第3章:提督、自由貿易とコーヒーに困惑す
1853年7月9日、東京、外務省。
私は、マシュー・カルブレース・ペリー、アメリカ海軍提督として、この異様な日本との交渉に臨んでいた。昨日までの威厳はどこへやら、目の前の「外務大臣」林美咲と「外務省職員」田中の穏やかだが圧倒的な態度に、私は完全に主導権を失っていた。
交渉の前に、田中が「少し街を見てみませんか?」と提案してきた。私は渋々了承し、外務省の外へ出た。
そこに広がる光景は、まるで夢か幻だった。
道には鉄の馬車――彼らは「車」と呼ぶらしい――が無数に走り、けたたましい音を立てている。空には「ヘリコプター」と呼ばれる機械が飛び、人々は手に小さな箱を持ち、笑いながら何かを見ている。
「これが…貴国の日常なのか?」
私が呟くと、田中は笑って答えた。
「ええ、スマホで動画を見てるところですね。あ、提督、コーヒーでもどうですか?」
彼が指したのは、道端の小さな店。木の看板に「スターバックス」と書かれている。
中に入ると、奇妙な香りが漂ってきた。田中が「ラテ」とやらを注文し、私にも同じものを渡してきた。
「これは何だ? 薬か?」
私が眉をひそめると、田中は笑いながら言った。
「ただの飲み物ですよ。カフェインが入ってて、疲れが取れます」
一口飲んでみた。苦い。だが、不思議と心地よい。私は思わず二口目を飲み、内心で驚いた。
――我が国にこんな飲み物はない。文明の差を、こんな小さな杯で感じるとは。
店の壁には、光る板に動く絵が映し出されていた。奇妙な衣装を着た少女が歌い踊る姿だ。
「これは何だ?」
「アニメのPVです。日本文化の一部ですよ」
田中の説明に、私は頭を抱えた。武士や茶道を想像していた私の日本観は、完全に崩れ去った。
会議室に戻り、いよいよ本題の交渉が始まった。私は気を取り直し、切り出した。
「我が国は貴国との通商を望む。港を開き、交易路を確立せよ。それが貴国の利益にもなるはずだ」
私の言葉に、林大臣は静かに頷き、田中が書類の束を差し出した。
「提督、了解しました。私たちも米国との交易に興味があります。ただし、条件があります。これをご覧ください」
私は書類を受け取り、目を通した。そこには「CPTPPに基づく自由貿易協定」と書かれている。
「CPTPPとは何だ?」
私が尋ねると、林大臣が冷静に答えた。
「環太平洋パートナーシップ協定です。簡単に言えば、関税をほぼゼロにし、自由な貿易を進める枠組み。私たちは米国との交易を、このレベルで求めます」
私は目を疑った。
「関税を…ゼロだと?」
我が国の常識では、貿易とは関税をかけて自国の産業を守るものだ。綿花や鉄鋼に高関税を課し、国内生産者を保護するのが当たり前。なのに、この日本は「ほぼ無関税」を当然のように求めるだと?
「冗談ではない! 関税なしでは我が国の経済が混乱する。貴国は我々に何をさせたいのだ?」
私が声を荒げると、田中が穏やかに補足した。
「提督、貴方の時代では保護貿易が普通かもしれません。でも、私たちの世界では、関税を下げて市場を開く方が経済成長に繋がるんです。例えば、これを見てください」
彼が差し出した別の書類には、奇妙な数字と図が並んでいた。
「これは我が国の輸出品です。自動車、電子機器、医薬品…これらが貴方の国に入れば、生活が豊かになります。その代わり、我々は貴方の国の綿花や木材を無関税で欲しい。互いに得する話ですよ」
私は唖然とした。自動車? 電子機器? そんなもの、我が国には存在しない。だが、彼らの自信満々な態度と、先ほど見た東京の繁栄を見れば、それがどれほどの価値を持つかは想像がつく。
――この国は、我が国を丸呑みにする気か?
私の頭は混乱していた。
当初の計画では、黒船の威光を以て日本を開国させ、米国に有利な条件を引き出すつもりだった。だが、今や立場は逆転している。彼らの技術と力は我が国を凌駕し、交渉の主導権は完全に日本側にある。
しかも、本国から私は全権委任を受けている。日本を開国させる責任は私に課せられたものだ。ここで引けば、提督としての名誉は地に落ちる。
「貴国は強欲だ。だが…私には退く選択肢がない」
私が呟くと、林大臣は静かに微笑んだ。
「提督、強欲ではありません。未来の常識です。私たちは貴方の国と協力したいだけですよ」
その言葉に、私は決意を固めた。
「よし、この協定を結ぶ。全権委任の権限を以て、私が署名しよう。だが、貴国も我が国の状況を理解し、猶予を与えてくれ」
田中が頷き、書類にペンを走らせた。
「了解しました。移行期間を設けます。提督、貴方は歴史に名を残しますよ」
私は苦笑した。名を残す? いや、この交渉で私は米国を売った男として記憶されるかもしれぬ。