ネームド
奇妙なハンガーはクエンにイメージを流し込んだあと、彼の娘の姿になった。
思わずクエンは……今は亡き子どもの名前を声に出しそうになった。
が、ぎりぎりのところで口を両手で押さえた。
(これをあの子と……ワッフルと見ては、だめだ。これ以上、僕は、あの子を裏切れない)
クエンの娘を模したハンガーは、足をアース・パイの地面につけていない。
浮いている。漂っている。
二つの瞳を向け、クエンの様子を無表情で観察している。
ここで高い声が聞こえた。
「おじさま」
見ると、クエンの斜め後ろにヤマメが立っていた。
「さっき、なにかが落ちる音がして目が覚めたの。その子……誰?」
……ヤマメは、知らないフリをした。
彼女は、人さらいのアジトで殺されていたクエンの子どもをしっかりと覚えている。
その子どもと同じ顔がクエンのそばに浮いているのだと、すぐに気づいた。
だが、さすがに「実は生きていた」なんてことがありえないのも……わかっている。
(あのときは性別、わかんなかったけど……やっぱり女の子だったのかな)
「初めまして、あたしはヤマメ。こっちのクエンおじさまの相方ね」
ヤマメはクエンの隣に立ち、浮いている女の子に話しかけた。
しかし女の子は視線を返すだけで、なにも答えない。
「……とりあえず、なんか着てくれる?」
そう言ってヤマメは自分の手袋から、布を数枚だけ引っ張り出す。
布をこする。
瞬間、それらが一気に膨張した。
トップスやボトムスになった。
その布には同一波長のアース・パイの粉末が配合されている。
普段は互いに引き合って、圧縮されているが……。
こすることで全体の「引かれる度合い」を弱め、圧縮を解除できる。
「はい、あたしの余分な着替え。ブカブカかもしれないけど」
ヤマメは宙に浮く女の子に、自分の服をやった。
それから、足もとに転がっている単眼鏡を拾う。
女の子に背を向けたクエンに、単眼鏡を手渡す。
「クエンおじさま、落ちてたよ」
「ありがとう、ヤマメ」
クエンはヤマメに感謝しながらも、その眼球を震わせていた。
続いて幼い声が響く。
「ありがとう……」
その声に反応したクエンとヤマメが視線を戻す。
見ると、女の子がトップスをまとっていた。
ブカブカなので、太ももの途中まで隠れている。
ボトムスのほうは、ずり落ちている。
「……どういたしまして」
ヤマメはしゃがんでボトムスを拾い、女の子の腰のあたりまで引き上げた。
ベルトループを軽くこすり、その部分を腰に吸着させる。
これはアース・パイを配合した布の圧縮技術の応用である。
「まあ、こんな感じでいいかな……」
しゃがんだまま、ヤマメが女の子と目を合わせる。
「ところで、君はどこから来たの」
声を和らげて聞いたところ……。
女の子は真顔で答えた。
「どこからも来てないよ」
「最初から、ここにいたってこと? 誰かと、はぐれたの?」
「いいえ、ずっと、わたしだけです」
「……そう。よかったら、お姉ちゃんに名前を教えてくれる?」
「ごめんなさい……思いつきません。だから『ワッフル』と呼んでください、ヤマメさんもクエンさんも。なんとなく、頭に浮かびましたので」
「わかった、ワッフルちゃん」
まぶたを少し下げ、ヤマメが微笑する。
その視線が女の子――ワッフルの足もとに落ちる。
ワッフルはアース・パイに足をつけておらず、はだしである。
「靴、要るよね。とりあえず足のサイズが合いそうなロナに、予備を持っていないか聞いてみる。……待っててね、ワッフルちゃん」
ここでヤマメがきびすを返し、ロナの眠っている風車のほうに向かう。
(ワッフルを名乗るあの子は、なんなんだろ。やっぱりおじさまの子どもじゃないみたいだし。知り合いに化ける新種のガス・ホイップとか? いや……ホイップとは違ってガスを噴出させてないし、浮いている以外は普通の女の子にしか見えない)
一方残されたクエンは、自分の身のまわりを浮遊するワッフルに動揺を覚えていた。
母親に似た顔も黒い髪も幼い声も、死んだ娘の生き写し。
なによりクエンの娘は――確かに「ワッフル」という名前だった。
ここでクエンは、その名をもっとも多く呼んでいた亡妻のことを思い出した。
妻は、組織「ハンガームーン」のメンバーだった。
クエンが上着にそのエンブレムを背負っているのは、彼女を忘れないためでもある。
彼女はクエンの家で殺されていた。
娘を誘拐する際に人さらいが始末したらしい。
クエンは、ちょうどそのとき仕事で家にいなかった。
きっと死ぬ間際になっても妻は――クミナは母としてワッフルの名を呼んでいたんじゃないかとクエンは思う。
(くだらない妄想のようではあるけど……さっきのハンガーが僕の吐息からあの子の情報を吸ったのなら、当然「ワッフル」という名前も取り込んでいるだろう。ただし記憶の表面だけをなぞり、その名を使ったにすぎないな)
クエンは目の前の子どもの姿を、冷徹に見つめる。
(この子は、妻でも娘でもない。他人の空似も、度を超える……)
すべきことを考える。
(ワッフルをまねるのみならず、僕に妙なイメージを流し込んだ「このハンガー」は、絶対に普通のハンガーじゃない。もとが四十センチほどの大きさとはいえ、これこそが「ハンガームーン」なのかもしれない。だとすれば巨大隕石を星に当てるため、この子に壊れてもらっては困る。ハンガームーンを破壊して世界を不安定に落としても、死を分け合えるとは限らないし)
さらにクエンは……やや離れたところにいるヤマメのほうに信号弾を飛ばした。
ロナを起こすのを待つよう指示したのだ。
(……ハンガームーンを見つけたからには、無理をしてでもロナさんを即座に殺すか。もう秘密をばらされても、こちらがハンガームーンを先に掌握すれば問題ない。いや……そう簡単な状況でもないか)
なにしろ目の前のそれは、動かぬ鉱物ではない。
一瞬にしてクエンの娘をかたどった。
……まだ得体が知れない。力の底が見えない。
クエンとヤマメだけで御しきれる確証はない。
(しばらく……この子がハンガームーンである可能性は伏せておくべきだな。まだロナさんを撃つわけにはいかない。せめて、この子の力を見極めてから……)
このようにクエンが考えているあいだも――。
ワッフルは浮いたまま、彼のまわりを回っていた。
彼女のボブパーマの毛先が、クエンの肩をなでる。
そしてヤマメが、ロナを起こすことなく戻ってきた。
「ごめん、ワッフルちゃん。靴は、まだ待って」
「わかりました」
ワッフルは、とくに感情も乗せずに返事をおこなう。
彼女に、クエンが言う。
「足を……下につけるのは、どうかな」
クエンとしては……ピックたちが起きたときに、ワッフルが補助なしで宙に浮いていることを指摘されるのが一番まずい。
そこから「彼女がハンガームーンではないか」と推測される可能性もあるからだ。
だがワッフルの返答は――。
「ごめんなさい。よごれたくありません」
ついでワッフルが、クエンの右肩とヤマメの左肩に手を置く。
「でも二人は、きれいだと思います。わたしは、そんなものをまといたいんです」
ワッフルの手に、急にぎゅっと力が籠もる。
「体をください」
瞬間、クエンの右肩の一部がもがれた。
♢♢♢
――本来のハンガームーンは、人間の魂が変化したもの。
そしてハンガームーンは、あまりにも長い期間おのれの体を持たなさすぎた。
太陽の残骸「ココア・サン・クッキー」を固定するために、生まれ変わる未来も見えない。
だから無差別に、体をほしがる習性も持つ。




