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「――まさか、レオルドに気を遣ってもらうとはな……」
「はい?」
二人きりになってわずかばかり沈黙が流れたが、クレイグがにこやかに話し始めたことでルシエンヌははっと顔を上げた。
途端に、優しいまなざしにぶつかる。
先ほど目が合ったときもそうだが、こんなに優しく見つめられたことなどなく、ルシエンヌは再び心臓が跳ね、鼓動が速くなった。
「あの、陛下……」
「クレイグと呼んでくれないか?」
「で、ですが……」
「昔はそう呼んでくれていただろう?」
懐かしむような穏やかな声でそう言われて、ルシエンヌは思わず了承しそうになった。
だが、すぐに思い直す。
これだけ優しくされ、名前呼びまでしてしまったら、諦めた恋心がまた育ってしまう。
一定の距離を保っていなければ、苦しむのは自分だけでなくレオルドも巻き込んでしまうと言い聞かせ、小さく深呼吸してルシエンヌは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがたいお言葉ですが……昔とは違いますので遠慮させてください」
「昔と違うとは、何が違うのだ?」
「お互いの立場です」
「皇帝と皇妃という立場か?」
「――はい」
それだけではない。
クレイグにはクロディーヌという愛する人がいる。
魔力量の問題で、妃にはルシエンヌが選ばれたが、本来ならクロディーヌを妃として迎えたかったはずなのだ。
それなのに、レオルドがルシエンヌを母として慕い懐いているがために、このような時間を過ごさなければならないのだろう。
この時間さえも、クレイグはクロディーヌと過ごしたいかもしれないのに。
世間の噂とは違って、レオルドはクロディーヌを嫌っていた。
ルシエンヌがレオルドの部屋を初めて訪れたときに言っていた「あの怖い人」というのがクロディーヌのことだと、はっきり確かめたわけではなかったが今では確信がある。
おそらくクレイグもそれを察していて、ルシエンヌと離縁してクロディーヌと再婚することを選ばなかったのだ。
そこまでルシエンヌは自分で考えていながらも落ち込んだ。
再び沈黙が落ちたが、今度はかなり気まずいものだった。
「……そなたが妃としての立場を考えているのなら、また皇妃の部屋に戻ってくる気はあるのか?」
「それは……」
「いつまでも、ここにいるわけにはいかないだろう?」
沈黙を破ったのはやはりクレイグだったが、その言葉はルシエンヌに冷たく突き刺さった。
クレイグの言うことは間違ってはいない。
実際に今だって、いつまでもレオルドの部屋で寝起きするルシエンヌのことをあれこれ噂している者は多い。
ルシエンヌが皇妃の部屋に戻ることをクレイグが拒否しているのだとか、殿下を理由にルシエンヌが皇宮に居座っているのだとか。
さらには、ルシエンヌがいる以上はレオルドに会うことのできないクロディーヌに同情する声も多かった。
「……陛下が、お許しくださるなら、もうしばらく後に部屋へ戻ります」
「そうしてくれ」
ルシエンヌがおそるおそる答えると、クレイグは冷ややかに返事をした。
冷ややかだと思ったのはルシエンヌの被害妄想かもしれないが、クレイグを見て確認する勇気はなかった。
端正なクレイグの顔がいつもの無表情に戻っていたら耐えられそうにない。
それどころか、呆れや怒りが見えたなら、立ち直れそうになかった。
(やっぱり、私はどこかで期待していたみたい……)
クレイグに皇妃として部屋に戻ってほしいと言われたなら、まだ希望を持てたかもしれない。
だが今のは単なる意思確認だ。
ルシエンヌは今までの経験からどうしてもクレイグに対して前向きになれなかった。
このままレオルドが起きてくるまで地獄のような時間を過ごさなければならないのかと、ルシエンヌが絶望しかけたとき、遠慮がちにクレイグの秘書官の一人が入ってきた。
どうやら急を要する事案が持ち上がったらしい。
クレイグは秘書官と扉付近で小声で話していたが、その間もちらちらルシエンヌに視線を向けていた。
ルシエンヌはこれ幸いとばかりに、立ち上がってクレイグの傍へと近づき申し出る。
「陛下、レオルドのことはお任せください。残念がりはするでしょうが、あの子なら理解はしてくれます。ですから、その分また埋め合わせてくださいませ」
「……わかった。すまないが、レオルドを頼む」
「かしこまりました」
ルシエンヌの申し出にクレイグはわずかに逡巡したが、結局は受け入れた。
クレイグがレオルドを大切にしていることはもう十分わかっている。
そんなレオルドとの約束を破ることになるのは、それほどの事態なのだろう。
決して、この気まずい時間から逃れるためではないことは、ルシエンヌも二人のやり取りを見ていて理解できた。
名残惜しそうに出ていくクレイグを見送り、ルシエンヌはほっと息を吐いて長椅子へと腰を下ろした。
ここ最近はクレイグと一緒に過ごしても楽しいと思うことが多かったが、久しぶりに居心地の悪さを感じてしまったせいか、体からどっと力が抜ける。
それでも魔力の乱れは感じないことから、単に緊張していただけなのだ。
レオルドは父母に仲良くしてほしくて、気を利かせてくれたのだろう。
それを思うと申し訳なく感じるが、やはりクレイグとは一定の距離が必要だと改めて感じた。
そのとき、再び扉をノックする音が響く。
今の時間はレオルドのお昼寝の時間であり、訪問者を衛兵が許したことに驚きつつ、侍女が応対するのを見守った。
いったい誰なのか、ひょっとしてクレイグから緊急の報せだろうかと心配したルシエンヌに告げられたのは、クロディーヌの訪問であった。