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「……かあしゃまはいまは、ねています」
部屋に二人きりになると、レオルドがぽつりと呟いた。
心の内を見透かされたようでクレイグは驚いたが、小さく頷いて答える。
「そうか。では、起こさないように静かに遊ばなければならないな」
「とうしゃまがあそぶですか?」
今までレオルドに会いにくることはあっても、一緒に遊んだことはない。――庭へ数回出かけたことを除けばだが。
ただ顔を見て、魔力に乱れはないかなど確認する程度だった。
また〝魔力酔い〟が発症したときには、できる限りその手を握って魔力を整える助けをしたが、レオルドはあまり覚えていないかもしれない。
そのことを考えれば、レオルドにとって父親と遊ぶということは驚きなのだろう。
「できれば、これからはレオルドともっと一緒に過ごしたいと思っている。
「……かあしゃまともですか?」
「――ああ」
クレイグの言葉に、レオルドはわずかに警戒心を滲ませ、寝室のほうにちらりと視線を向けた。
二歳児らしくない仕草だが、レオルドは母親であるルシエンヌを守ろうとしているのだ。
生まれたときから一緒に暮らした――とまでは言えないかもしれないが、顔を見せていた父親よりも、わずかひと月ほど傍にいた母親のほうがいいのかと思うとショックだった。
しかし、そんな自分に驚きもある。
レオルドは少し考え、それから手に持っていた人形をクレイグに差し出した。
「これをかしてあげます。かあしゃまがぼくにくれた、たからものです」
「宝物を貸してくれるのか?」
「とうしゃまは、きっとこわいから」
「怖い? 私がか?」
「とうしゃまはときどきこわいです。でもいまは、とうしゃまがこわがってます」
鋭いレオルドの指摘に、クレイグは言葉を失った。
確かに、今のクレイグは心の片隅に恐怖を抱えている。
それはこの先、ルシエンヌが完全に回復しなかったらという恐怖。ルシエンヌから拒絶されてしまうのではないかという恐怖。
それ以外に、自分の知らないところで何かが起こっているような、そのことに気づけないでいる恐怖だった。
「ルシエンヌは――母様は大丈夫なのだろう?」
「はい。ねてるじかんはおおいですが、おきたらすこしだけだきしめてくれます」
レオルドに短時間でも触れることができるようになったのなら、かなり回復しているのだろう。
報告ではなくレオルドから直接話を聞いたクレイグは、改めて安堵した。
「かあしゃまは……ぼくのためにしぬかもしれまてんでした」
「何だって?」
レオルドに貸してもらった人形を持ち、これでどう遊ぶのだと考えていたクレイグは耳にした言葉に驚き訊き返した。
クレイグの口調はきつかったが、レオルドに怯んだ様子はない。
「それは……私のせいか?」
あのときクレイグが怒りをぶつけなければ、レオルドが魔力を暴走させることもなかった。
その後悔が再び押し寄せてきたが、レオルドは小さく首を横に振る。
「かあしゃまは、いつもぼくをゆうせんさせてくれるのです。ぼくがおなかにいるときから」
その言葉には、さすがにクレイグも動揺を表に出してしまった。
まるでレオルドはルシエンヌの妊娠中――お腹にいるときからの記憶があるようだ。
レオルドは唖然とするクレイグを、幼い顔に不釣り合いな真剣な表情で見返した。
「おもいだしたです。このまえねつをだしたときに」
「ルシエンヌのお腹にいたときのことをか?」
「はい。ぼく、みみはよくきこえてましたから。それに、かあしゃまのちからをいっぱいもらうのは、いやだなっておもってたです」
「……」
何か答えなければと思うのに、クレイグは何の言葉も思い浮かばなかった。
妊娠がわかったと報告されたとき、かなり顔色が悪かったことは覚えている。
周囲からは妊娠中に母親の体調が悪くなることはよくあるので気にする必要なはいと言い含められていた。
むしろ精神的に安定しないので、下手に刺激しないほうがいいとも。
さらには、クロディーヌからルシエンヌは大丈夫だと、妊婦によくある症状らしいと聞いて信じていた。
「とうしゃまは、いちどもあいにきてくれませんでした」
「それは……」
言い訳しようとして、クレイグはすぐに口を閉ざした。
だが、レオルドはまるで大人のような仕草でわかっているとでも言うように頷く。
「かあしゃまはこわかったです。ぼくがうまれないこと、とうしゃまがのぞむかもって」
「馬鹿な! そんなこと望むわけないだろう?」
思わず声を荒げたクレイグは、すぐに声を落として続けた。
ルシエンヌを起こしてはダメだと思ったのだが、寝室にいる三人の気配は静かなままだ。
ひょっとして、アマンも侍女のリテも疲れて眠っているのかもしれない。
「アマンはこのままだと、ぼくが……かあしゃまのちからをぜんぶうばってしまうとしんぱいしてました。だからあきらめたほうがいいと」
「……それをルシエンヌは拒否したのか?」
「はい。ぼくはそれでもよかったのに。かあしゃまはぜったいにいやだと。だからぼくは、かあしゃまのちからをもらわないようにがんばりまちた。でもうまくできなくて、でもアマンがたすけてくれました」
「そうか……」
ルシエンヌが妊娠中に命の危機にあったこと、子どもを――レオルドを諦めることを勧められていたことも、何もかも知らなかった。知ろうともしなかった自分に吐き気がこみ上げてくる。
それでもクレイグは知らなければと、幼い息子の言葉に耳を傾けた。
わずかに、レオルドにこんなことを話させてもいいものかと迷ったが、おそらくレオルドも口に出してしまいたいのだろう。
レオルドもつらい経験をしたのだ。
誰かに話し、気持ちを共有することでレオルドが少しでも楽になれるなら、クレイグはいくらでも力になりたかった。
それがたとえ、クレイグにとってつらく後悔に苛まれることになっても。
「かあしゃまは、ぼくをこころからのぞんでくれました。でも……」
「うん?」
「クロディーヌがやってきていじめたんです」
「クロディーヌだけか?」
何度か見舞っていたクロディーヌが、ルシエンヌに何かしら仕掛けていても、もう驚きはなかった。
それよりも、他にルシエンヌに対して害を為した者がいるのなら知りたくて、クレイグは優しく促した。
「クロディーヌはひどいことをいいました。かあしゃまに、『こをなすためだけのけっこん』だとか、『へいかはほんとうはわたしをあいしてる』とか――」
「馬鹿馬鹿しい。そんなことはあり得ない。だが……ルシエンヌはそれで傷ついてしまったんだろう。私がきちんと言葉にしなかったばかりに……」
あまりに腹立たしく、クレイグはレオルドの言葉を遮ってしまった。
これ以上の後悔はないと思っていても、次々に酷い事実が明らかになっていく。
それも、変なプライドを優先させたクレイグ自身のせいなのだ。
吐き気どころか酷い頭痛もしていたが、レオルドの話を最後まで聞こうと、クレイグは酷い顔色で微笑んでみせた。




