人をかけるもの
人の脳と脊髄に似た四十センチほどの鉱物を間近で見つめて、理不尽にクエンは次のことを理解した。
論理的な根拠のない、百パーセントの直観のみで。
♢♢♢
――キウイカットの決断。
人間が地球に住んでいたとき、各国は月の領有権で揉めていたが……。
ある国の代表がキウイを等分に切り分け、平等な土地分割を主張した。
この史実をもとに、トップを持たない組織としての「ハンガームーン」が生まれた。
組織のエンブレムをつけたゼライドもヤマメもクエンも、「すべてをみんなで分け合おう」という理念を共有する。
しかし……彼らが美談とするこの話の続きを知る者は、ほとんどいない。
あるいはハンガームーンという組織にとって都合が悪いため、揉み消されたのだろう。
多くの人々が月に定住するようになって、数世紀後。
月そのものが、まるでキウイのようにカットされた。
それも、いきなり切り分けられた。
バラバラになった。
結果として、月にいた者たちの全員が亡くなった。
巨大なウォータージェットで、月が細かく切断されたからである。
当時の月は宇宙ステーションと一体となった一つの宇宙船でもあった。
増築を重ね、その直径はこれ以上ないほどにまで膨れ上がっていた。
ウォータージェットの事件の日――。
人類は、環境の変化により住めなくなりつつあった地球をあとにするところだった。
それをよしとしない者たちがいた。
彼らは秘密裏に……月の中心に巨大ウォータージェットを設置し、天体内部からすべてを切り刻んだ。
かくして一度、人類は絶滅した。
肉体を離れた魂たちは、迷った。
通常ならば新たな肉体に宿って生まれ変わるところだが、もうその器がないのだ。
(ただし……このイメージを強制的に理解させられているクエン自身は「魂」も「生まれ変わり」も信じていない)
人の魂は、しばらく地球と同じ軌道を回り続けた。
そのうち……。
太陽がしぼんだ。
そのまわりを回っていた星たちは、次々どこかに去っていった。
一方で魂たちは、ただの岩石となった太陽の残骸に宿った。
ここで太陽の残骸が完全に力を失い、自転すらやめた。
ずっと存在していた場所を離れようとした。
魂たちは恐れた。
最後のよりどころの「それ」が、ただの迷子になることを。
だから魂は力を合わせ、かつて太陽だったものをその場につなぎとめた。
とはいえ、かたちのないままでは、確かな質量を有する岩石を固定できない。
よって魂は形状を持った。
かたちとして参考になるのは、かつて宿っていた人体だろう。
無論、もともと質量のない魂だけでは人間の姿を完全に再現することはできない。
人を人たらしめるものを限定的に模倣する必要がある。
結果、人体の司令塔とも言える脳と脊髄――すなわち中枢神経系をかたどったのは、魂にとって必然であった。
ただし、むきだしの脳と脊髄は無力同然。
魂は、その形状を一個の完全な塊として定義しなければならなかった。
そこで、むきだしの中枢神経系に酷似する――
クギのような立体として結実した。
魂の変じた一本のクギが、太陽の残骸の内部に生じる。
果たしてクギの形状が、太陽の残骸を内側から宇宙空間に固定した。
あるいは残骸のほうが、自分をその場にとどめようとするクギの意思に応えたのかもしれない。
そして……太陽の残骸のまわりに、懐かしいものが流れ込んできた。
壊れた宇宙ステーションのガレキである。
ほとんどのガレキが、重力を持つ。
それらが、岩石まわりの大気に浮いた。
郷愁に駆られた魂は……太陽の残骸のなかから、おのれの一部を飛ばした。
全部は無理だ。星を固定できなくなってしまうから。
それでも一部は生まれたがった。
外に出たものは、やはりクギのかたちをしていた。
オリジナルのように、物体を固定する性質を持つ。
ただし複数に分かれた。
かつて宿っていた、懐かしい人体を探した。
クギは、人の肉体に引っかかるために岩石まわりの大気を漂った。
大気には、栄養素が多量にあった。
それを少しずつ身にまとい、クギのいくつかが人の姿を手に入れた。
物質をその場にとどめることで肉体を凝集させ――。
かつ、この働きを中途半端にとどめることで空間の移動を実現した。
もとの姿を保つクギもあった。
焦らなくても、いつか自分の宿るべき肉体が現れると確信したからである。
時間をかけて人は数を増やしていった。
ほかの生き物も現れ始めた。
太陽の残骸に宿るクギの影響を受け、大気にも魂に似た現象が生じた。
そしてガスだまりが、生き物のような挙動を見せるようにもなる。
とくに地球時代の海への憧憬から……ガスたちは水生生物をかたどった。
その非生物たちは、のちに「ガス・ホイップ」と呼ばれる。
ガス・ホイップが人を始めとする生物を理由なく襲うのは、明確なかたちを有する存在に引かれているためだろう……。
ガレキと共に飛んできた紙媒体などを参照し……新しい人々は、地球人たちを思いえがいた。
歴史を知った。文化を知った。言葉を知った。
地球人は全滅せずこの星に移住してきたと彼らは解釈した。
ウォータージェット事件についての資料にふれる機会がなかったし……まさか自分たちが内部にクギを宿すまったく新しい人類であるとは誰も考えつかなかった。
海の生き物の図鑑や、地球で書かれた小説なども、彼らは自然に吸収した。
いつしか、かつて太陽だった岩石……星の中心に浮くそれは、ココア・サン・クッキーと呼ばれるようになった。
当初は、「コア・サン・クッキー」の名称が与えられていたが、誰かがふざけて「ココア」と言った。
その冗談が浸透したのだ。
もともと、そこから離れた石はココアを付けずに「サン・クッキー」と名づけられていた。
太陽の名を冠するのは、たたくとそれ自体が光熱を発するからである。
また……重力を持つガレキが、地球への敬意を込めて「アース・パイ」と呼称される。
いずれも「鉱物」として扱われた。
そして物体をその場に固定するクギ状の鉱石が、衣服に利用するハンガーにかけて、そのまま「ハンガー」と言われた。
じきに……ココア・サン・クッキー自体を固定するものとして想定されるハンガーが、「サン」と「アース」に並び称されるかたちで「ムーン」を付けて呼ばれるに至る。
すなわちそれが、「ハンガームーン」
今も一本のクギに似た形状を保ちつつ、世界をこの世にとどめている。
♢♢♢
――以上のことを一瞬で、クエンは理解させられた。
クエン自身は「ふざけるな」と思った。「なんの妄想をしているんだ」と感じた。
それでも、確実に言えることがあった。
四十センチの銀灰色の鉱物が目の前に来た途端、観念のようなイメージをクエンの脳に……中枢神経系に流し込んできたことだけは事実であった。
もう、ただのハンガーと思い込むことは、かなわなかった。
随意的に、不随意的に、反射的に、全身が……眼球に至るまで震動する。
クギに似た形状が、クエンの吐息を身に受ける。
脳のようにぷっくりした先端に、人の頭部が形成された。
そこから下ろされた細長い脊髄のような部分に胴体が現れた。
ついで四肢が伸びる。
たちまち、そのハンガーはクエンの子どものかたちをとった。
どうやらクエンがクギの形状を見るなかで娘を思いえがいていたのは……この形状そのものがクエンの吐息から娘の情報を読み取り、それをかたどろうとしていたからのようだ。
「……う」
クエンの片手から、単眼鏡が地面に落ちた。




