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「……すみません。今度こそ、ちゃんと落ち着きました」
温かな腕の中からそっと抜け出し、俯いたまま囁くように言うルシエンヌの顔を、クレイグは片手を添えて上向かせた。
ルシエンヌは涙でぐしゃぐしゃになっているだろう顔を見せるのが恥ずかしくて、俯こうとしたがクレイグは許してくれない。
そして涙に濡れた頬を優しく撫でる。
「……クレイグ、ありがとうございます。でも、もう本当に大丈夫ですから」
「……わかった」
本当はこのままクレイグに甘えてしまいたい。
だが今は守らなければならない大切な存在――レオルドがいるのだ。
もちろん、レオルドだけではない。
この国を支えてくれている多くの民を守るためにも、ルシエンヌは強くならなければならないのだ。
クレイグにもその気持ちは伝わったのか、名残惜しそうにルシエンヌの頬から手を離した。
だが、やはりクレイグの手は再びルシエンヌの手を握る。
きっとクレイグはルシエンヌを慰め、励まそうとしてくれているのだろう。
その気持ちが嬉しく、ルシエンヌは思わず微笑んだ。
「クレイグ、私たちが守らなければならない人たちはレオルドだけではありません。だから、私にできることをするためにも、話してくれますか?」
「頼もしいな」
「はい。任せてください」
本当は不安でいっぱいだったが、レオルドやアマン、リテや多くの人を守るためなら戦える。
たとえそれが叔父と敵対することになっても、ルシエンヌは隠れるつもりはなかった。
そして、叔父であるアーメント侯爵のこと、不正を働き得た資金や希少な鉱石がトランジ王国へ流れていること、少しずつ隣国に侵食されていた内政問題についてなど、クレイグは多くのことを話してくれたのだった。
◇ ◇ ◇
翌日、クレイグは約束通り、昼食の時間にレオルドの部屋を訪れた。
レオルドは朝から楽しみにしており、クレイグが部屋へと入ってくると、ぱっと顔を輝かせる。
「とうしゃま!」
「レオルド、午前中の勉強は頑張ったか?」
「はい!」
父親へと嬉しそうに駆け寄る息子を見て、ルシエンヌは幼い頃の自分を思い出していた。
仲の良い両親に愛され育ち、自分も将来は同じような家庭を築くのだと夢見ていたのだ。
それがまさか……。
そこまで考え、ルシエンヌは慌てて嫌な記憶を振り払った。
両親の突然の死と、悲しみも冷めやらないままに始まった叔父家族との生活。
それらをなかったことにすることはできなくても、今このときから幸せを築くことはできる。
レオルドに同じような気持ちにさせないために、ルシエンヌは細心の注意を払うつもりだった。
(人の心はままならないものね……)
クレイグを信じると決めたのに、やはりどうしても自信を持ちきれない自分がいる。
レオルドに対する愛情は疑っていない。
駆け寄るレオルドを優しいまなざしで見つめ、抱き上げる姿を目にすれば誰もがそう思うだろう。
しかし、ルシエンヌへの愛情となると、途端に自信がなくなるのだ。
そのとき、クレイグと目が合い、ルシエンヌは思わず顔を背けてしまった。
「食事の用意をお願いしないと」
自分が不自然な態度を取っていることはわかっていたが、クレイグへの高まる想いが自分自身で怖かった。
ルシエンヌが必要のない指示をリテに出していると、ギギギと大きな音がして驚き振り向いた。
すると、クレイグの腕から下ろされたレオルドがいつもルシエンヌが座る椅子を動かしている。
「レオルド、どうしたの? 一人で動かしては危ないわ」
「ぼくは、もう、ひとりでたべれます。だから、かあしゃまはとうしゃまといっしょにたべてください」
どうやらレオルドは向かいに据えられたクレイグのための椅子とルシエンヌのものを引っつけようとしているらしい。
驚いてどう答えればいいかわからないルシエンヌに代わって、クレイグがそっと椅子に手をかけレオルドに声をかけた。
「レオルド、この椅子は元に戻そう」
「でも……」
「代わりに、あちらの椅子をこちらに持ってくれば、レオルドも一緒に食べられるだろう?」
クレイグは自身の椅子を指さして提案した。
途端にレオルドが「なるほど!」とばかりに満面の笑みを浮かべる。
「とうしゃま、すごいです」
「そうだろう?」
レオルドの誉め言葉にわざとらしく得意げに答え、クレイグは向かいに据えられた椅子をルシエンヌのものとは反対側に置いた。
「これで、父様はレオルドの隣に座れるし、母様の近くにも座れる。みんな一緒だな」
「はい!」
レオルドは両親に挟まれて座ることを心から喜んでいるようだった。
そんな姿を見て、ルシエンヌだけでなくリテや他の侍女たちもかすかに涙ぐみながら昼食の準備を進めていく。
クレイグはレオルドを椅子に座らせると、ルシエンヌの椅子を引いた。
「さあ、ルシエンヌも座って」
「――はい」
ルシエンヌはにっこり微笑んで席に座り、クレイグが自身の椅子に腰を下ろすのを見守った。
レオルドは両親に囲まれてニコニコしている。
その可愛らしい顔を見るだけで幸せな気持ちでいっぱいになり、クレイグの心遣いに感謝した。
「かあしゃま、ぼくはひとりでだいじょぶですから、とうしゃまにどうぞ」
いつものように料理を切り分けてレオルドに差し出そうとすると、そんなことを言われてルシエンヌは動きを止めた。
確かに、レオルドはルシエンヌが戻ってきた当初と違い、ずっと精神も安定していてわざわざ食事の介助をする必要がない。
二歳児とはいえ、レオルドは頭がいいだけでなくかなり器用で、たいていのことは一人でできる。
「とうしゃま、どうぞ」
「レオルド……」
そう言って、レオルドはわずかに背をのけぞらせた。
どうやら自分の前でルシエンヌが切り分けた料理を食べさせてもらえばいいと思っているようだ。
動揺するルシエンヌとは違って、クレイグは楽しそうに笑う。
その笑顔を見て、ルシエンヌは持っていたフォークを落としそうになった。
「ありがとう、レオルド。では、遠慮なく」
「え?」
クレイグはぐっと身を乗り出し、ルシエンヌに向けて口を開けた。
ルシエンヌは唖然としながらも、握り直したフォークをクレイグへと差し出す。
躊躇なくクレイグはルシエンヌの差し出した料理をぱくりと口にした。
呆気に取られてフォークを自分の皿へ戻したルシエンヌだったが、レオルドはさらに無茶な要求をする。
「じゃあ、つぎはとうしゃまがかあしゃまにどうぞ」
「レオルド――」
「わかった。では、ルシエンヌは何が食べたい?」
「クレイグ?」
本気なの? とルシエンヌは目で訴えたが、クレイグはまるで気づいていないようだった。
そして目の前の皿に視線を落とし、ルシエンヌの好物であるニンジンのグラッセをフォークで刺した。
「ルシエンヌはこれが好きだったよな?」
「……はい」
今までクレイグと食事をしたことはほとんどない。
食事をする機会があってもそれは公式の場であり、主人と女主人という立場で席は遠く離れ、食事中に会話をしたこともなかった。
ルシエンヌがニンジンのグラッセが好物だというのは、子どもの頃に一方的にしゃべっていた中で何気なく話題に出したのだ。
記憶にある限り、ニンジンのグラッセが好きだと言ったのは一度きりのはずである。
それなのに、クレイグが覚えていてくれたことにルシエンヌは感動した。
(昨夜、昔の会話も覚えていると言っていたのは、本当なんだわ……)
疑っていたわけでもないが、こうして目の当たりにすると、ルシエンヌは再び恥ずかしさがこみ上げてきた。
子どもの頃に何を話したのか自分ではあまり覚えていないのだが、かなり恥ずかしいことを言っていたような気もする。
「ルシエンヌ、遠慮なくどうぞ」
「かあしゃま、どうぞ」
差し出されたグラッセを見つめたまま動かないルシエンヌを、クレイグが促す。
レオルドも楽しそうに続き、ルシエンヌはさまざまな感情を抑えてぱくりとニンジンを口に入れた。
大好きなニンジンのグラッセも味がしない。
それでもどうにか噛んで飲み下すと、ルシエンヌはにっこり微笑んだ。
「それでは、お互いのお世話は終わりにして、自分で食べましょうか? レオルドが上手に食べられるか、父様に見せてあげないと」
「はーい」
これ以上は限界で、その気持ちを表に出さずにルシエンヌが言うと、レオルドは珍しく不満そうに返事をした。
ルシエンヌはちょっと驚きはしたが、レオルドが子どもらしさを出してくれたことが嬉しくもあり、注意することはなかった。




