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ルシエンヌが意識を取り戻したとの報告に、クレイグは大きく安堵した。
本当なら今すぐ会いにいって、数日前のこと、それに何よりこれまでのことすべてに謝罪したかったが、ルシエンヌの体調を考慮して控える。
その分、過去の様々なことを思い出し、考え直す時間ができた。
クレイグは子どもの頃に魔力を暴走させてから、家庭教師にもハリー医師にも、感情をいかに抑制するべきかと、為政者としても強大な魔力を持つ者としても大切なことだと教えられていたのだ。
元々喜怒哀楽が乏しいクレイグにとっては、それほど難しいことではなかった。
(……いや、そうではない。幼い頃にはあったはずだ)
母から拒絶された哀しみ、父から疎まれる哀しみ、魔力を暴走させて周囲から恐れられ孤立してしまった怒り。
そしてそれらの感情を、中庭の草花にぶつけているときに、ルシエンヌに出会ったのだ。
ルシエンヌは草花を薙ぎ払うクレイグを叱った。
小さな体でクレイグを見上げ、その大きな目を怒りに吊り上げ、何の罪もない無抵抗の草花をイジメるなんてとても悪いことだと言い聞かせようとしたのだ。
そして、「ごめんなさいは?」と言って、草花に謝ることをクレイグに求めた。
今まで誰も――教師も周囲の大人たちも、当然両親も、そのようなことを言う者などおらず、クレイグは呆気に取られて無言で立ち尽くした。
その後、夜になってルシエンヌとの邂逅を思い出したクレイグは、ひとりベッドの中でくすくす笑い、自分の笑い声にまた驚いたのだった。
それからは、ルシエンヌと会うのを楽しみに、アーメント侯爵夫人が皇宮にやってくる日には、時間を作って中庭に出るようにした。
楽しさも喜びも、自分には縁のないものだと思っていたのに、ルシエンヌと一緒に過ごしていると、どちらも体験することができる。
相変わらず人前で感情を表に出すことはしなかったが、クレイグに楽しみと喜びを教えてくれたのは、間違いなくルシエンヌだった。
(あの日常が終わってしまったのは、ルシエンヌのご両親が亡くなってからだな……)
先代アーメント侯爵夫妻の訃報は、皇宮内でも大きな騒ぎとなった。
侯爵夫人と仲の良かったオレリアはその報せに気を失ったほどだ。
本来、一臣下の葬儀に皇妃が参列することはあり得ないが、代理人を立てることなくオレリアは自ら参列した。
さらには、皇太子であったクレイグも生まれて初めてオレリアに――母に願い、葬儀に参列させてもらったのだ。
クレイグにとってアーメント侯爵夫妻のことはぼんやりとしか記憶にないが、優しかったことだけは覚えている。
だが、葬儀に参列を希望したのは、侯爵夫妻を偲ぶよりも、ルシエンヌが心配だったからだ。
あの日、いつも笑っていたルシエンヌの涙を初めて見て、クレイグは衝撃を受けるとともに、守らなければと強く思った。
それなのに、自分にできたのは、その小さな手を握ることだけ。
歴代にない強大な魔力の持ち主だの何だの言われ、将来を嘱望されていたクレイグだったが、自分はこんなにも無力なのかと痛感した。
あれ以来、クレイグは今まで適当にしていただけの勉学も魔法技の修練にも本気で取り組んだ。
もう二度と、あのような無力感に苛まれることがないように、力をつけようと必死になった。
すると、今まで関心がなかったものにも様々な気づきがあった。
まず、父である皇帝ベルトランが政治に無頓着であるため、国内外の政策を臣下たちが担っていること。
そのためか統制が取れず、少しずつではあるが国力が低下していた。
クレイグがその改革に着手しようとしたとき、一番の障害が父であるベルトランだった。
ベルトランは国政を放棄しているどころか、クレイグの邪魔をして楽しんでいるようだったのだ。
いっそのこと、皇太子としての義務のすべてを放棄してしまおうかと思うこともあった。
父も母も自分たちの好きなように生きているのだから。
それとも、クレイグの身の内で暴れる魔力を好きに開放して、皆が勝手に恐れている通りの人間になってしまおうかとも考えた。
そんなときに、妃候補の一人としてクロディーヌが現れたのだ。
クロディーヌ自身は大した魔力を持っていないことは、クレイグにはすぐにわかったが、妃候補として皇宮に上がったのは、その身分と将来的に魔力が増大する可能性を秘めていたからだろう。
従姉であるルシエンヌはすでに女性の中では魔力が強く、伯父である先代アーメント侯爵も魔力が強かったからだ。
クレイグははじめ、クロディーヌにルシエンヌの面影を探した。
顔も姿もクレイグにとっては似ているようには見えなかったが、明るくあれこれ話す姿はルシエンヌを彷彿させた。
さらには、屋敷で喪に服しているルシエンヌの話を聞かせてくれるのだから、自然とクロディーヌと一緒に過ごすことが多くなっていた。
――ルシエンヌはまだご両親の死を嘆き、毎日泣き暮らしている。
――最近は少し元気になってきて、話をしてくれるようになった。
――毎朝、庭に餌を蒔いて小鳥がやってくる姿を眺めている。
――小鳥を狙って野良猫までやってくるようになって、ルシエンヌが箒で追い払った。
――結局、ルシエンヌはその野良猫を保護して飼いたいと言い出した。
――野良猫が子猫を五匹も産んで、二人で母猫の手伝いをしている。
――子猫たちの悪戯が酷くて、里子に出すことになったからとても寂しい。
屋敷で過ごすルシエンヌの話を聞くと、自然と顔がほころんでしまう。
――皇太子殿下がアーメント侯爵令嬢を特別に思っているらしい。
――アーメント侯爵令嬢と過ごされていると、あの冷淡な顔にも笑みが浮かぶ。
そんな皇宮内での噂を耳にして、クレイグは初めて自分が笑っていたのかと知ったくらいだった。
実際、クロディーヌの話を聞くのは楽しく、先代アーメント侯爵令嬢――ルシエンヌを特別に思っていることに違いはなかったので、そんな噂も放置していた。
妃候補については、ルシエンヌが再び皇宮に上がってくるまではどうでもよく、それよりも片づけなければならないことがあったからだ。
一時期はどうでもいいと思い始めていた国政も何もかも、ルシエンヌが再びクレイグに笑いかけてくれるためなら必要だと思えたのだ。
だが、あれほど心待ちにしていたルシエンヌの話の中でも気に入らないものはあった。
――最近、ルシエンヌは皇妃様と秘密裏に手紙をやり取りしている。
その話を聞いて眉をひそめたクレイグに、クロディーヌはぼやくように続けた。
「『いったいどんな話を手紙でしているの?』って訊いても、はぐらかして答えてくれないの」
自分と母との不仲をルシエンヌは知っているはずなのに、とクレイグは面白くなかった。
しかも秘密の手紙についてクロディーヌは何度もぼやいていたことから、ルシエンヌがオレリアと頻繁に手紙のやり取りをしているのは間違いなかった。
そのため、三年の喪が明け、ルシエンヌが皇宮に上がり、久しぶりに再会したというのに、クレイグは満足に声をかけることもできなかったのだ。
ルシエンヌもそんなクレイグに気後れしたのか、以前のように話しかけてはくれなかった。
あの明るく弾んだ声を聞くことも、他愛ない内容の話を聞くこともできない。
クレイグにはどうすればルシエンヌと昔のように過ごすことができるのかわからないまま、月日だけが無情に流れていった。
それでも、妃にはルシエンヌが必ず選ばれるだろうとの確信はあった。
どの妃候補よりも魔力が強いルシエンヌを神殿が選ばないわけがないとわかっていたからだ。
最終候補にルシエンヌだけでなく、クロディーヌが残ったときも、特におかしいとは思わなかった。
クロディーヌは他の候補者よりも魔力が弱かったが、おそらくルシエンヌのために残したのだろうと理解していた。
(だが、本当にそうだろうか……?)
過去から現代にふと意識を浮上させ、クレイグは今になって違和感を覚えた。
あの魔力至上主義で男尊女卑の思想が強い神殿が、わざわざルシエンヌの気持ちに配慮したとは思えない。
世間ではルシエンヌと結婚してからも、クロディーヌを愛妾にするのではないかとの噂が絶えなかったが、神殿からはレオルドが生まれるまで、クロディーヌではなく別の女性を愛妾に勧めてきていたのだ。
もちろんこれは極秘の話で、クレイグと神殿上層部の者以外には知られていない。
要するに、神殿はクレイグやルシエンヌの気持ちなど配慮するに値せず、さらにはクロディーヌなどは眼中になかったということだ。
(だからといって、神殿に圧力をかけられるのは……)
そこまで考えて、クレイグは意地の悪い笑みを浮かべる父親の顔を思い出した。
神殿に圧力をかけられるのはおそらく父であるベルトランくらいだろうが、クロディーヌを最終候補に残しても嫌がらせにもならない。
神殿が最終選考でベルトランの圧力に屈するはずがないことはわかりきっていたはずだ。
クレイグはその疑問を抱えたまま、仕方なく執務に戻ることにしたのだった。




