18
翌朝もルシエンヌが起こすと、レオルドはまだ信じられないのか、母親の存在を確かめるように何度も手を伸ばしてきては触れた。
その仕草が愛おしくも、今まで寂しい思いをさせていたのだと、胸が苦しくなる。
だが、その気持ちを表に出さず、元気よく声をかけて朝の支度をすませた。
今日からは少しずつレオルドの日常を変えていくつもりなのだ。
そのため、午前中は教師に時間短縮を告げ、昼食までの空いた時間でレオルドを散歩に誘った。
「おさんぽ……?」
「ええ、そうよ。せっかくこんなにお天気なんだもの。お外に出てみない?」
「で、でます!」
早く答えないと散歩はなしになってしまうとでもいうように、レオルドは焦って答えた。
そしてどうするべきか考えるようにきょろきょろした後、廊下側の扉へと駆けていく。
「レオルド、大丈夫よ。急がなくても、今日はお天気が悪くなることはないから。それよりもお散歩の準備をしましょう」
「おさんぽの、じゅんび……?」
まるで散歩に出かけたことがないような反応に、ルシエンヌは驚いてついナミアを見てしまった。
ナミアは顔色を悪くしてしどろもどろに言う。
「あ、あの、その……許可が……おりませんでしたので……」
「そうだったの」
もっと詳しく聞きたいことはあったが、今はレオルドを待たせているのでルシエンヌは笑顔で答えるだけにとどめた。
ナミアを責めても仕方のないことでもある。
「――レオルド、お散歩に行くときは帽子をかぶったほうがいいの。太陽に当たることはいいことだけれど、あまり過ぎると体が熱くなってしまうのよ。母様も準備をするから、レオルドもナミアに手伝ってもらって準備をしていらっしゃい」
「はい!」
腰を屈めてレオルドと目線を合わせ、散歩の準備について説明する。
レオルドはわくわくした様子で返事をしてからナミアへと駆け寄った。
それからお互い準備を整えて部屋から出ると、外で控えていた衛兵は驚いたようだった。
「あら、ごめんなさい。先に伝えておくべきだったわね。これから中庭に散歩にいくけれど、護衛は私の騎士を連れて行くから大丈夫よ。あなた方はこのままこの部屋に不審者が忍び込まないように見張っていてくれるかしら?」
「か、かしこまりました」
クロディーヌの息がかかっているだろう衛兵は狼狽していたが、皇妃であるルシエンヌに逆らえるわけもなく、了承するしかなかった。
しかし、護衛としてはあまりに頼りなさすぎる。
今回、レオルドの部屋まで強行突破するつもりで、ルシエンヌの護衛を離宮から連れてきていて本当によかったと思っていた。
クロディーヌが昨夜突撃してきたときも、いつでも対応できるように、臨戦態勢で隣室に控えてくれていたのだ。
その気配さえも、クロディーヌたちは気づいていないようだった。
「……かあしゃま、どこにいくのですか?」
「今日はね、お部屋から見えるお庭を探検してみようと思うの」
「それがおさんぽですか?」
「――そうね。それもお散歩だけど、もうお散歩は始まっているのよ?」
「え……?」
レオルドは二歳児には早すぎるほどの知識を身に着けているのに、『散歩』は知らないらしい。
そのチグハグさに胸を痛めながらも、ルシエンヌは手を繋いで不思議そうに見上げるレオルドに向けて微笑んだ。
「お散歩っていうのはね、必ず目的の場所に着かなくてもいいの。気ままに歩いて、目についたものが気になれば何だろうって立ち止まることもよくて、歩くことや、こうして手を繋いでおしゃべりすることを楽しんだりするのよ。お庭に到着しなくても、これがもうお散歩なの。だから、もしレオルドが気になるなとか、もっと見てみたいってものがあれば遠慮なく言ってね。母様もレオルドが何を好きなのか、気になるのか知りたいから」
ルシエンヌが散歩について簡単に説明すれば、レオルドは小さな唇をかすかに尖らせて黙り込んだ。
拗ねているわけではなく、考えるときのレオルドの癖なのだと、この二日間でルシエンヌは気づいていた。
その仕草は可愛くもあるが、残念ながら将来的には直さなければならない癖である。
「……とうしゃまも、おなじです」
「え?」
「とうしゃまも、おそとにつれていってくれました……」
少し考えて答えたレオルドの言葉に、ルシエンヌは驚いて訊き返した。
すると、レオルドはいけないことを言ってしまったと思ったのか、眉を下げて答える。
そこでルシエンヌは慌てて安心させるように微笑んだ。
「レオルド、母様はちょっとびっくりしただけなの。クレイグは――父様はお忙しい方でしょう? だから、レオルドとお散歩する時間があったのだなって……。ほら、母様はずっと病気で父様にもお会いしていなかったから。レオルドが父様のことを教えてくれると嬉しいわ」
ルシエンヌは喜びが湧きあがるのを抑えて、レオルドにクレイグの話をお願いした。
先代皇帝のベルトランは息子にまったくの関心がないどころか、自分より才能があるために毛嫌いしていたが、クレイグもそうだとは限らないのだ。
むしろ、レオルドが魔力酔いで体調を崩したときには、クレイグが魔力を補っていたと聞いていた。
クレイグが忙しい中でも、きちんとレオルドのことを気にかけてくれているのがわかり、ルシエンヌは嬉しかった。
「とうしゃまは……ぼくがくるしいと、きてくださって、てをつないでくれます。だから、くるしいのはいやだけど、ちょっとだけすきです」
報告通りのレオルドの言葉に、ルシエンヌは感動さえしていた。
たとえクレイグがルシエンヌを好きではなくても、レオルドのことは間違いなく愛してくれている。
「――父様はレオルドのことが大切だから、本当は苦しいときじゃなくても、傍にいたいのだと思うわ」
「ほんとに?」
「ええ。だって母様もレオルドが大切で大好きだから、早く病気を治して傍にいきたいってずっと思っていたわ。だから、ようやくそれが叶って嬉しいの」
「……ぼくはもっともっと、うれしいです」
「あら、母様のほうがもっともっともっと嬉しいわ!」
嬉しそうなレオルドを抱き上げると、また「きゃあ!」と喜びの悲鳴が上がった。
だがすぐに、しまったというようにレオルドは自分の口を塞ぐ。
昨夜のことで、今回もまたクロディーヌたちに誤解されると思ったようだ。
そのいじらしさにルシエンヌは微笑み、柔らかな頬にそっと顔を寄せた。
「心配しなくても大丈夫よ。誰が見ても、今のレオルドは楽しんでいるってわかるから。昨日もクロディーヌ叔母さんたちはびっくりして心配したのよ」
「でも……かあしゃまがおこられない?」
「怒られないわ。だって、母様はレオルドの母様だもの」
当たり前のことをルシエンヌが胸を張って言うと、レオルドはくすくす笑った。
その姿は愛情に満たされた母子そのもので、周囲の者たちはほうっと吐息を漏らした。
レオルドとルシエンヌが廊下を歩いているだけで、会話は聞こえないまでも皆が驚き注視していたのだ。
「とうしゃまも、さんかい、ぼくをだっこしておへやから……おさんぽにつれていってくれました」
「まあ、よかったわね!」
「はい。うれしかったです」
「じゃあ、また父様が戻っていらしたら、一緒にお散歩できるといいわね」
「はい!」
回数まで覚えているのも、よほど嬉しかったのだろう。
ルシエンヌも心から喜び、クレイグが戻ってくることへの緊張がわずかに和らいでいた。
ひょっとして、レオルドを愛するクレイグなら、ルシエンヌを母親として受け入れてくれるかもしれない。
それなら、レオルドについてのことも任せてくれるのではないか。
そう期待して、ルシエンヌはレオルドを抱っこしたまま、中庭へと向かった。




