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 姫はあまりのうるささに我慢ができず、先ほどから畳の上で羽を休めて身を縮めていた虫を、ひるむことなく指でつまむと、腰元に棄てよと差し出されました。

 腰元は懐紙(ふところがみ)でおそるおそる受け取り申すと、ぎゅっとくるんでそっとねじって、

「嫌な虫ったらない! もう、もう、もう、二度と来てはなりませんよ」

 と、池に面した雨戸を細く開けて、放り棄てました。

「もう大丈夫でございます」

「なんという虫?」

「さあ、存じませぬが」

「そう」

 と一言だけお言い棄てなさると、姫はまたすぐに写経に熱中なさいます。

「あまり根をお詰めなさりましてはお体の毒になります。もうお休み遊ばしませんか」

「ああ」

「それではちょっと、お(とこ)を敷いて参ります」

 と言って、腰元は退出しました。

 しきりに鳴く蛙の声が遠く聞こえてもの(さび)しく、(ふすま)のたてつけがカタリと鳴って、雨の音がはらはらと激しく池の水面(みなも)に打ちつけます。姫は文鎮を横に取りのけて、書写をしている紙をおずらしになりました。するとその下に、またあの虫がいたのです。どうやって、いつの間に入ってきたのか、ご覧になったところ、同じ虫なのです。

 (またた)き一つせずに見守りなさる姫の眉毛(まゆげ)は逆立ち、みるみる怒りの表情を浮かべたお顔の色は蒼くなりました。だしぬけに虫の胴と頭を、それぞれ左右の指でつかんで、糸切り歯をキリキリと噛み鳴らし、唇をお震わせになっています。ものの弾みというのは恐ろしいもので、気がつけば虫の死骸はひっくり返って真っ黒な腹を見せ、もげてばらばらになった頭の(ひげ)がわずかに動いていました。

 しばらくすると、水を、薬をと、上を下への大騒ぎです。その晩は、姫はずっと伏せっておりました。あくる日も、いつものご様子を取り戻せず、具合が悪そうにしていらっしゃるのを見て、医師も首をかしげました。看病をしていた腰元も心配でならなかったところ、ある女中がふと気づいて、こんなことを言いました。

 かつて姫が(いたち)から救った(こい)が、今もなお元気に泳いでいて、朝曇(あさぐも)り、夕凪(ゆうなぎ)の折々に悠々(ゆうゆう)と浮かび上がると、力強く水をひと()きしては、()をくぐって沈んでいくのですが、日ごと月ごとに大きくなって、このごろはもはや二尺以上に育っているようで、ただその片目が(つぶ)れているのは、鼬に歯をかけられた毒のせいだろうと女中たちは(うわさ)しておりました。思い当たったのはその鯉のことで、

「どうでしょう、あの虫の怨念(おんねん)を、鯉に食べさせてしまっては?」

 と、困り顔をした使用人たちのなかで提案したのです。

「とはいっても、死骸なんてとっくに棄ててしまったんじゃないの」

「いいえ、ところがね、ちゃんと小物入れの引き出しのなかに、紙につつんで(じょう)をかけてしまってあるの」

「あら嫌だ。まあ、なんだってそんなものを」

「それがね、こういうことなの。一度は棄ててしまったんだけど、姫様(ひいさま)がどこに行った、どこに行ったと言ってお気になさいますから、棄てましたと申したらね、さあ大変。あそこにいる、ここへ来たと言って夢中でお騒ぎなさるもんだから、皆で相談をしてまた拾ってきたの。首だけがもげているのさ。あんなちっぽけな虫のくせに、またおかしなところからちぎれたもんだね。それであらためて姫様(ひいさま)にお目にかけて、二度とお体につくことはありませんと申し上げると、すこしお気が休まりになったわね。そうして、あそこに入れて錠を下ろしておけとおっしゃるので、とにかくお心の休まるようにと、だいじにしまってあるの」

「そうとなったら、鯉に食べさせるのは名案ね。きっとご恩を返すでしょうよ。姫様(ひいさま)は、あの片目の仙人にとっては、命の恩人でおいで遊ばすから」


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