三
三
高崇寺の土塀の外は山続きゆえに水も澄んではいますが、なにぶん古い池です。
お付きの女たちは、逢魔が時に高貴なお方が縁先などにいらっしゃったせいで魔に魅入られたのではないかなどとささやきあって、その後は注意しあうことになりました。夕刻になると互いに気をつけて、姫様を縁の近くにもお出しになりません。
しばらくは何事もなく時が過ぎました。
姫は、昼中は活発に行動なさっていましたが、夜になると御心静かに、書き物や読書などをなさいます。その夜はこれをなさろうと、決心されたことがありました。お習字の練習になればと、普門品を写経なさることにしたのです。
お居間の時計が九時を打っても、まだお休みにならず、籠行燈をあかあかとお頭の傍に引きよせながら、脇目もふらずに筆を走らせていらっしゃいます。そこに、御目の前をぱっと遮る虫が飛んできたので、驚いて手をお止めになられたのですが、虫は筆のあたりで羽ばたきをして、写しかけの紙の上に留まってじっとしています。
蛍よりはやや大きめで、頭はとんぼに似た小さな虫です。太く短い二本の髯を、威張ったように左右に生え伸ばして、全身は黒みがかった赤茶色をした甲虫でした。それをご覧になった姫は、二度ほど息を吹きかけて飛ばそうとしたのですが、動こうともしません。そこで筆を逆さに持ち替えて軸のほうで払い落としになると、すぐに飛び立って障子にぶつかり、スッと引き返して行燈のあたりで羽音を立てていましたが、見えなくなりました。
姫は引き続き、写経をなさります。しばらくするとお机の、向かって左の隅のほうからその虫がのそのそと這い出てきて文鎮の上に登ってきたので、また筆で振り払うと、ぱたりと畳の上に落ちて、机の脚の下に姿を隠しました。
その後すぐにお足もとからパッと飛び出して、お顔をかすめて飛ぶと、また机の上に留まったのです。
それをご覧になった姫は筆をお擱きになられた手を膝に置いて、じっと見つめていらっしゃいましたが、やがてその目を傍らの腰元に向けると、
「うるさい、うるさい」
と、立て続けにおっしゃいました。
「はっ」
と腰元は、膝を前に進めて、
「おや、どこから入りましたのでございましょう。ただいま取り棄てますでございます」
と言うと、手にした火箸で、いかにも気味悪げに挟もうとしたのですが、箸の先が触れれば虫も動き、同じように自分も動きながら手を震わせるといったありさまで、簡単にはつかまえられず、そのうち不意に虫が飛び立ったので、あれっと後ろに反らせた身体を起こしたところ、袖に煽られた行燈の灯がはたき消されました。
ひたすら申し訳ありませんとうろたえて、裾で畳を擦る音を立てながら暗闇のなかを慌てまわって、どこだかわからずに掻き回した手が姫のお袖に触れたことに冷や汗をかいて、
「すぐに、すぐに……」
と声を震わせています。隣室に控えていた女中が急いで持参した灯りにおどおどとした顔を照らされた腰元は、このまま消え入ってしまいたいとばかりに身をひれ伏せました。
姫はといえば、ただ微笑みながら見守っていらっしゃいます。そのご様子を不思議に思った女中が、どうされましたとうかがっても、ただ、
「灯を」
とおっしゃるだけで、ふたたび灯が点ると、また静かに書写を始められました。
騒ぎが収まったと見て、女中は去りました。しばらくしておそるおそる頭を上げた腰元は、
「おや」
と思わずつぶやきました。虫はまた、行燈の柱を這っています。
「あれあれ。嫌な、まあ嫌な虫だよ」
腰元が離れたところから袂を振って払いのけると、にわかに虫はたけり狂って、障子と言わず壁といわず、あちこちにドンとぶつかってはバサバサと飛び、くるりと跳ね、縦横にめまぐるしく、所狭しと暴れまわりました。先ほどから身動きもなさらずにいた姫の眉がキッと動いて、流星のようなおん目を見開き、虫の行方をサッとにらみつけなさいました。