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「これはいったい……?」
ルシエンヌは室内のただならぬ様子に驚き、ぽつりと呟いた。
だがすぐに、これをレオルドに見せてはダメだと、腕の中の小さな顔を手で覆う。
「かあしゃま……?」
「レオルド、ひとまずお風呂に入りましょう。朝露で体が冷えているわ」
ルシエンヌの言葉にクレイグはすぐに従い、そのまま部屋を横切って二人を浴室へと連れていき、浴槽に魔法でお湯を貯めた。
そこでようやくクレイグはルシエンヌとレオルドを下ろした。
「大丈夫か?」
クレイグの問いは、たった今目にしたことへの問いか、一人で立てるかの問いかはわからなかったが、ルシエンヌはとにかく頷いた。
そして、レオルドをそっと立たせて同じように問いかける。
「レオルドは大丈夫?」
「だいじょぶです」
「では、一人で服も脱げるかしら?」
「できます!」
皇宮に戻った当初はレオルドの世話をできる限りルシエンヌがしていたので、入浴の際も服を脱がせていた。
それから一人でできると言い張るレオルドに任せ、時々助けるくらいだったので、今回も上手に一人でできている。
ルシエンヌはその姿を優しく見守り、ちらりとクレイグを窺った。
その視線に気づいて、クレイグは小さく頷き、レオルドに声をかける。
「レオルド、父様は少しやることがあるから、母様の言うことをちゃんと聞いて、しっかり体を温めるんだぞ?」
「はい、とうしゃま。だいじょぶです」
レオルドは先ほどの光景を見ていなかったようで、可愛らしく返事をした。
ルシエンヌもクレイグもほっと息を吐く。
本当はルシエンヌもどういうことか早く知りたかったが、ひとまずはクレイグに任せてレオルドの入浴の世話をした。
先ほどの光景――レオルドの部屋に入った途端に見たのは、ナミアがリテや新しい侍女たちに取り押さえられていたのだ。
以前からかすかに疑ってはいた。それが今回のことで確信に変わってはいた。
そのため、ナミアを拘束して問いたださなければと考えてはいたが、先にリテたちが動いていたことに驚いたのだった。
疑っていながらもクロディーヌたちを嫌がるレオルドが唯一心を許しているのだからと、処遇を先延ばしにしていたのはルシエンヌだ。
だがまさか、レオルドの身を危険にさらすことまでするとは思ってもいなかった。
それは間違いなく、ルシエンヌの甘さが招いた過ちである。
クレイグからアーメント侯爵やクロディーヌたちを泳がせている間、レオルドの安全を任されていたというのに。
最悪の結果になっていたかもしれないことに、こみ上げる吐き気と体の震えをどうにか堪え、ルシエンヌは微笑んだ。
「……レオルド、温かくなった?」
「はい!」
「じゃあ、こちらに手を伸ばして……えい!」
両手を上げるレオルドを抱き上げ、ふかふかのタオルに包む。
レオルドはきゃっきゃと喜び、その声を聞いてクレイグが浴室へと戻ってきた。
「レオルド、十分に温まったか?」
「はい!」
「よし。じゃあ、父様が乾かしてやろう」
濡れた髪を乾かすのはいつもナミアの仕事だった。
だが、父親に世話を焼かれることをレオルドは素直に喜び、ナミアがいないことを疑問には思わなかったようだ。
ルシエンヌがほっとしていると、クレイグはかすかに濡れていた服まで乾かしてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「これくらい、礼には及ばん。それよりも、ルシエンヌは大丈夫か? あの光はルシエンヌの魔法だろう? 魔力に乱れはないのか?」
「大丈夫です。先ほど、十分に休ませていただきましたから」
光魔法をかなり久しぶりに使ったわりには魔力の喪失を感じられなかった。
放った直後は脱力感に見舞われたものの、レオルドを連れて逃げるのに必死でどうにかなったが、今は魔力が回復しているように思う。
まさかレオルドの魔力を奪ってしまったのではと一瞬焦ったが、レオルドは変わらず元気だ。
ルシエンヌは何気なく答えたが、本当にクレイグに休ませてもらったからではと思えた。
防御魔法だと思ったあの温かな気は、クレイグの魔力だったのではないか。
ひょっとしてルシエンヌはクレイグに魔力を補充してもらったのではないかと思い、はっとして顔を上げた。
すると、悪戯っぽく微笑むクレイグと目が合う。
「アマンに、私も魔力操作の授業を受けていたんだ」
「魔力操作の……?」
「ああ。アマンほどではなくても、レオルドやルシエンヌの魔力の乱れを整えて補えるようになれないかと本気で修練した。私も家族を救いたい。見ているだけしかできないのは悔しいからな」
それがどういう意味か、理解したルシエンヌは驚き息をのんだ。
歴代最強クラスの魔術師と言われるクレイグだからこそ、アマンの家系だけの特別な力――他人の魔力に影響を及ぼすことのできる魔力操作を学ぶことができたのだろう。
やはり先ほどの温かな気はクレイグが魔力を補ってくれていたのだ。
その凄さに唖然とするルシエンヌに、クレイグはそっと耳を寄せて囁いた。
「あちらは、ひとまず落ち着いた」
「――ありがとうございます」
クレイグの言葉にはっとして、ルシエンヌは気持ちを切り替え頷いた。
何も言わずとも一番にレオルドのことを考え動いてくれるクレイグに、ルシエンヌの気持ちはさらに高まる。
この気持ちをもう抑えることはできそうにない。
それでも、今はやるべきことをやらなければと心を強くし、ルシエンヌはレオルドの母として、皇妃として行動した。
まずはお腹が空いているだろうレオルドに遅い朝食を食べさせ、午前の授業は臨時休講としてレオルドとゆっくりと過ごす。
本当はクレイグも参加したかったようだが、クロディーヌだけでなく、これを機会にアーメント侯爵など、トランジ王国と通じている者たちを拘束するために動かなければならなかった。
もちろん、現在訪問中のトランジ王国の使者たちへ問題の追及もしなければならないだろう。
ルシエンヌにもわかってはいたことだが、クロディーヌは最近になるまでアーメント侯爵の悪事に加担するどころか、知りもしなかったようだ。
純粋に自分がクレイグに選ばれ皇妃になると――少なくとも愛妾にはなれるのだと信じていたのだろう。
ルシエンヌはクロディーヌにかすかな同情心が湧いたが、それ以上にレオルドを傷つけようとしたことが許せなかった。
あのとき、もしレオルドの行方がわからず連れ去られていたらと考えるとぞっとする。
ぶるっと震えた自身を抱きしめ、ルシエンヌは眠るレオルドに目を向けた。
午前だけでなく午後の魔法技の授業も今日は休みにし、軽い昼食を食べたレオルドは早めの昼寝をしている。
やはり早起きしたせいか素直にベッドに入り、それほど時間を置かずにレオルドは眠りについたのだった。
ルシエンヌは大きく息を吐き出し、放置されたままになっていた絵本を手に取り、ぱらぱらと開いた。
昨日、レオルドはあれほど妖精の雫を気にかけていたのだから何らかの行動に移すことを考えておくべきだったのだ。
レオルドが今朝早く部屋から抜け出し、中庭に咲く白鐘花の許に向かうことができたのも、共犯者がいたからだった。
寝かしつけはいつもルシエンヌがするが、共犯者と――ナミアとレオルドが二人きりになる機会はいくらでもある。
いくらレオルドに保護魔法が施されていても、自分から部屋を抜け出したのでは魔法の発動はない。
ナミアがそこまで考えて計画したわけではないだろうことから、指示された通りにレオルドを上手く唆したのだろう。
(それでもレオルドを危険にさらすなんて……)
たとえクロディーヌに雇われたのだとしても、レオルドに注ぐ愛情は本物だと思っていた。
だからこそ、ルシエンヌの言動を曲解した悪辣な噂が流れても気づかないふりをしていたのだ。
その程度ならかまわないと思っていたから。
クロディーヌが中庭で口にしたレオルドとルシエンヌの魔力の関係性も、ナミアなら知り得たであろう情報である。
ナミアはどうにかしてルシエンヌたちの会話を盗み聞き、情報を隠れて渡していたのだろう。
他の使用人たちに見張らせてはいたが、ルシエンヌは己の判断の甘さを強く悔やんだのだった。
そして、レオルドが昼食を終えてかなりリラックスしたところで、ルシエンヌは確証を得るためにさり気なく訊き出したのだ。
すると、やはりナミアが『妖精の雫』を取りに行けばいいと励ましてくれたのだと言っていた。
レオルドは『妖精の雫』を集めて、母様と父様が物語のお姫様と王子様のように仲良くなればいいと願っていたらしい。
隠しているつもりでも、やはり両親のぎこちなさがレオルドには伝わっていたのだと知って、ルシエンヌは後悔した。
(クレイグはきちんと気持ちを打ち明け、何度も示してくれていたのに、自信が持てなかった私のせいだわ……)
ルシエンヌは自分が傷つくことばかりに気を取られて、一番大切なレオルドとクレイグを傷つけていたことに気づかなかった。
そんな愚かな自分が、クレイグの愛を受ける資格があるのだろうかと思いかけ、一人小さく首を振る。
また自分は逃げようとしている。
たとえクレイグの愛情を受ける資格がなくとも、今さら遅いと拒絶されたとしても、ルシエンヌは自分の気持ちを正直に打ち明けるべきなのだ。
胸に両手を当てて深く息を吸い込んだルシエンヌは、勇気をもらうように眠るレオルドにキスをしたのだった。




