第10章:清の変貌とアジアの新風
1855年秋、清王朝、各地。
日本と清の協定から1年。2025年の技術と経済力を持つ日本は、清の市場を掌握し、その影響は社会の隅々にまで浸透していた。清のプライドは揺らぎ、アジアの勢力図はかつてない変動を見せ始めた。日本の影が、巨龍の国を覆いつつあった。
日本の戦略はシンプルかつ効果的だった。清の高官や有力者に直接的な利益を与え、彼らを味方につける。
上海を拠点とする李鴻章は、日本の「トヨタ」自動車を10台も所有し、豪華な屋敷を新築。日本の商人から毎年支払われる「取引手数料」(実質キックバック)は、彼の私財を倍増させた。
「日本との交易は我が富を増やす。朝廷が何と言おうと、これは正しい道だ」
李鴻章は部下に命じ、日本の機械を地方に広める政策を推し進めた。
地方官僚も同様に取り込まれた。広州の知事、張明は日本の「トラクター」を農村に導入し、収穫量が3倍に。増えた農作物の輸出で得た利益の一部が彼の懐に入り、
「日本は我が恩人だ。もっと取引を増やせ!」
と積極的に日本の商品を歓迎した。
庶民レベルでも変化が起きた。日本の医療品がアヘン中毒者を救い、「カップラーメン」が貧民の食卓に並んだ。北京の市場では、若者が日本の「ラジオ」を手にこう叫んだ。
「これで音楽が聴ける! 日本は神だぜ!」
清の伝統的な暮らしは、日本の技術に塗り替えられつつあった。
日本の影響は清を超えて、アジア全体に広がった。
朝鮮半島では、李氏朝鮮の朝廷が清の変化を目の当たりにし、日本の使節団に接触。
「清が日本と組んで強くなったなら、我々もその恩恵に与りたい」
日本の提案を受けた朝鮮は、港を開き、自動車と機械の輸入を開始。伝統的な両班(貴族)は抵抗したが、農民がトラクターに飛びつき、経済が動き始めた。
東南アジアでも動きが。シャム(現在のタイ)は、日本の飛行機と軍艦を見て、
「イギリスやフランスより日本の方が頼りになる」
と判断。日本の使節団と交易協定を結び、ゴムと米を輸出する代わりに、日本の技術を受け入れた。
インドでは、イギリス東インド会社が警戒を強めた。清への日本の進出を見て、
「日本がインドにも手を伸ばせば、我が支配が揺らぐ」
と焦り、日本への対抗策を模索し始めた。だが、日本の圧倒的な技術を前に、具体策は見つからなかった。
清での日本の成功は、欧米列強の影響力を確実に削いだ。
イギリスは、アヘン貿易での利益が減少し、上海での地位が揺らいだ。駐清公使は本国に報告した。
「日本の商品が清を席巻し、我が貿易は半減。日本を止めねば、アジアを失う!」
だが、日本海上自衛隊の艦船が清の港に停泊する姿を見れば、武力での対抗は無謀と分かっていた。
フランスやロシアも同様に、日本の動きを注視。ロシアはシベリアでの資源開発を急いだが、日本の機械が既に清で普及しており、競争に遅れを取った。
アジアでの勢力図は、欧米から日本へとシフトしつつあった。
清の朝廷では、日本の影響拡大に賛否が分かれた。
現実派の李鴻章は、
「日本は我々に富と力を与える。欧米より有益だ」
と主張。一方、保守派の琦善は、
「日本如きに頼るのは恥だ! 清の威厳は何処へ?」
と反発した。だが、咸豊帝自身が日本の医療品で健康を回復し、
「日本は我が朝貢国として忠誠を尽くすなら、悪くない」
と妥協的な姿勢を見せた。
日本は表面上「清を尊重する」としつつ、実質的に経済を握った。田中は東京で林に笑いながら報告した。
「清の高官は金で動き、民は技術で従う。アジアは我々の庭になりましたね」
林は地図を眺め、呟いた。
「次は欧州か、それともアメリカの再訪か? 世界が我々を待ってるよ」