アリアの兄
「きみたちも。せっかく美しく着飾っているのだから、夜会を楽しんではいかがかな」
男はそう言うと、ふわりと柔らかな笑みを彼女たちに向けていた。
ぐっと黙り込む猫目ボブの頬が少し赤い。いやその周囲の子たち、みんなが揃って頬を赤くしていた。
「わ、わかってますわ。あなたこそ、その子の手綱をしっかり握っておいてください!」
猫目ボブは「行くわよ」と周囲の女子たちに声をかけてそこから立ち去ってしまった。いや待て、あっさり立ち去るのは構わないが、誰かこの男の詳細を教えてくれ……!
「……驚いたな。いつもあんな感じなの?」
「……」
「聞いてる? あと少しで叩かれるところだったよ、アリア」
「あ、ああ……」
穏やかな口調で語りかけてくる男。い、一体誰なんだ、こいつは……。
「ってそうじゃないね。フリューゲルに戻ってきたって話は聞いていたんだけど、顔を見せるのが遅くなってごめん。父さんたちと一緒に仕事の関係で、暫くここを離れていて……」
「…………」
「身体は平気? 元気だった?」
フェンリル、お前が万能なら遠くからでもいいから、何か情報をくれ。
「まあ、あれを見て……テオドリクス様よ」
「復学されたのね」
「いつ見ても美しいお方」
「見れば見るほど、惜しいですわ」
聞こえてきた陰口を、ありがたく思う日がくるなんて。
頼むから、この男に関する情報をもっと詳しく……!
「アリア・マグライアと兄妹であることが」
兄妹……?
え、と思いながら、私はその男の顔を見上げる。
「どうかした?」
と。不安そうな顔で訊ねられる。
聞いたことないぞ。
アリアに兄だと?
教会を訪れる際、アリアはいつだって一人だった。
何度だって言うが、アリアが倒れてから家族が誰一人として見舞いに訪れたことはない。それなのに、これほど優しそうな兄がいたのか。
言われてみれば、アリアの纏っている魔力に匂いは似ている気もする。
だが……何かが違う。
……まさか、隠し子か? それとも、アリアとは血縁関係にあるが、遠い存在なのか。
大体、仕事の都合で離れていたと言っていたが、アリアの両親は息子だけ連れて遠くへ行くような人たちなのか?
予測し得る事情の全てが、あのお人よしのアリアと重ならない。
一体、どういうことだ。
「……お兄様?」
ひとまず探るように訊ねると、男はぴくと肩を揺らして「よかった」と穏やかに微笑んだ。
「一瞬、忘れられたかと思ったよ」
「あー……そうですね、なんと言いますか」
本当にアリアの家族かどうか、ちょっと確かめてみるか。
「時計塔から落ちてしまってから、記憶が曖昧で……思い出すまでに、少々時間がかかってしまいました」
「……」
「ほら、誰も見舞いに訪れなかったものですから。家族はてっきり、いないものかと思ったのです」
嫌味に聞こえたなら、それはそれで構わない。
薄情者め、とマグライアの人間には、いつか言ってやりたいと思っていたのだ。
「だから急に声をかけられて……」
笑顔を作りながら、その男を見ると、ぽろっと涙を流して……って。
な……!
「え、お、お前、どうして泣いて……!」
「悪かった。アリア……まさか、お前がそんな大変な思いをしていたなんて知らなくて……」
「本当に、ごめん」とめそめそと泣き始めるその男に、「あ、いや……別に泣かせるつもりじゃ」と続けたが、「兄失格だよ。わかってはいたけど……こんなに可愛いアリアを守れず」とさらに肩を落として泣いていた。
「いや、そこまでは言っていない」
「辛い時に傍にいてやれなくて……何がお兄様だ……」
「傍にいることが必ずしも正しいとは限らないでしょう……」
「わかってるよ。俺が、傍にいなくてもいい存在だってことは」
「だから、誰もそんなこと言っていない」
何故こいつは人の話を聞かないのだ。すぐ否定したというのに、ぽろぽろと涙を流し続けている。
アリアよ、こんな面倒臭い兄がいたならあらかじめ言っといてくれ。
「傍にいなくていいなど思っていないから、あまり落ち込まないでください。お兄様」
「……本当に?」
「ええ」
「本当の本当に、そう思ってくれてる?」
「本当の本当にそう思っているから、今すぐに涙を引っ込めろください、お兄様」
ずぴっと鼻を啜り、へにゃりと微笑んで「よかった」とこちらを見る。
「きみに嫌われたら、俺は生きていないからね」
「……ぐ」
無駄にキラキラ笑顔。なんだ、こいつ。
「どうかした?」
「いや……」
どうかしかしてない。
「気分でも悪いの? 横になった方がいいかな」
「……」
「それから言い忘れていたんだけど、今日はとても綺麗だね。そのドレスは誰かからの贈り物? 似合ってるって言いたかったのに、遅くなってごめんね」
「……」
あのインチキ魔法師と違うベクトルで、苦手なタイプかも知れない。
厚かましいのに、突けば豆腐よりもぐしゃっとメンタルが崩れそうな感じがまた……。
「そうだ、アリア。記憶が曖昧って言ってたけど、どんなことは覚えているか聞いてもいいかな」
「え? あー……」
面倒だな。何をどうしたら、あの妹にしてこの兄なのだ。
そもそも、こんなに強烈な兄がいたらアリアは話しそうなものだが。
やっぱり血が繋がっていないのか?
「……すみません、正直に言いますと」
「うん」
「名前から憶えてません。なので自己紹介してください」
ずばっと言い退けると、彼は「えっ」と少し固まった後、目を潤ませていた。
「あ、アリア……」
「それからすぐに泣く人間は好きではありません」
さらにはっきり告げると、「記憶が曖昧というのは事実みたいだね……」とさらに悲しそうな顔をした。
「本当にアリアじゃないみたいだ」
ぎく、と肩を揺らすと、男は「テオドリクス」と答えた。
「俺の名前だよ。きみは、テオお兄様ってよく呼んでくれてたんだ」
「そうですか……」
案外、あっさり現実を受け入れて、自己紹介をされたので、ぬるっとした違和感を覚える。
「それにしてもアリア、きみがあんな目に遭っていたのは、もしかして王太子殿下が原因?」
「……何故でしょう」
「やけに大きな声で、きみの名前と王太子殿下の名前が聞こえてきたから……。でもそのお陰で、この広いホールでアリアを見つけることができたんだけど」
フェンリルは知っているのだろうか。この男のことを。
「とにかく、よかった。きみが酷い目に遭わずに済んで」
睫毛を揺らし、微笑む顔はそれこそ慈愛に満ちている。アリアの兄だと言われれば、確かにそんな風にも見えてくる。
「……テオお兄様」
「ん?」
「そろそろよろしいでしょうか。ご飯を食べに行きたいのですが」
「……あっ、ご、ごめん。詳しい話はまた今度聞かせてね」
慌てるテオドリクスに「ええ、もちろんです。それではまた、テオお兄様」と軽く微笑みながら頭を下げた。
なんと心地の悪い気分か。一刻も早くこの男から離れなければ。
はあ、フェンリルがいないのがこうも不便とは。
認めたくないが、あいつはなかなか使えたな。
今度、感謝の一言ぐらい……。
……いや、やめておこう。下手に礼でもしたら。
『そうでしょう? わたしってば、超万能なんです。ふふふ、もっと褒めたっていいんですよ?』
などと、あのムカつく顔で言いかねない。
テオドリクスのことは、それなりに自分で調べるか。
アステル辺りに聞けたら一番いいんだがな……。
しかし、いくらなんでも家族を忘れているというのはやりすぎか?
記憶障害の範囲を具体的に決めておいた方が良いかもな。
そんなことを思いながら適当な皿を取ろうとしたら、遠くの方に見覚えのある赤茶髪が見えた。
あれは……。
「……」
何と声をかけるのが正解だろう。
『よ、アステル。お前も夜会に参加してたんだな!』
ラフすぎる。アリアらしくないから却下。
『こんばんは、アステル。今夜も月が綺麗ですね〜』
どこか余所余所しすぎるな。却下。
『アステル、もしよかったら二人でゆっくり話しませんか?』
含みを持たせ過ぎ。却下。
ううーん、と悩みながら、上を向くと豪勢な照明が見えた。
アステルは、アリアの友人だ。
互いに気まずいのは避けたい。
それに、あんまり警戒されると、腹を割って話してもくれなさそうだしな。
ひとまず『この前は疑ってごめんなさい』でいこう。
まずは無難に。穏便に。謝罪が一番。
アリアなら、きっとそうするはず。
よし、そうと決まれば、さっそくアステルに声をかけに……。
「おい。アリア・マグライア」
……どいつもこいつも。




