12
覚悟を決めて馬車から降りたルシエンヌは、周囲の驚きを無視して目的の場所へと速やかに向かった。
途中ですれ違う者たちはルシエンヌの姿に驚きこそすれ、止めに入る者はいない。
そのためか、覚悟していたような問題もなく、さらには呆気なくレオルドの部屋へと入ることができた。
(どういうこと? レオルドはいくら魔法が使えるようになったとはいえ、まだ幼い子どもなのに、衛兵も立っていないの?)
ひょっとして、すでにレオルドを別の場所へ連れ出したのだろうかと考える。
だが、母だからわかるのか、レオルドの魔力は確かにこの部屋から感じられた。
それなのに、居間であるはずのこの場所には誰もいない。
「ルシエンヌ様、殿下はいらっしゃらないのでしょうか……?」
「いえ、それは――」
リテの質問に答えようとしてルシエンヌは、奥の部屋から物音が聞こえて口を閉ざした。
奥は寝室のはずで、ガタンという椅子が倒れるような音と女性の声が聞こえる。
離宮から連れてきた護衛騎士が警戒して剣の柄に手をかけたが、ルシエンヌは前を向いたまま大丈夫だというように手を振った。
どうやらレオルドは寝室にいるらしい。
聞こえる女性の声はクロディーヌではないようだと思いながらも、ルシエンヌは緊張して部屋の中へ進んだ。
すると、ガチャリと勢いよく寝室のドアが開く。
「――殿下!」
悲鳴に近い女性の声とともに現れたのは、幼い男の子。
初めて目にする息子は、クレイグにそっくりだった。
「レオルド……」
思わず漏れ出た息子の名は、声がかすれて吐息のようでしかなかった。
レオルドがどう反応するのか、知らない人間が何人もいることに驚いて泣き出すかと身構える。
それなのにレオルドは立ち止まることなくルシエンヌへと駆けてきた。
「殿下! 行ってはなりません!」
慌てて寝室から出てきた女性――おそらく養育係だろう女性の言葉に振り返ることもなく、レオルドは迷うことなくルシエンヌへと抱きついた。
「かあしゃま!」
そう呼ばれて一瞬、ルシエンヌは息を詰まらせた。
まさかレオルドがこんなにも素直に自分を受け入れてくれるなど考えてもいなかったのだ。
しかもためらうことなく母と呼んでくれている。
ルシエンヌは震える体を急ぎ動かし、すぐさまレオルドの小さな体を抱き返した。
途端にレオルドの魔力が全身を駆け巡るような感覚と同時にめまいがしたが、今はただ腕の中に愛しい我が子がいてくれる奇跡を喜んでいた。
次々と涙が溢れて頬を伝う。
「レオルド……会いたかったわ……」
「ぼくもです、かあしゃま。クロディーヌもみんなも、かあしゃまはぼくをすてたんだっていったけど、ちがうってぼくはちゃんとわかてました」
「ごめんね、レオルド……」
ずいぶんしっかりした話し方だが、抱きしめた体はまだとても小さい。
二歳の子に何を言い聞かせていたのだと怒りが湧き、ルシエンヌはレオルドの背後でおろおろするだけの養育係を見上げた。
だが、今は腕の中のレオルドに集中するべきだ。
そう思い、レオルドを抱き上げる。
「レオルド、あなたとはたくさんお話をしたいけれど……ひょっとしてお熱があるんじゃないの?」
単にお昼寝の時間で寝室にいたのかと思っていたが、こうして抱きしめているとレオルドの体が熱い。
子どもの体温は高いとは学んで知っていたが、それにしても熱すぎる気がする。
「ぼく、もうだいじょぶです」
「殿下は、昨夜から発熱されて、おやすみになっていたので……」
ルシエンヌの問いかけにレオルドはふるふる首を振る。
その姿は「いやいや」をしているようで二歳児らしく可愛らしいが、無理をしているのがわかって痛々しくもあった。
養育係はルシエンヌがやってきたからだと責めるような口調で説明する。
昨夜から熱があって、献身的なはずのクロディーヌどころか、この養育係以外誰もいないのはどういうことかと疑問はたくさんあったが、ルシエンヌはひとまず寝室へと向かった。
ところが、そこで遠くからのざわめきが近づき、勢いよく廊下側のドアが開かれた。
「ルシー! あなた、何様のつもり!?」
「――何様も何も、レオルドの母親ですけど? クロディーヌ、あなたこそ何様のつもりなの?」
クロディーヌが強い口調で問い詰めるが、ルシエンヌは冷静に答えてさらに問い返した。
すると、クロディーヌは驚き目を見開く。
今までのルシエンヌなら、こんなきつい言い方をすることなどなかった。
だが、腕の中のレオルドがクロディーヌの登場に喜ぶどころか、顔を隠すようにルシエンヌにさらに強く抱きついたことで、怒りが再燃したのだ。
発熱しているレオルドに付き添うこともなく護衛もつけずにいたこと。
クロディーヌの嘘のせいで、この一年を無駄にしてしまったこと。
何より、レオルドを怯えさせていることが許せなかった。
「クロディーヌ、レオルドの傍に養育係一人だけで護衛もいないなんて、どういうつもり? 医師には診せたの?」
「そ、それは……今まで殿下を放っておいたあなたは知らないでしょうけど、殿下の発熱はよくあることなの。だから――」
「よくあることでも――よくあることだからこそ、注意が必要なのではなくて? それなのにあなたの様子だと、医師にはまだ診せていないようね?」
ルシエンヌは悔しそうに睨みつけるクロディーヌから視線を逸らすと、オロオロしているだけの女性に声をかけた。
「あなたがレオルドの養育係なの?」
「は、はい……。ナミアと申します」
「そう。では、レオルドのことを教えてくれる? あと、あなたは主治医を呼んできてちょうだい」
「は、はい!」
ルシアンヌはナミアにそう言うと、クロディーヌの後ろで気まずそうに立っている侍女に声をかけた。
女性の様子からクロディーヌではなく、レオルドの侍女だろうと予想したのだ。
その女性は慌てて返事をし、急ぎ部屋から出ていく。
そこでルシエンヌは再びクロディーヌへ視線を戻した。
「クロディーヌ、まだ何かあるかしら? レオルドのことなら、これからは私がいるから大丈夫よ。今までありがとう。おかげさまで、私はしっかり回復することができたわ」
にっこり笑ってクロディーヌに告げると、返事を待たずに寝室へと入った。
そして、レオルドを抱いたままベッドに腰を下ろしたルシエンヌは、深く息を吐き出す。
気を張り詰めていたせいかめまいが酷い。
そんなルシエンヌを察してか、アマンはいつでも支えられるよう傍で待機してくれていた。
「レオルド、ベッドに入りましょう?」
「いや」
「どうして? お熱があるのだから、寝ていたほうが楽でしょう?」
「かあしゃまのそばがいい」
「じゃあ、私はここにいるわ」
「……かあしゃまはいなくならない?」
「ええ」
「これからずっと?」
「ずっとよ」
言葉はしっかり話せるが、内容はまだまだ幼くて、ルシエンヌは安心させるように優しく微笑んだ。
すると、レオルドはいそいそとベッドに横になる。
ルシエンヌはくしゃくしゃになった上掛けを引き寄せ、レオルドに掛けた。
「あのこわいひとはもうこない?」
「あの怖い人?」
「あのひと、きらい」
「レオルド――」
「お待たせしました」
レオルドの言う「あの怖い人」が誰なのか、ひょっとしてクロディーヌのことなのか確かめようとして、ナミアの声に遮られてしまった。
かすかに息を切らしたナミアの背後から、老齢の医師が現れる。
クレイグの子どもの頃からの主治医で、ルシエンヌもよく知っていた。
レオルドの言葉は気になるが、熱を出しているのに繰り返しする質問でもない。
そう考えて、ルシエンヌはやって来た医師に視線を向けた。
「……ハリー先生、レオルドをお願いします」
「ああ……わかりました」
ルシエンヌはこの医師が苦手だった。
ハリー医師の視線は、ルシエンヌを取るに足りない存在だと言っているような、そんな感じがするのだ。
だからこそ、ルシエンヌは妊娠を疑ったとき、アマン以外の診察を拒否した。
晩年のオレリアもハリー医師の診察を拒否していたため、アマンはいったいどんな診察をしているのやら……と噂されている。
ハリー医師はアマンを忌々しげに睨んでから、レオルドにおざなりの診察をした。
「魔力酔いですよ。殿下ほど魔力の強い幼子にはよくあることです。陛下も子どもの頃はよく魔力酔いを起こしていらっしゃいましたからね」
「そうですか……。ではもうけっこうです」
「は?」
「ありがとうございました」
もうレオルドの診察は二度としないでいいとの気持ちを込めて、ルシエンヌはハリー医師にお礼を言った。
その言い方が気に入らなかったのか、ハリー医師は眉間にしわを寄せ不機嫌をあらわにする。
だが、皇妃であるルシエンヌに何か言えるわけもなく、無言で頷いた。
「それでは、失礼します。皇妃陛下」
まるで嫌味のように、ルシエンヌを陛下と呼び、ハリー医師は去っていく。
ルシエンヌはハリーからすぐにレオルドへと視線を戻し、その顔を優しく撫でた。
「少しお熱が下がったかしら? でも、このまま寝たほうがもっとよくなるでしょうね」
「どこもいかないです?」
「ええ、約束よ。どこにもいかないわ」
たとえ今、クレイグが戻ってきてルシエンヌを部屋から引っ張り出そうとしたとしても、絶対にレオルドから離れるつもりはなかった。
もちろん、まだクレイグは地方視察で留守である。
クレイグが帰ってきたらきっと一悶着はあるだろうが、それも覚悟の上だ。
ルシエンヌは嬉しそうに笑うレオルドの額に軽く口づけ、再び安心させるように微笑んだのだった。




