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 明治十五年の春に、姫は十六歳になられました。

 三年ほど前からは学校にもお通わせせずに、ご身分にふさわしい、心正しく学識のある女性を保母としてお(そば)にお付けしています。

 たった今も、繻珍(しゅちん)の帯を胸高(むなだか)に締め、組紐(くみひも)の帯揚げも凜々(りり)しく、(かさ)ね着をした(つま)のあたりも引き()まり、白綾(しろあや)衣紋(えもん)をきっちりとさせて、ふさふさとした黒髪を()(かい)(むすび)()っている、細面(ほそおもて)の色白で、きりりとした(まゆ)の女性が、境内の正面にある本堂の扉の(かげ)から半身を見せていますが、それが香折姫(かおりひめ)の保母です。

 姫は腰元らと連れだって、門内にある鐘撞堂(かねつきどう)(かたわら)を流れるひと筋の小川のあたりで、保母の守護が届く限りのあちらこちらを駆けまわりながら、羽根つきをして遊んでいらっしゃいます。日頃からのことではありますが、正月五日の着飾ったそのお姿は、とりわけなんと端麗(あでやか)なことでしょう。

 振袖(ふりそで)詰袖(つめそで)を着たお側付(そばつ)きの女たちに囲まれても、姫の周囲は神々しく感じられます。姫のほうではへだてなく接しているおつもりですが、生まれつき備わったご威光に打たれて、ご近所の娘たちは、かつてのご学友でさえも、自から近づくのを控えております。何か恐ろしいものを見るような様子で、寺の門から距離を置いて、ひとかたまりになってこちらを覗いている人たちもいます。行き交う若い男たちのなかには(ささや)きあいながら、こっそりとこちらを指さしている者もいますが、彼らは姫が誰なのかを知らないのでしょう。白髪でちょんまげを結った、かつての藩士である昔気質(むかしかたぎ)の老人などは、あれこそ五の君、香折姫(かおりひめ)だと気がついて、寺内の仏様を差し置いても、姫様にうやうやしく頭を下げて通りすぎて行きます。

 けれども、尊い者と卑しい者の世界を分けたこの御寺(みてら)の門の高い敷居を、足もとは危なげでありましたが、無造作に(おく)せずまたいで入った老人がいました。

(くず)はないか。屑は、屑は、屑屋(くずや)でござい」

 と呼びかけています。

 ちょうど日脚が傾いて、松が生えたあたりには薄霞(うすがすみ)がたちこめ、空高く飛ぶ(たこ)のうなる音がひときわ()えて聞こえるのも、どことなく寂しさを感じさせる頃合いでした。屑屋は足を重たげに、吐く息もせわしく(あえ)いでいましたが、とはいえ背負った(かご)のなかは空っぽなのです。尖った肩の骨を薄い着物に突き上げた姿も痛々しげで、(かが)んだ腰がいっそうその姿を低く見せている、年の頃は六十を超えたおやじでした。

(くず)はないか、屑はないか」

 と呼びかけながら、身をよじらせて門から入ると、こちらを(にら)みつけています。

「なんでえ、なんでえ、何を嫌がってやがる。姫様(ひいさま)がなんでえ。こっちは商売だ、屑を買いに入るがどうした。お前らは殿様から(ろく)をもらったから姫様(ひいさま)か何か知らんが、おらあ平民だい、葉っぱの切れ端ひとつ殿様の世話にゃあなっていねえ。平民だい、殿様の足軽じゃねえぞ。止めるなら止めてみろ、極道(ごくどう)め。

 屑屋、屑屋でござい」

 よろよろと歩きながら、またつぶやきます。

「おもしろくもねえ奴らだ。勝手にしゃあがれ。気に食わなけりゃ殺すがいいやい。さまあみろ」

 おやじは絶えず独り言をつぶやきながら、思い出したように、屑屋、屑屋と、ときどき大声を張り上げて、地面を見ながらよたよたと足を進め、知らないうちに羽根つきの羽根が飛んでいく筋を横切りました。おりしも腰元が打った羽根が、姫のほうにひらひらと空を舞って飛んで来たところだったのです。受けようとなさった姫の羽子板は、不意に妨げられてそれてしまい、そのはずみで羽根は小川に落ちてしまいました。

「誰!」

 と姫は目をお向けになると、

「いやな」

 と羽子板で屑屋の胸をお突き退けになられました。とっさのことに激するご気性もあってか、力がこもったようで、飢えた屑屋は意気地(いくじ)なく後ろにはね飛ばされました。よろよろと踏み(こた)えはしましたが、屑屋はどれほど口惜(くや)しかったことでしょう。赤らんだ目を見開いて、底光りする瞳に(すご)みを()かせて、姫をキッと(にら)みつけました。その睫毛(まつげ)には、涙が(つた)っています。しばらくするとニタリと笑い、くるりと背を向けると、門を出ていきました。


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