二
二
姫はお寺でお育ちになったせいで、幼時から男の子のような勇ましい御気性であったにもかかわらず、一方で心優しいお気持ちもお持ちでした。
梅雨空が晴れた、とある夕刻のことです。
姫はお居間の障子を開き、欄干にもたれ伏して、庭の池をご覧になっていました。瓢箪の形をした池には石の反り橋がかかっています。橋の下のあたりには燕子花が咲き乱れて、水ぎわにある築山には、苔むした石灯籠があり、幹は低いけれども風情よろしく枝の曲がった五葉松が傘のように差しかかる下に、躑躅の残り花がちらちらと咲いています。盛りを過ぎた山吹が七重、八重と重なって伏しかかっている池の水は、雨上がりゆえに濁りぎみで、葉から雫がぽたぽたと落ちるたびに、緋鯉などが驚いて跳ねています。
空はところどころに晴れ間を見せながらも、そのまま夕映えもせずに暮れていき、室内にはもう灯りが点されたというのに、姫はまだお構いなしに池の面に見入っていらっしゃいます。本堂から聞こえてくる鐘の音が響き終わったそのとき、一尾の鯉がパッと跳ねて、鱗をキラリと輝かせながら一メートル近く飛びあがると、勢いあまって築山の裾あたりの土の上に横たわりました。
「あれっ」
と腰元が立ち上がります。
姫は振り返って、
「放っておおき」
とお声をおかけになりました。
「でも姫様、はやく水の中に入れてあげませんと、姫様」
慌てる腰元を尻目に、姫はごく落ちついたご様子で、
「自分の勝手ではないか」
とおっしゃって、髪の毛一本動かさず、冷然としてご覧になっています。お心に背いたときはその後のご機嫌がよろしくないと知っている腰元は、鯉を助けてやりたいと思いながらも手が出せず、かわいそうにと思うばかりです。
鯉は動かず、風もなく、音もなく、葉から落ちる雫もまばらになって、水面に広がる波紋が途切れたそのとき、庭一面に立ちこめた陰鬱な黄昏の空気を突き動かすかのように、茶褐色をした一頭の鼬が、細長い胴をうねらせながら近づくと、いきなり鯉に歯をかけました。それを目にしたとたん、姫はあっ、と叫び声を上げて、とっさに欄干から身を躍らせると、腰元が肝を潰しているうちに、ざぶりと池に飛びこまれたのです。
鼬を追いはらおうとなさったのでしょう。でも、あまりにも鼬が素速かったので、縁側に回って庭に下りるなどしている暇はないと、お慌てになったと思われます。腰元はあっけにとられて、まあ、なんてことにと、騒ぐばかりです。
やがて声をあげて人を呼ぶと、あちらこちらで雪洞の灯りが入り乱れ、路地には庭下駄の音がけたたましく響きます。お付きの女たちの紅の裳裾や白い脛が池のまわりに馳せ参じたときには、鼬は去って、鯉の姿も見えず、姫はびしょ濡れになって立ちつくしていらっしゃいました。
多少は息づかいを激しくなさっているものの、普段と変わらぬご様子で平然となさっています。お付きの女たちはほっとして、姫の御まわりを取り囲みました。
「まあ、おそばにお付き申していながら恐れ多いことをおさせ申して、万が一お怪我でも遊ばせましたらどうなさいます、あなた、とんでもない」
と、年かさの女房にたしなめられ、気弱な腰元が涙ぐんで詫びているのを、姫はおかしなことをとご覧になって、
「うっかりして。わたしが悪いの、お叱りにならないで」
とおっしゃいます。腰元は姫の背をそっとつつむように抱くと、お居間に連れ戻り、頭髪を直しましょう、お着替えをしましょうとひとしきり騒いでから、思わぬ出来事で遅れてしまった夕食の膳をご用意して差し上げました。ところが最初に出されたお膳に尾頭付きのお魚をご覧になった姫は、顔色を変えてみぶるいをなさいました。
それからというもの姫は、魚のかたちをとどめているお料理には、箸もお付けにならないようになったのです。