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ルシエンヌはかなり困惑していた。
正直なところ、世界が変わってしまったのではないかと疑うくらいだった。
なぜなら、レオルドの魔力暴走事件から回復した途端、頻繁にクレイグが会いに来るのだが、その様子があまりに別人だったからだ。
レオルドと一緒に過ごす時間に同席していると、常に微笑みを浮かべている。
ルシエンヌに対しても体調はどうか、皇宮で暮らすにあたって不便はないかなど、何かと気にかけてくれるのだ。
いったい何があったのかと、ルシエンヌはここ最近のことを思い浮かべてみた。
ルシエンヌは目が覚めてからしばらくは、のんびりベッドで過ごしながら、レオルドとのわずかばかりの時間を楽しんでいた。
クレイグが面会を希望していることは知っていたが、やはり体調が――魔力がもう少し落ち着くまでは無理だとアマンの指示で断っていたのだ。
実際、ルシエンヌもクレイグと顔を合わせる心構えがまだできていなかったので、アマンの判断には感謝していた。
(きっとクレイグは罪悪感があるんだわ……)
自分の怒りのせいで周囲に影響を及ぼすほどの魔力を発してしまったことで、ルシエンヌの魔力まで乱し、さらにはレオルドが魔力を暴走させてしまった。
昔からクレイグは冷たいと思われがちだが、あまり感情を表に出さないだけで、実は誠実で律儀な性格なのだ。
だからこそ、クロディーヌと恋仲であろうと、神殿が選んだ妃のルシエンヌを蔑ろにすることなく、自身も義務を果たしてくれた。
(まあ、蔑ろにされはしなかったけれど、義務以外では放置されていたわよね……)
過去の結婚生活を思い出し、ルシエンヌは苦笑した。
それでもクレイグがしっかり夫として、皇帝としての義務を果たしてくれたおかげで、レオルドを授かることができたのだ。
それだけで、クレイグのことはすべて許せる気がした。
だが、レオルドの魔力暴走事件からひと月過ぎても、クレイグはルシエンヌに会いたがった。
それまでにもクレイグはレオルドに会いにきていたのだが、ルシエンヌは顔を合わせる勇気がなく、その時間はまるで隠れるように寝室から出ることはなかった。
(まるで臆病者ね……)
いい加減、クレイグとも向き合わなければならない。
頭ではわかっているのだが、もしレオルドと一緒に過ごすどころか会うことさえ禁じると言われたら――そう思うと怖かった。
そう思っていたのに――。
ベッドから出て、レオルドと一緒に食事をとれるくらいに回復してから、もう逃げるのはやめようと覚悟を決めてクレイグとの面会を受けたルシエンヌは驚くことになった。
クレイグはルシエンヌと会うなり頭を下げたのだ。
「――申し訳なかった」
「……え?」
「今までの私の言動、すべての謝罪にこんな言葉だけで足りないのはわかっている。だが、これからできれば償いをさせてくれないか?」
「償い?」
「ああ。私がこれまでにあなたを傷つけてきたことは消せない。だが、少しでもその傷を癒すことができるなら言ってほしい。ただ……」
「ただ?」
ルシエンヌは唖然としたままクレイグの言葉をただ繰り返すしかできなかった。
しかし、クレイグの言う「償い」に条件があるらしいと気づいて身構える。
ひょっとしてクロディーヌとの仲は認めてほしいと言われるのではないかと思ったのだ。
「二度と顔を見せるなということだけは申し訳ないができない。これからはレオルドの親として、協力できればと思っている」
ところが、提示された条件は思いがけないもので、何よりレオルドの親として協力したいというだけ。
それなら受けない理由などない。
ルシエンヌはようやく動き出した頭で結論を出し、大きく頷いた。
「もちろんです。陛下と一緒にレオルドを育てることができるのなら、これ以上頼もしくも嬉しいことはありません。レオルドもきっと喜びます」
なかなか上手く答えられたなと密かに思いながら、ルシエンヌは微笑んだ。
笑顔もおそらく自然に見えるはずだ。
それなのに、クレイグは心なしか先ほどまでの勢いをなくし、弱々しく微笑んだ。
「……ありがとう、ルシエンヌ」
おそらくクレイグは無理やり作り笑いをしたのだろうとルシエンヌは結論付けた。
クロディーヌへの微笑みは口角を上げただけでも優しく見えたのだからと、考えて胸が痛む。
だがそれも、過去の思い出――クレイグを好きだった頃の気持ちを思い出したからだろう。
ルシエンヌは強引に胸の痛みを覆い隠し、ひとまずレオルドのための協定だと――仲直りだと、それ以来クレイグの面会を断ることはなかった。
ところが、クレイグがレオルドに会いにくるのはせいぜい十日に一度ほどだと聞いていたのに、毎日短時間でもやって来るようになっていた。
クレイグが忙しいのは間違いない。
即位してから次々と新しい政策を打ち出しているクレイグに反発する貴族たちも少なくなく、難儀しているものもあると聞いた。
「――陛下、あの、毎日会いにきてくださって、レオルドはとても喜んでおりますが、お時間は大丈夫なのですか?」
「心配ない。家族を大切にできぬのに、国を大切にはできぬだろう?」
「そう、ですね……」
もっともなことを言われて、ルシエンヌは頷くしかなかった。
こんなにレオルドのために時間を使っていては、クロディーヌとの時間は持てないだろう。
夜も毎日かなり遅くまで執務室に詰めていると聞いた。
そのため、クレイグの秘書官は人数が増やされ、交代制になったとも。
しかし、秘書官の代わりはいても、皇帝であるクレイグの代わりはいない。
本当に大丈夫なのか心配になったルシエンヌは、あえて見ないようにしていたクレイグをこっそり盗み見た。
噂が本当なら睡眠時間はごくわずかのはずである。
だが、疲れた様子もなく顔色もすこぶるよい。
ルシエンヌが回復して久しぶりにクレイグと面会したときのほうが、よほど顔色が悪かった。
それどころか、全身から疲労が滲み出ていたのだが、今は生命力に満ち溢れているようだ。
おそらく魔力が充足しているのだろう。
(ここ最近、魔力が乱れるような事件は起きていないし、何よりレオルドも安定しているからかしら……)
レオルドに魔力酔いの症状が出ないため、魔力を安定させるためにクレイグが魔力を使う必要もない。
クレイグほど膨大な魔力を持っていても、精神的に安定さえしていれば体調を崩すことも魔力を暴走させることもないのだ。
「ぼくは、かあしゃまととうしゃまがそばにいてくれて、まいにちうれしいです」
レオルドの声にはっとして、ルシエンヌは慌てた。
愛する息子と一緒に過ごしているというのに、クレイグに気を取られすぎていた。
ルシエンヌはレオルドを抱き寄せて、ぎゅっと力を入れる。
途端にレオルドは嬉しそうな悲鳴を上げた。
「私も嬉しいわ。毎日こうしてみんなで一緒に遊べるのだもの」
本音を口にして、ルシエンヌがちらりとクレイグを見れば、優しく微笑んでいた。
それは今まで一度も――クロディーヌと一緒のときでも見たことがないほどの笑顔で、ルシエンヌは思わずクレイグを見つめた。
クレイグもまた見つめ返し、さらに笑みを深めた。
どきりと大きく心臓が跳ねる。
ルシエンヌは急ぎクレイグから目を離し、腕の中のレオルドを見下ろした。
すると、レオルドが二歳児らしくない訳知り顔でにっこり笑う。
「ぼくはもうおひるねします。きょうはナミアといっしょにねるので、かあしゃまはここにとうしゃまといてください」
「え?」
「とうしゃまはかあしゃまがさびしくないようになかよくです」
「レオルド――」
「わかった。ありがとう、レオルド」
ルシエンヌはクレイグは忙しいのだと言おうとして、クレイグ自身に遮られてしまった。
それでいいのかと、ルシエンヌが心配して視線を向けても、クレイグは何の問題もないようにレオルドにおやすみの挨拶をしている。
ルシエンヌも仕方なく、控えていたナミアにレオルドを託し、寝室に入っていく姿を見送るしかなかったのだった。