パイとクッキー
「――ご注文、承りました」
頼まれたのは、パイ三枚とクッキー六個。
依頼内容を確認した赤毛の青年ピックは、事務所から外に出て地面を蹴る。
ピックは首元から胸部にかけて一枚のスカーフを巻いている。
腰にウエストポーチをつけている。
なにより目立つのは、背中に固定した二つの大きなブーメラン。
一つは赤く、一つは白い。
そんな格好のピックが、黒い瞳を前方に向ける。
浮いた地面から別の浮いた地面に跳び、そこも駆け抜け、落下する。
落ちた空間に、垂直に立つ地面がある。
……体を倒し、その表面に靴の裏をつける。
ついで、まっすぐ走る。
道の先のジャンプ台を駆け上がり、そのまま、なにもない空中に向かって踏み出す。
すかさずピックは背中に固定していたブーメランの一つを正面に投げた。
回転は、ほとんどかかっていない。
ブーメランが……ややかたむき、全体像を見せる。
先が八本に分かれた赤いブーメランだ。
名前は、「オクトパス」である。
ピックは脚部を前に出す要領で体をかたむけ、オクトパスの上に乗る。
サーファーのように体を安定させ、足の裏全体でブーメランを小突く。
するとピックの高度が少しずつ下がり始める。
ピックは、背中のもう一つのブーメランを進行方向の真下に飛ばす。
こちらのブーメランは白く、先が十本に分かれている。
……「スクイード」と名付けられたそれが、強力な回転と共に沈む。
直後、白いブーメランに引っ張られるように、ピックとオクトパスが急速に下降する。
回りながら戻ってきたスクイードをピックがキャッチし、もう一度、真下に放つ。
そうやって再びスピードを上げて下降する。
――手元に戻って来るブーメランを、何度も投げ続ける。
とまることなく赤毛の青年が空にもぐり続ける。
浮遊するガレキや真白い雲のあいだを抜ける。
♢♢♢
ピックの落下が終わったのは、いびつな球体と対したときだった。
直径十メートルほどの岩石が宙に浮く。
そのそばでとまる。
身につけていたウエストポーチからツルハシを取り出し、岩の一部をこぶし大に砕く。
ピックは、計六個の石を採取した。
それらをポーチに収納したあと、今度は上に向かってスクイードを飛ばす。
白いブーメランの動きに伴い、やはりピックも上昇する。
途中でピックは、浮遊するガレキの一つに近寄る。
厚さ三センチほどの大きなガレキだ。
その一部を、ツルハシで器用に切り取った。
一辺三十センチの正方形が三枚できる。
これを左脇に挟む。
ついでピックは今までと同じくブーメランを投げることで自身の高度を上げる。
じきに例のジャンプ台に戻ってくる。
その地面は、やはりピックから見て直角に立っている。
ピックは、赤いブーメランのオクトパスをかかとで小突き、体を真横にかたむける。
そのままジャンプ台に足の裏をつけ、オクトパスを蹴り上げ、回収。
白いブーメランのスクイードと一緒に背中に戻し、地面を走り抜ける。
その地面と垂直に交わって浮く別の地面へと跳ぶ。
同時に、ピックを引き寄せる重力の方向が変わる。
ピックは足をとめず、地面の先の崖を跳び越える。
事務所のある場所に着地し、その入り口のなかに飛び込んだ。
なお、入り口の扉は最初から、あけっぱなしにしていた……。
「――大変お待たせいたしました。ご注文のパイ三枚とクッキー六個をお持ちしました」
室内のテーブルにそれらを並べる。
ガレキからカットした三枚の正方形と、こぶし大の石が六個ある。
テーブルの前の椅子で待っていた依頼人が、にこやかな表情でそれらをバッグに入れる。
「ありがとうございます、ピックさん。……恥ずかしながら我が家のゆかが抜けてしまいましてね。その修理にアース・パイが入り用になったもので。サン・クッキーのほうは、来月から離れて暮らす子どもに持たせるつもりですが……」
「お役に立てたなら幸いです」
微笑を見せ、ピックは依頼人を見送った。料金は、すでにもらっている。
そのあと、いったん扉を閉め、事務所のなかを見回す。
(さて……これで、しばらく仕事は休みかな)
赤毛の青年ピックは、「パイ」と「クッキー」を売って暮らしていた。
パイとは、「アース・パイ」のこと。
ガレキに似た板であり、その表面に重力が働く。
目立った大地のないこの世界における「足場」として利用される。
またクッキーとは、「サン・クッキー」を指す。
熱および光を発する岩石のことだ。
こちらはエネルギー源や「あかり」の役割が大きい。
パイもクッキーも、人が生きていくために必要不可欠。
おかげでピックは、仕事に困ることがない。
(金は充分にたまった。事務所と庭の管理はすでに業者に任せてあるし、よし! 今から旅に出発だ)
ウエストポーチとブーメランをあらためて装備するピック。
意気揚々と事務所の扉をあけ、外へと駆け出す。
――が。
扉の外に一人の少女がいたため、足をとめる。
「なにかご用ですか、お嬢さん」
目の前の少女は、黒い瞳と金の髪を持っている。
見た目は十四歳くらい。
軽いウェーブのかかったボブカットを二つ結びでまとめている。
もみあげ近くの「後れ毛」が少し長いのが特徴的だ。
ピックと同様、首元から胸部にかけて一枚のスカーフを巻いている。
さらに腰にはスカーフの形状に似たスカートをはいており、その下からタイツにおおわれた脚部が延びる。
その正体は、まだ断言できないが――。
おそらく彼女も、パイかクッキーを頼みに来た客だろう。
これから事務所をカラにするつもりだったが、外に「休業中」の看板を立てていなかったことを思い出し、あくまでピックは「お客さま」に応対する態度をとる。
「わたしはピックと申します。ささ、どうぞ事務所内に」
そんなピックの笑顔にこくりとうなずいた少女は、室内に入って椅子に座った。
テーブルを挟んだ対面の椅子に腰かけるピックを見つめ、彼女が問う。
「……扉、閉めないんですか」
「閉めませんよ」
あけっぱなしにした事務所の扉に視線をやり、ピックが答える。
「……お客さまの椅子も出入り口に近いですけれど、そちらのほうが安心でしょう」
「確かにおじさんが『いい人』だなんて、わたしにはわかりません。だからあなたは――お客のわたしが、いつでも逃げられる状況を作っているんですね」
「いつも、このやり方なんですよ」
いったんピックは立ち上がったあと、紅茶をいれたカップを少女の前に置く。
自分自身のぶんも用意し、それに口を付けるピック。
「これはわたしの気持ちですよ。たとえあなたが依頼することなくここを去っても、お茶の料金をいただくことは、ありません」
「では遠慮なく……温かいですね」
二、三回カップを口に運んでから、いぶかしげに少女は相手を見る。
「すみません……あなたは、『おじさん』と言われて、なんで動揺していないんですか。見たところ、まだ二十歳そこそこでしょう」
「男の価値は、自分を『おじさん』と呼ぶ人間を尊重できるかによって決まるからです」
……この返答を聞いて、少女は紅茶を噴き出しかけた。
「……けほっ。なんですか、そのセリフ……。さてはあなた――九割九分『いい人』ですね」