37
その日の夜。
レオルドを寝かしつけ、ルシエンヌもそろそろ寝ようとしていた頃、リテからクレイグの訪問を不安そうに告げられた。
「陛下が?」
「はい。どうしても、ルシエンヌ様にお会いしたいと……」
すでに寝衣に着替えていたルシエンヌは、ためらったものの厚手のガウンを着て居間へと向かった。
今さら恥じらっても無駄だと思ったのだ。
礼儀についてはこの時間に訪問してくるクレイグのほうが失礼ではあるので、かまわなかった。
「陛下、いかがされました?」
ルシエンヌが居間に入ると、壁にかかったレオルドが描いた絵を見ていたクレイグは素早く振り返った。
その顔に怒りは見えない。
てっきりクロディーヌがまたあることないこと吹き込んだのかと思ったが違うらしい。
クレイグはルシエンヌの問いに答えることなく、その姿をじっと見つめる。
しばらく沈黙が続き、ルシエンヌが無意識にガウンの前を掻き合わせると、クレイグははっとしたように何度か瞬いた。
「いや……こんな時間にすまない。ただ……」
クレイグにしては珍しく居心地悪そうで、ルシエンヌは不思議に思った。
こんな常識外れの時間にやってきていながら、何かを言い淀んでいるようだ。
「何か火急の要件というわけではないのですか?」
「……すまない」
「いえ、それはかまいませんが……」
急ぎの用事でもないのなら、いったい何だろうとルシエンヌはますます疑問に思った。
とにかく席を勧め、リテにハーブ茶を頼む。
就寝前の自分のためというより、クレイグがかなり疲れて見えたからだった。
「陛下、かなりお疲れなのではないですか? 少しでもお休みされたほうが……」
昼間に会ったときより、酷く顔色が悪い。
心配するルシエンヌをクレイグは再びじっと見つめ、それからため息を吐いた。
「陛下?」
「……クロディーヌから話は聞いた」
「そうですか……」
今度はどんなことを吹き込まれたのだろうと半ば呆れつつ、ルシエンヌは答えた。
クロディーヌとは何を話そうと、もう好きなように解釈して嘘と真実を上手く組み込み話を広めるのだ。
クレイグが怒ってはなくても、この時間に訪ねてくるほど気がかりな話を聞いたのだろう。
ルシエンヌは緊張しつつ待った。
「そなたは……私のことは、どうでもいいと言ったらしいな?」
「はい?」
一瞬、意味がわからなかったルシエンヌだが、すぐにその言葉に思い当たった。
ルシエンヌはゆっくり首を横に振る。
「そのようには言っておりません。正確には、クロディーヌに『陛下のことはどうでもいいの?』と問われたとき、大声を出されたのでレオルドを起こさないために注意したので、その質問に答えなかっただけです」
「……では、今答えてくれないか?」
「はい?」
冷静に説明したルシエンヌに、クレイグは落ち着かなげな様子で促した。
予想外の言葉に驚きつつも、ルシエンヌは何と答えるべきか考えた。
何が正解なのかはわからない。
それでも今のクレイグは、ルシエンヌがどう答えたとしてもレオルドから引き離したりはしないとの確信は不思議とあった。
「陛下のことを、どうでもいいとは考えておりません。今のようにお顔の色が悪いと心配になりますし、何か私で力になれることがあるのなら、遠慮せずにおっしゃってほしいとは思います」
「それなら……」
そこまで言い、クレイグは寝室のほうへと視線を向けた。
つられてルシエンヌもそちらを見る。
レオルドが起きた気配はない。
「レオルドは、かなり落ち着いてきたと思う」
「ええ、そうですね」
「それなら、今のようにべったり傍にいなくてもいいのではないか?」
「……私に、レオルドから離れろとおっしゃっているのですか?」
クロディーヌがよほどの嘘を――ルシエンヌがレオルドを利用しているだけなどと吹き込んだのだろうかと、ルシエンヌは小さく震える手を握りしめて問いかけた。
またレオルドと離れ離れになるのかと恐れるルシエンヌに、クレイグは慌てて否定する。
「そうではない! そうではなく……」
思わず大きな声を出してしまったことで、クレイグは再び寝室のほうを見て気配を探りつつ、小声で繰り返す。
レオルドが起きた気配がしないのは、あのときのようにクレイグが怒りの魔力を発しているわけではないからだろう。
むしろ、ルシエンヌにはクレイグの魔力が弱々しいものに感じられて、訝しげに眉を寄せた。
「陛下、やはりお疲れなのでしょう? 医師を――アマンを呼びましょうか?」
魔力を整えてもらえば、多少の疲労は回復する。
最近はルシエンヌもレオルドもアマンに頼ることは少なくなったので、お願いできるはずだ。
そう考えて提案したのだが、クレイグは黙って首を横に振った。
「大丈夫だ。私が疲れているとすれば……最近、あまり眠れないからだろう」
「それなら――」
やはりアマンに診てもらうか、すぐにでも寝るべきではないかと言いかけたルシエンヌの言葉を、クレイグが片手を上げて制する。
そのまま口を閉ざしたルシエンヌの目をまっすぐに見つめ、クレイグは一度大きく深呼吸をしてから一気に告げた。
「皇妃の部屋に戻ってほしい」
「はい?」
「今夜は無理でも、明日から……せめて夜だけでも皇妃の部屋で過ごしてほしいんだ」
ルシエンヌは信じられない思いでクレイグを見つめ返した。
夜だけでも、というのは夫婦としての義務を果たせということなのだろうかと思う。
まるでその考えを読んだかのように、クレイグは強く否定した。
「違う。私は――私は、あなたが望まぬのなら、触れたりはしない。ただ……隣の部屋で眠ってほしいだけだ」
今度は大きな声を出すことなく、クレイグはまるですがるような切実な様子で告げた。
ルシエンヌは夢を見ているのかと思ったが、握りしめたままの手に爪が食い込む痛みで現実だと知る。
「ですが……陛下は、クロディーヌと……クロディーヌは?」
クロディーヌから話を聞いてやってきたというのは、ひょっとしてルシエンヌの存在で二人の仲に亀裂が入ったのかもしれない。
ルシエンヌはぼんやり考え、意味をなさない言葉で問いかけていた。
しかし、クレイグはきっぱり答える。
「世間がどう噂しようと、私とクロディーヌの間には何もない。あなたが皇妃の部屋に戻ることと、クロディーヌは何の関係もないんだ。今の彼女は――いや、私はただ、あなたに――ルシエンヌに戻ってきてほしいだけだ」
クレイグの告白に、ルシエンヌは言葉を失った。
クロディーヌとの間に何もない、というクレイグの言葉に嘘はないとわかる。
世間の噂がまったく当てにならないこともよく知っている。
だが今は、クロディーヌとの仲よりも何よりも、クレイグがルシエンヌに戻ってきてほしいと望んでいることに驚き答えることができなかった。
「やはり今さら無理な願いだろうか?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
不安そうなクレイグの言葉に、ルシエンヌは急ぎ否定した。
こんなに自信のなさそうなクレイグを初めて見る。
「その……やはり今日はさすがに、レオルドが驚くでしょうから、きちんと話をして大丈夫そうなら明日からでも……」
「わかった。明日だな。ありがとう、ルシエンヌ」
深く考えることを放棄したルシエンヌの答えを聞いて、クレイグは途端に嬉しそうな笑みを浮かべた。
その笑顔にルシエンヌはまた言葉を失った。
今まで何度も羨ましいと思っていたクロディーヌに向けられる微笑み。
それらがすべてかすんでしまうほどの笑顔に、ルシエンヌの胸がぎゅっと苦しくなる。
(どうしてクレイグは……)
ルシエンヌが皇妃の部屋で寝起きするというだけで、これほどに喜んでくれるのだろうとの疑問が期待に変わっていく。
昼間の言葉からは世間体のためだと思っていた。
それはひょっとして違うのではないか、クレイグはルシエンヌのことを想ってくれているのではないかと希望を持ってしまう。
これでは消えたと思っていたクレイグへの気持ちが――恋心に火が灯ってしまうではないか。
「それでは、今夜は遅い時間に悪かった。それでは、これで失礼する」
「え、あ、はい」
クレイグが立ち上がったことで我に返ったルシエンヌは、きちんと見送ることもできずその場で立ち上がっただけだった。
扉が静かに閉まる音で、リテが心配そうに居間へと顔を覗かせる。
「ルシエンヌ様、大丈夫でしたか?」
「ええ……大丈夫。でも……」
喜びと戸惑いにざわつく心を鎮めるようにルシエンヌは胸を押さえた。
その仕草を誤解したのか、リテが慌てて駆け寄る。
そんなリテをルシエンヌは思わず抱きしめて驚かせる。
「ルシエンヌ様?」
「ごめんなさい、リテ。ただ……レオルドのことは今のようにベッタリではダメだとわかっているの。でも離れるのは寂しくて。それに陛下には期待してはダメだともわかっているのに……どうしたらいいの?」
「難しいですね……。心は自分のものでも自由になりませんから」
リテはそう答えると、ルシエンヌを抱きしめ返してその背を優しく撫でる。
明日からのことなど、準備しなければならないことはたくさんあり、またレオルドにもどう伝えるか考えなければならない。
それでも今は、幼い頃からずっと傍にいてくれたリテに、ルシエンヌは甘えたのだった。




