魂の先約(後編)
赤毛の青年ピックは、浮遊するワッフル・ハンガームーンの足裏を見上げた。
最初から彼に、上から決定打を浴びせる気はない。
万が一にもハンガームーンを破壊してはならないからだ。
(壊れれば、世界をとどめる存在がなくなるし……なにより、「ハンガームーンをください」というロナさんの注文に応えられなくなる)
ハンガームーンの本体であるクギ型の中枢神経系……脳と脊髄は、ワッフルの上部に集中する。
それをなるだけ傷つけないでダメージを与えるために、真下からの攻撃を企てたのだ。
ピックは、ついに切り札を使う。
だが防がれては……もう通用しなくなるだろう。
だから、ここぞというタイミングで切らなければならない。
外すことは、許されない。
確実に当てるためピックは、ゼライドにピック自身の位置をミスリードしてもらった。
先ほどゼライドは真上に向かってピックの名をさけんだが……これはフェイクである。
ワッフルを捕獲したクリオネ型ガス・ホイップがすぐ破られるだろうという焦りだけは本物だったので、ゼライドの真に迫った声を聞いたワッフルは騙された。
さらにピックは「敵は真上にいる」とワッフルに確信させるべく、周囲に散らばるアース・パイの陰に白いブーメラン・スクイードを隠して飛ばし――タイミングよく上から落とした。
そうして――ピックの手に構えられていた新しいブーメランが、放たれる。
白いブーメラン・スクイードでも赤いブーメラン・オクトパスでもない。
投げるときの反動により……完治していたはずのピックの足裏に激痛が走った。
足場にしていたフリスビーから、ピックが落ちる。
それでもブーメランはワッフルを目指した。
短い十二枚羽根と、触手のようにうねった形状と、青い濃淡の入り乱れた模様を持つそのブーメランの名は「クラーケン」である。
赤の空域の溶接師から受け取っていたものだ。
さながらエサを求める怪獣のように泳ぐ。
クラーケンも、オクトパス、スクイードと同じ波長のアース・パイで作られている。
よってワッフルの足裏に当たったオクトパスおよびワッフルの上を進むスクイードの重力に引かれ……クラーケンが、まっすぐワッフルめがけて飛んだ。
クリオネを破る。
オクトパスを砕く。
そしてクラーケンは、同一波長のパイに過剰に引き寄せられる性質を持つ。
通常、パイは砕かれたあとしばらく重力を失うのだが……クラーケンだけは、この常識を無視する。
粉砕されたオクトパスの細かなカケラにも、きっちり反応した。
赤い破片が、クラーケンをつつむように広がる。
オクトパスの重力の残り火をあらゆる方向から受けたクラーケン。
短かった十二枚羽根が、外から引っ張られるようにその身を伸ばす。
羽根の形状がより複雑に蛇行しながら、うねりにうねって成長していく。
ただし青い濃淡の模様は全体に及んだままで、ほとんど変わらない。
こうしてクラーケンの十二枚羽根が怪物の触手のごとく肥大しきった。
青く肥えたブーメラン・クラーケンが、足裏からワッフルの膝までを刻む。
無数の傷口から煙が噴き出す。
この瞬間に、上から迫っていた白いブーメラン・スクイードがクラーケンの近くに来た。
クラーケンはスクイードをもかみ砕いた。
散らばった白い破片の重力の残り火が、さらにクラーケンを太らせる。
巨大化し、うねりを重ねるのみならず、回転速度が急上昇した。
ワッフルは、この瞬時の出来事を即座に理解し……自分を取り巻くサン・クッキーのすべてでクラーケンを迎え撃つ。
それでもクラーケンの高速回転の暴威をとめることは不可能だった。
クラーケンは、ワッフルを軽く縛っていたヤマメの鎖鎌をも砕ききった。
なお、この寸前にヤマメはゼライドによって救い出され、遠くに離脱していた。
真下から青いブーメラン・クラーケンの攻撃を食らったワッフルは、押し上げられた。
いくつものアース・パイを貫通し、天然のサン・クッキーで囲まれたこのだ円体の空間の壁面に頭から突き刺さった。
クッキーが砕ける。
衝突した壁面のクッキーと、ワッフルの生成していたクッキーがグチャグチャに混ざった。貫通したパイのガレキも落ちてくる。
そのなかにワッフルは、うまった。
衝撃を受けたサン・クッキーは明るさを失った。
クッキーとパイのガレキの隙間から煙がのぼる。
ココア・サン・クッキーの表面すべてに働く重力に従い……コナゴナになったクラーケンの破片が周辺に落下する。
ただし空間は揺れていた。
ワッフルから立ちのぼっているとおぼしき煙も、だ円体の空間に縦横無尽に浮遊するアース・パイも、空間を取り囲むサン・クッキーも。
当然の流れである。
クエンの銃撃で固定状態になっていたワッフルに、ピックのクラーケンが直撃したばかりなのだ。
ピックたちの今いるココア・サン・クッキー自体を固定するハンガームーン……それと同一存在であるワッフルは、クラーケンの衝撃により固定状態をオフに切り替えていた。
再び空間は震え、ワッフル・ハンガームーンもハイスピードを取り戻す。
逆さまのままワッフルは自分の上に積もっていたクッキーやパイを押しのけて、もう一度宙に浮く。
この瞬間にワッフルは見た。
すでに投球モーションをとっていた金髪の少女が、野球ボール大の石を自分にぶん投げるのを。
少女――ロナは、ずっとそこで待ち構えていたのだ。ワッフルの落下地点を予測して。
あるいはピックがワッフルを、必ずそこに落とすと信じて。
後れ毛を揺らし、サン・クッキーの表面に靴の裏を食い込ませる。
石に、思いの限り力が籠もる。
それとヒモでつながった大きな風車が追い風を作り、石の背中を押していた。
対してワッフルは逆立ちを維持しつつ、右手で捕球する。
直後。
先ほどまで金髪の少女ロナの隣にあった風車が軸の柱を立て、羽根の全体を見せながらワッフルに突進してきた。
このときワッフルが風車を停止させなかったのは――ワッフル自身が消耗に消耗を重ねたからなのか、または、じかに受けとめたかったからなのか。
ワッフル・ハンガームーン本体にも、確かな理由はわからない。
とにかくワッフルは野球ボール大の石を手放し、風車の太い軸の部分をだきかかえるように受けた。
結果、ワッフルは少し後退した。
反撃に転じるべく、身のまわりにサン・クッキーを生成し始める。
だが、ここで。
風車の軸の柱の向こう側から、衝撃が加えられた。
直立した軸の陰に、ロナが潜んでいたのである。
ロナは軸に仕込まれたアース・パイに張り付き、ワッフルの死角に隠れたまま風車と共に接近していた。
ロナの風車「タイタン」の軸の太さは自由に調整可能だが、それを人の身をおおうくらいに肥大化させたうえで飛ばしていたのだ。
とはいえ、いくら追い詰められても少女の一撃だけでひるむワッフルではない……。
それなのに、この衝撃は特別なものだった。
ワッフルは気づいた。
(この一撃は五人分……!)
ピックとゼライドとクエンとヤマメが戦線に復帰し、この場に駆けつけていたのだ。
両腕を亡くしたクエンが、反対側から風車タイタンを蹴る。
ガスを尽くしたゼライドと、武器を失ったヤマメとピックのこぶしまでもが、同時にタイタンに放たれる。
最後にロナのげんこつが飛ぶ。
風車の軸の柱越しに、逆さまのワッフルを吹っ飛ばした。
タイタン自体はやや浮いたあと、力を失うように落下した。
一方、吹き飛んだワッフルは、その先にあったサン・クッキーの壁面に背中から激突した。
当然、ここにも重力が働く。
ワッフルの背面から煙が漏れる。
空間内の、すべての揺れが収まっていく。
「……これが、わたしたちの」
ロナがワッフルに近づき、野球ボール大の石「ポニー」をすっと投げた。
「魂の威力だよ」
ワッフル・ハンガームーンに対する、最後の攻撃――。
しかしロナは、まったく声を荒らげなかった。
ポニーは今の、ダメージを極限まで蓄積したワッフルでも簡単に捕球できるほどの力を持っていた。
同時に、決して弱々しい球ではなかった。
「いい球です、ああ、かゆいなあ」
か細い声でせき込みながら、ワッフルは「それ」を両手で受け入れた。
「じんじんする……!」
「伝わった?」
「……うん」
少しだけ目を閉じてワッフルは、なにごとか考えていた。
このあと、緩やかに口をひらく。
「そっか……この体のうずきは……五人分の……それ以上の。わたしは戦いを通して、みなさんをつなぎとめる強さを見たんですね。しっかりと魂が体に引っかかっているって……ようやく、わかりました」
言いながら彼女は壁面から離れ、回転し、逆さまをやめた。
ロナと同じ方向に頭をやり、はだしの足で着地する。
「そんなにすごくて大切なものを……横取りしたら、だめだよね」
ワッフルのまわりに展開しかかっていたサン・クッキーの群れが、すべて落ちた。
「ごめんなさい。わたし、間違えちゃってたんだ。もう体は……奪いません」
受け取った石を、ワッフルは投げ返そうとした。
ロナに対してだけでなく、彼女の言う「魂の威力」を自分と戦ってくれた五人全員に返そうとしたのだ。
だがその直前――両腕を失ったクエンがワッフルの目に入る。
彼を見てワッフルは、うつむいてしまった。
だから結局ワッフルは、その石を持ち主のロナ一人に手渡すことしかできなかった。




