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 姫はお寺でお育ちになったせいで、幼時から男の子のような勇ましい御気性であったにもかかわらず、一方で心優しいお気持ちもお持ちでした。

 梅雨空(つゆぞら)が晴れた、とある夕刻のことです。

 姫はお居間の障子を開き、欄干(らんかん)にもたれ伏して、庭の池をご覧になっていました。瓢箪(ひょうたん)の形をした池には石の()り橋がかかっています。橋の下のあたりには燕子花(かきつばた)が咲き乱れて、水ぎわにある築山(つきやま)には、(こけ)むした石灯籠(いしどうろう)があり、幹は低いけれども風情(ふぜい)よろしく枝の曲がった五葉松(ごようまつ)が傘のように差しかかる下に、躑躅(つつじ)の残り花がちらちらと咲いています。盛りを過ぎた山吹(やまぶき)七重(ななえ)八重(やえ)と重なって()しかかっている池の水は、雨上がりゆえに濁りぎみで、葉から(しずく)がぽたぽたと落ちるたびに、緋鯉(ひごい)などが驚いて跳ねています。

 空はところどころに晴れ間を見せながらも、そのまま夕映えもせずに暮れていき、室内にはもう灯りが点されたというのに、姫はまだお構いなしに池の(おもて)に見入っていらっしゃいます。本堂から聞こえてくる鐘の()が響き終わったそのとき、一尾(いちび)(こい)がパッと跳ねて、(うろこ)をキラリと輝かせながら一メートル近く飛びあがると、勢いあまって築山の(すそ)あたりの土の上に横たわりました。

「あれっ」

 と腰元が立ち上がります。

 姫は振り返って、

「放っておおき」

 とお声をおかけになりました。

「でも姫様(ひいさま)、はやく水の中に入れてあげませんと、姫様」

 慌てる腰元を尻目に、姫はごく落ちついたご様子で、

「自分の勝手ではないか」

 とおっしゃって、髪の毛一本動かさず、冷然としてご覧になっています。お心に背いたときはその後のご機嫌がよろしくないと知っている腰元は、鯉を助けてやりたいと思いながらも手が出せず、かわいそうにと思うばかりです。

 鯉は動かず、風もなく、音もなく、葉から落ちる(しずく)もまばらになって、水面(みなも)に広がる波紋が途切れたそのとき、庭一面に立ちこめた陰鬱(いんうつ)黄昏(たそがれ)の空気を突き動かすかのように、茶褐色(ちゃかっしょく)をした一頭の(いたち)が、細長い胴をうねらせながら近づくと、いきなり鯉に歯をかけました。それを目にしたとたん、姫はあっ、と叫び声を上げて、とっさに欄干(らんかん)から身を躍らせると、腰元が(きも)(つぶ)しているうちに、ざぶりと池に飛びこまれたのです。

 (いたち)を追いはらおうとなさったのでしょう。でも、あまりにも鼬が素速かったので、縁側に回って庭に下りるなどしている暇はないと、お慌てになったと思われます。腰元はあっけにとられて、まあ、なんてことにと、騒ぐばかりです。

 やがて声をあげて人を呼ぶと、あちらこちらで雪洞(ぼんぼり)の灯りが入り乱れ、路地には庭下駄の音がけたたましく響きます。お付きの女たちの紅の裳裾(もすそ)や白い(すね)が池のまわりに()せ参じたときには、(いたち)は去って、(こい)の姿も見えず、姫はびしょ濡れになって立ちつくしていらっしゃいました。

 多少は息づかいを激しくなさっているものの、普段と変わらぬご様子で平然となさっています。お付きの女たちはほっとして、姫の(おん)まわりを取り囲みました。

「まあ、おそばにお付き申していながら恐れ多いことをおさせ申して、万が一お怪我(けが)でも遊ばせましたらどうなさいます、あなた、とんでもない」

 と、年かさの女房にたしなめられ、気弱な腰元が涙ぐんで()びているのを、姫はおかしなことをとご覧になって、

「うっかりして。わたしが悪いの、お(しか)りにならないで」

 とおっしゃいます。腰元は姫の背をそっとつつむように抱くと、お居間に連れ戻り、頭髪(おぐし)を直しましょう、お着替えをしましょうとひとしきり騒いでから、思わぬ出来事で遅れてしまった夕食(ゆうげ)(ぜん)をご用意して差し上げました。ところが最初に出されたお膳に尾頭(おかしら)付きのお魚をご覧になった姫は、顔色を変えてみぶるいをなさいました。

 それからというもの姫は、魚のかたちをとどめているお料理には、(はし)もお付けにならないようになったのです。


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