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クレイグはいつもよりかなり早い時間に仕事を切り上げると、自室へと戻っていった。
その足取りは確かなものだったが、鼓動はうるさいくらいに速い。
本当にルシエンヌが皇妃の部屋に――隣室に戻ってきてくれているのか、準備を行っているという報告は受けてはいたが、自分の目で確かめるまでは信じられなかった。
もちろん、いきなり親密な関係を求めるつもりはない。――いつかそれが叶えばとは願っているが。
ただルシエンヌが傍にいてくれる、それだけで今のクレイグは満足だった。
(まあ、壁に隔たれてはいるが……少しくらいなら、寝る前に話ができるかもしれないしな)
レオルドの部屋ではなく、息子を介さず二人きりで話ができるかもしれないと思うと、クレイグの心は弾んだ。
今までずっと、自分が口下手だったせいで、ルシエンヌにつらい思いをさせていたのだ。
そのことについて謝罪をして、レオルドを命がけで産んでくれたことに感謝して、そして……愛を乞いたい。
優しいルシエンヌなら、はねつけられることはないだろう。
おそらく戸惑いながらも受け入れてくれるだろうこともわかっている。
そんな卑怯なことを考えていることに自嘲しつつ、クレイグは自室へ入った。
すぐに従僕が世話をしようとやってきたが、下がらせる。
クレイグがくつろいだ姿でルシエンヌの寝室を訪れれば、きっと警戒させるはずだ。
そこまで考えて、クレイグは執務中の姿のまま数年ぶりに、二人の寝室を繋ぐ扉へ手をかけた。
だがいきなり開けるのは愚策だと気づき、一度手を離すとぐっと右手を握り締め、おそるおそるノックをする。
クレイグが執務を切り上げるには早い時間だが、レオルドはとうに眠りについているはずで、ルシエンヌも皇妃の部屋に戻っている時間ではあるのだ。
ただ応答があるまで、クレイグはひょっとして寝室にルシエンヌはいないのではないか、そもそも隣室に戻っていないのではないかと不安に襲われた。
「――はい」
ルシエンヌのか細い声が聞こえ、クレイグは知らず強張っていた体から力を抜いた。
どっと汗が噴き出てくるのも感じる。
それは驚くほど短い時間であったはずなのに、ルシエンヌの応答を聞くまでは、おそろしいほど長い時間に感じられた。
「――ルシエンヌ、こんな時間にすまない」
勇気を出して扉を開けたクレイグは、緊張を隠して声をかけた。
ルシエンヌもまた緊張しているようで、顔色はあまりよくない。
「陛下、何か飲まれますか?」
「いや……ああ、そうだな。昨日のお茶をお願いできるだろうか?」
「もちろんです。しばらくお待ちください」
ルシエンヌは再びガウンの前を掛け合わせ、侍女を呼ぶためにベルを鳴らした。
寝室にいるのだから、寝支度をしているのは当然で、クレイグは先に訪問するつもりであることを伝えておくべきだったと内心で悔やんだ。
はっきりいって、厚手のガウンを着ていても、ルシエンヌの夜衣姿は魅力的である。
しかもここが寝室で、レオルドもいないとなると、クレイグはありったけの理性をかき集めて何でもないふうを装った。
「――陛下、おかけになってください」
「ああ、すまない」
寝室にある一人掛けのソファを勧められ、クレイグは腰を下ろした。
ルシエンヌはやって来たリテにお茶を淹れるよう指示してから、その向かいに座る。
三年前までは、このテーブルの距離など何でもないようにルシエンヌに触れることができたのだと思うと、再びクレイグを強い後悔が襲った。
あの頃は、ルシエンヌが妃になったことで満足して、その気持ちまで思い遣ることもなかった。
内政改革に気を取られ、懐妊がわかってから体調が悪く会えないという言葉も鵜呑みにし、さらには主治医であるアマンとの噂に腹を立てて歩み寄ることも、体調を気遣うこともしなかったのだ。
それがクレイグの怠惰な罪と明らかになっても、ルシエンヌにどう償うべきかもわからないでいる。
「その、こんな夜更けにすまない。ただ、もっとしっかり話をしたくて……」
「正直なところ、陛下にはお休みされてはと言いたいところではありますが、昨日よりはお顔の色もよいようですね」
ろくな言葉も出ないクレイグに、ルシエンヌは優しい言葉をかけてくれる。
しかもその顔には慈愛に満ちた笑みが浮かんでおり、クレイグの心は躍った。
ルシエンヌは誰にでも優しいのだとわかっていはいるが、期待せずにはいられなかった。
「……改めて、レオルドを産んでくれたことに、感謝したい。素晴らしい子を産んでくれて、本当にありがとう」
「そのような……」
そう言ってクレイグが頭を下げると、ルシエンヌはうろたえたようだ。
そこにリテがお茶を用意して入ってきたが、クレイグは頭を上げなかった。
リテがかなり驚いている気配が伝わってくる。
「陛下、どうか頭を上げてください。私は感謝されるようなことは何も……私のほうこそ、素晴らしい子を授けてくださったのですから――」
「いや、それは違う」
慌てるルシエンヌの言葉に、クレイグはゆっくり頭を上げた。
同時に、お茶の用意を終えたリテが急いで寝室を出ていく。
続く言葉を素早く遮ったクレイグは立ち上がり、ルシエンヌの傍に近づきその足元に膝をついた。
「陛下……」
「アマンからそなたがどれほど苦しんでいたか、話を聞いた。だが、そなたから口止めされているからと、すべてを語ってはくれなかった」
「アマンは大げさなんです」
今までになく動揺するルシエンヌの手を握り、許しを請うようにクレイグは打ち明けた。
アマンの話にルシエンヌは何でもないことのように笑ったが、それが偽りであることはクレイグにもわかる。
ルシエンヌの笑顔は子どもの頃から何度も見ているのだ。
しかし、ここ数年はほとんど見ることができなかった。
それが己の怠慢のせいだともわかっている。
「とにかく、どうか座ってください。皇帝陛下が膝をつかれるなど、あってはなりません」
「確かに私は皇帝ではあるが、ただ一人の人間であり、あなたの夫なんだ」
ルシエンヌの言うことがもっともであることもまたわかっていたが、クレイグはつい弱音を口にしてしまった。
すると、ルシエンヌははっと息をのみ、その大きな目でクレイグを見下ろしたのだった。




