危険な約束
◇
「ビスケットですか? わたしへのお土産は」
「不満を言うなら没収だ」
「そんな! 酷いことを言わないでください。あなたからの初めての贈り物だと言うのに……」
「事あるごとに気味の悪いことを言うな。贈り物ではなく、ただのついでだ」
全く、と言いながら、鏡の前に立ち、アリアから自分の姿に戻る。
そんな私の姿を見ながら、フェンリルは紙で渡したビスケットをハンカチに包み直していた。
「何かありましたか」
「は? なんで……」
「あれほど楽しみにしていた学食に行ってきたのに、お声が沈んでるような感じがしたので」
「…………」
察しの良さに腹が立ち横目でそいつを睨むと、得意気に微笑まれた。なんだ、笑い方まで猫になったのか、こいつは。
「……苛々しているんだ」
「苛々、ですか?」
「こんなふざけた環境にいながら、どうしてアリアは私に相談しなかったのか。もしも塔から自ら飛び降りたのであれば、そうなる前にどうして私を頼らなかったのか。もし頼っていれば少しはマシだっただろう、馬鹿な娘だ……と初めはそんな風に、アリアに苛々していた」
そんなに頼りなかったか。
そんなに信頼がなかったのか。
心を打ち明けるに値しなかったのか、私は。
そう思っていた。
「だが、私はわかっていなかった。あいつは、ただ私に迷惑をかけたくなかったのだ。自分が苦しもうと相手の幸せを願うような、そういう娘だとわかっていたはずだったのに」
「…………」
「それを改めて思い知っただけだ。そうしたら、自分に苛々が止まら……」
なくてな、といいかけたところで、頭の上に手のひらが乗った。
は、と思った時にはなでなで、と頭を撫でられる。
「……おい、なんだこの手は」
「苛々しているというよりも、落ち込んでいるように見えたので」
にこっと笑顔を作るフェンリルを睨み上げれば、「もしかして、労りはいりませんか?」と当然のことを告げた。
「余計なことをするな。子供じゃあるまいし」
「子供でなくとも、頭を撫でられるのは悪い気がしないでしょう?」
大きな手が頭の上を行き来する。
そういえば、誰かに頭を撫でられたことなど、生まれてこの方一度もない。
だからだろうか。確かに優しく撫でられる感触は。
「まあ……」
悪くはない、と言いかけて、はっとしながらそいつの手を払った。
「いや、調子に乗るな!」
「あ、残念。あなたの髪は柔らかくて触り心地が良いのに」
まさか手懐けを失敗するとは、と言いたげなフェンリルに。
「お前のその長い髪を燃やして触り心地をよくしてやろうか、変態め」
と返せば、
「やめてください、今が最高なんですよ? わたしの髪は。ほら、見てください。毛先までとぅるんとぅるん」
などとよくわからないことを言っていたので無視しておいた。
「しかしアリア・マグライアもすごいですね。こんなに懐かないあなたの心をここまで揺さぶるなんて」
「……お前、人のことを猫か犬だと思っているのか」
「俄然興味が湧いてきました」
「おい、アリアに手を出したら許さないからな」
もしもそんなことをしたら、本当の本当に燃やしてやる。
「出しませんよ、わたしはどちらかというと、もう少し破天荒な強い人が好みなんです」
「それは……」
フェンリルを見上げると、その赤い目を細めて、に、と微笑んでいる。先ほどの得意げな微笑みが消え、今はなんだか怪しげな笑みをしていた。
そんな彼の顔を月明かりが照らし、肌の白さを際立たせている。
「意外な趣味だな。ゴリラでも好きなのか、お前」
「ああ……まあ、そうですね。美しいゴリラが好きなのかもしれません」
「……趣味は人それぞれだからな」
変態には癖ありの趣味があるだろうから、あまり突っ込まないであげよう。
「さ、風呂に入って寝るか。お前はもう先に寝てもいいぞ、どうせ猫の姿に……」
「ならなくてもいいですよ? その場合はあなたの隣に」
「寝かせるわけないだろ、外で寝ろ」
即答しながら告げると、「わかりましたよ、本当に冷たいんですから」とフェンリルは猫の姿になって、ベッドの上に寝転がっていた。
「おい」
『硬いのは嫌なんです。場所を取らないんで、寝かせてくださいよ』
全く……。
「蹴り飛ばしても知らないからな」
そう忠告してあげたのに。
朝になって。
「おはようございます、ヘスティア様。ぐっすり眠られたようで何よりです」
笑顔で私の隣で横になっているフェンリルの頬に、私の足の裏で蹴られた痕と小さな怒りマークがついていた。
「お、まえ……どうして隣で寝ている!」
急いで身体を起こすと、そいつは肘を立てて、その手のひらに頭を乗せていた。
「横になったのはさっきですよ。あなたがあまりにもわたしを蹴り飛ばすので、腹が立って元に戻ったのです」
「腹が立ったって、仕方がないだろ、狭いんだから……」
「いいえ、猫のわたしは場所をとりません。それにあなたの枕元で眠っていたのに、あなたの寝相が最悪過ぎて、回転しながらまるで玉蹴りのように蹴り飛ばし、わたしを床へ落としたのです」
「そ、そんな酷い話が……」
「あるんですよ、残念ながら」
うるさい男だなこいつ。そもそも事前に言っていたじゃないか。蹴り飛ばしても知らないって。
「お前が忠告を無視したのが悪いだろ……」
「まさか実際に蹴られるとは思わないじゃないですか。あなた、本当に聖女ですか? もう少し周りのものを労わってくださいよ。わたし、あなたのせいで歯をやられたかと心配で……頬だってこぉーんなに赤くなって」
「ああ、もう! 朝からうるさいやつだな。わかったよ、詫びに何でも一つ願いを聞いてやるから、ぐちぐち言うのをやめろ!」
「本当ですか? 聖女様に二言はなしですよ?」
がばっ! と起き上がり、私と視線を合わせるフェンリル。相変わらず圧迫感がある。
立てた膝の上に頬を乗せ、「本当に何でも叶えてくださいね」とあざとい微笑みを朝から見せられて、ああ、早まったかも知れないと思った。
何でも、なんて言うべきではなかったな。




