! ピック……すー……さーん……はー……」
ロナが道を歩きながら深呼吸し、周囲の青いガスを体内に取り込む。
ピックも微笑しつつ空気を吸い、大気中から水分と栄養素を補給する。
「やはり『青の空域』の大気は水が多い」
片手を丸めたピックが、青い空気をかき混ぜた。
涼やかな風が、ふんわりと皮膚をなでる……。
「……雰囲気も『無の空域』とはずいぶん違いますし」
「ピックおじさん。周囲のパイも、透明ですよね」
あたりに浮くガレキのアース・パイを手に取り、ロナがそれをいろいろな角度にかたむける。
今までの「無の空域」では陶器に似たパイが採集できたが、この「青の空域」のパイはガラスに近い。
透明で、硬いパイだ。
公道として延びるアース・パイも透明なガラス状であり、向こう側が透けて見える。
パイの裏側を進む人や乗り物が、逆さまのまま過ぎていく。
そんなガラスみたいなパイを踏みつつ、ロナが疑問を口にする。
「……でもパイの中身が透明なら、道を固定するために仕込んだクギ型のハンガーも外側から見えるはず。盗まれたりしませんか」
「ガラスみたいなアース・パイがサン・クッキーの光をうまい具合に屈折・反射させるおかげで、内部のハンガーは外から目に映らないようですよ。したがってハンガーは……クギらしきものは、どこにも見えません」
ここでピックは、白いブーメラン・スクイードを投げた。
――道のそばに浮いている、青みを溶かした雲に向かって。
その雲からは、灰色のガスが漏れていた。
スクイードが雲に入った途端、なかからガス・ホイップが飛び出した。
現れたのは、青っぽいサンマ型の非生物四匹である。
サンマたちが灰色のガスの尾を引きつつ、ミサイルのような軌道をえがいてピックたちに襲いかかる。
ピックはウエストポーチからボールを四つ取り出す。
いずれも、手の平に収まる大きさだ。
それぞれにピックが爪を立てると、ボールは軽い音と共に四枚のフリスビーに変わった。
右手に重ねたフリスビーを左手で順に払い、サンマに飛ばすピック――。
四枚のフリスビーが、一枚ずつガス・ホイップに直撃する。
サンマに似たホイップたちは小気味いい音を響かせてガスを破裂させ、大気に溶け込んだ。
心なしか、無の空域にいたガス・ホイップたちとは違った断末魔である。
強いて言うなら水が砕けるときの音に近い。
一方、ピックに助太刀しようとしたが間に合わなかったロナが、目をぱちくりさせる。
「フリスビーって、そういうふうに出してたんですか!」
「そうですよ、ロナさん。ブーメランだけでは身動きがとれない場合も発生しうるので。……しかも」
ここで――雲に入っていたスクイードが再び姿を見せ、ピックの手もとに返ってきた。
それを背中に戻しながら、彼が澄まして目を細める。
「生分解性フリスビーのため、回収の必要もありません」
「微生物が分解してくれるから環境に優しいってことですね。そういう使い捨ての武器も、よさそうです」
♢♢♢
そういった調子で、ピックとロナの二人は順調に青の空域を進む。
今までどおりにパイからパイに跳び、それぞれの重力に身を任す。
さまざまな角度にかたむくパイの表や裏を歩いていき――。
ようやく、青の空域の町に到達した。
その町は、五つのアース・パイを組み合わせて作られている。
建物や人が、巨大な三角柱の五つの表面に外側から張り付いたかたちだ。
以前ピックとロナが訪れた無の空域の町では一枚のパイの表と裏に建物が並んでいたが……。
ガラス状のパイが多い青の空域で、その構造は好まれない。
板一枚を隔てた向こう側の様子が丸わかりだからだ。
不特定多数の人にローアングルで見られるのをストレスに感じる人も少なくないので、自然と町の構造は無の空域とは異なってくる。
この町の場合、三角柱の内部を水槽としている。
したがって人々をローアングルで見る者は、そこに泳ぐ魚たちだけだ。
ガス・ホイップではなく、本当の生き物を飼っている。
なかなか貴重な景観である。
ピックたちの世界に海はない。
大きく厚いパイに湖や川ができることはあっても、水のなかに住む実際の生き物をじかに見る機会は、ほぼない。
ロナとピックの二人も、心を躍らせて町の地面を見た。
透明なアース・パイでできた地面の下に水が満ちている。
そのなかに泳ぐ生き物たちを、二人で見下ろした……。
ロナがあちこちを指差しつつ、声をはずませる。
「感動ですね、ピックさん! 水槽のなかにガス・ホイップじゃない本物のエビやサンマがいますよ! ガスが出ていないだけで……なんか、かわいく見えません?」
「ええ、かわいいです」
素直にピックが応じる。
「ふむ、遠目から見た推測ですが……三角柱の中心にハンガー付きのパイを設置し、そこに砂を敷いているようですね。……おやや、海藻というやつも生えている」
「海藻なんて、よく知っていましたね」
道ばたのベンチに腰かけ、ロナがピックをちらりと見る。
「ガス・ホイップのかたちにも、なりませんし。ひょっとして大昔の図鑑でも持っているんですか。そこで見たとか?」
「いえ」
ベンチのそばに立ち、あくまでピックは無感情に答える。
「海藻を使った料理を依頼人からごちそうされたことがありまして」
「……依頼の対価としてお金以外は受け取らないんじゃなかったんですか」
「もちろん対価はお金以外みとめません。しかし、お客さまと良好な関係を築くには、対価とは関係ないところで『遠慮なくおごられる』スキルも大切なのですよ。わたしは官僚ではないので、収賄にも該当しません」
「じゃあ、きょうはわたしがピックおじさんにおごりますよ」
「そうやって機嫌をとって、ハンガームーンの値を引き下げようと?」
「バレバレでしたか」
二人は横目で、不敵な笑みを送り合った。
♢♢♢
ロナは町の警察署で、先日の被害を報告した。
無の空域のとある村で殺されそうになったと……。
続いて溶接師の店に行った。
集めたアース・パイをそこで換金した。
そのあとピックと共に、料理店の一つに入った。
海鮮料理――のようなものを注文した。
魚の切り身や貝などが載った、そうめん風のものを食べる。
口もとを隠し、ロナが小さなさけびを上げる。
「ん……舌を切るような塩味が利いていて、いけますね!」
「エビも入っていて、なかなかですよ。……さて」
ピックが水を飲み、ごくんと喉の音を鳴らす。
「先ほどロナさんは例の件を警察に伝えたんですよね」
「そうですよ」
「では、あらためて考えてみましょうか。先日の『ハンガームーン』のロゴを付けたみなさんは、いったいなんだったのでしょう」
料理店のなかということで、内容をぼかしつつピックが話す。
「ココア・クッキー内部の『それ』とは名前かぶりですよね。ロナさんに用があるみたいでしたが……」
「――おまえさん、今なんて言った」
このとき、ピックの肩に誰かの手が置かれた。
見ると、隣のテーブルの席に男が座っていた。
藍色の髪を持つ青年である。
彼がピックの話に反応し、肩に手を載せてきたのだ。
「俺、そのハンガームーンなんだけど、なんか聞きたいことあるか」
威圧的ではないものの、力強い声だった。