Bastard & Master 【8】
【8】
日の落ちた荒野。
その野営地で身体を休めていたラインハルトは、聞き慣れた足音が近付いて来るのに気付いて半身を起こした。
「ダニエルか?」
問うと、テントの幕の向こうから返事がした。
「はい。たった今、フッサールから風の精霊がメッセージを運んで来ました」
「都から?……入れ」
身を屈めて彼のテントの中に入って来たのは、やっと少年期を抜けたばかりかという若い男であった。
身なりはスピリッツ・マスターの旅装束で、手に杖を持っている。
小柄な彼でも身を屈めなければならないテントを見回して、ダニエルは苦笑した。
「ハウスをお作りしましょうか?ラインハルト卿」
長身のラインハルトには窮屈であろうと思うのだが、彼は首を横に振った。
「いや、構わん」
ジュリアス・ラインハルトはフッサール国王の遠縁にあたる王族の一人で、諸外国を訪問する外交の仕事を任されていた。
スピリッツ・マスターのダニエルは、幼い頃からラインハルト家に仕え、常に主人であるジュリアスと行動を共にしている。同じくラインハルト家に仕える老齢の師の下で厳しい修行を積み、若年ながら、かなりの使い手であった。
今も彼らは、五十人ほどの騎馬兵と共に、諸国訪問の任を終え、帰国の途中である。
ラインハルトがハウスに入ろうとしないのには理由があった。
兵を預かる将として、常に辺りの気配に敏感でありたいと思っている彼にとって、物音ひとつ侵入させないハウスは都合が悪かった。
確かに、空調の整った環境で、雑音を気にせず身体を休める事は出来るであろうが、余程天候が良くない時以外は、兵たちと同様にテントで休むようにしているのであった。
「それで、都からは何と言って来たのだ?」
座れ……と手で示しながら、ラインハルトは訊いた。
「それが……ここから数十キロの辺りで、フォンテーヌを目指している旅人の二人連れを……亡き者にしろ……と」
「なに……?」
ラインハルトの彫刻のように整った顔が、怪訝に歪む。
「それだけか?」
「それだけです。有無を言わさない調子でした」
ダニエルが肩を竦める。
「風の精霊を寄越したのは誰だ?」
大方の予想はついた。ラインハルトに命令出来る人間と言えば、数は多くない。
ダニエルは首を横に振った。
「はっきりと名前は告げられませんでしたが……雰囲気から、恐らく国王様か、王弟殿下お抱えの術師ではないかと……」
だろうな……。
ラインハルトは溜息をついた。
その旅人が誰であるかも、その目的もわからず、ただ殺せと仰せか……?
この私に。
そして、私の兵たちに、寄ってたかって、たった二人の旅人を殺せと?
何を考えておいでなのだ……!
「接触は明日の午後になるかと思われますが……どういたしましょう」
主人の胸の内を思い、ダニエルがおずおずと訊いた。
「命令とあらば、致し方あるまい」
吐き出すような、ラインハルトの声であった。
「ああ……そうではありません」
動きを遮られて、レオンは腕の中からクリステルの身体を解放した。
「俺、間違ってないぞ?」
主張するレオンに、クリステルは苦笑する。
「間違ってはいません。でも、格闘技ではないのですから、もう少し優しく……」
ふたりは荒野の真ん中で抱き合って――ダンスのレッスンをしていた。
あれから三日が過ぎていた。
街へ入ればテーブルマナー実習。馬を下りる度にダンスレッスン。その他の講義については時間を問わず――
クリステルは手厳しい教育係であった。
しかしレオンは与えられる知識を、スポンジが水を吸うように吸収して行く。
予想以上に出来の良い生徒に、クリステルは満足していた。
ダンスも、最小限のステップを繰り返し叩き込まれたレオンであったが、まだ優雅とは程遠い様子で、クリステルは、そろそろワンランク上の授業をしなければならないと思っていた。
天気の良い昼下がり、偶然見つけた小川の側で馬を休ませながら、二人は踊り始めたところであった。
しかしまるで組み手でもするかのように、がっしりと抱き込まれ、思わず動きを遮ってしまったのだ。
「男性は女性をリードしなければなりません。しかし、あくまで優しく優雅に……」
「さっきのじゃ、だめだったのか?」
「あれでは女性が壊れてしまいます」
クリステルの言葉に、レオンは溜息をついた。
「ここには音楽もありませんし、雰囲気を掴むのは難しいかも知れませんが……。普段から女性をエスコートする習慣を身につけねばなりませんね」
そう言われて、レオンはクリステルをまじまじと見た。
「女性って……お前の事か?」
「そういう事になりますね」
途端にレオンは笑い出してしまった。
「何がそんなに可笑しいのです?」
クリステルが冷ややかに訊く。
レオンはクリステルの様子を気にも止めず、笑いながら、だって……と言った。
「お前って、『女性』とは程遠い感じだぜ。どっちかって言うと『オトコマエ』だよな。腕は立つし、その格好だって、男だか女だかわかんねーし。あはははは……」
「失礼な方ですね。でも……そう言われてみれば確かに……」
クリステルは自分の服装を改めて見て、素直にレオンの言葉に頷いてしまう。
吐息をひとつついて――クリステルは、仕方ないですね……と呟いた。
レオンに背を向けると、スピリッツ・マスターの旅装束である、丈の長い上着を脱いだ。
「これで少しだけでも雰囲気を感じ取って下されば良いのですが……」
「え……?」
振り返ったクリステルの姿に、レオンは思わず笑いを引っ込めた。
何日も旅を共にしていて、少しも気にしていなかったのだが、クリステルは上着の下にシルクのシャツを着ていた。
上着に合わせて、シャツも丈が長く、ゆったりと風を孕んでいる。
その襟から胸元にかけては、たっぷりとフリルが取ってあり、優美なデザインであった。
何より、かっちりとした上着の下から現れた肩のラインの華奢な事に、レオンははっとさせられた。
クリステルに促されてホールドのポジションを取り、そのウエストの細さに愕然とする。
こいつ……女なんだ……
レオンは漸くそれに気付く。
常に冷静で、気丈で、強く逞しく――
この上もなく頼りになるガーディアンであるクリステルが、職務中の証である旅装束をひとたび脱げば、その中身は紛れもない、ひとりの女性であった。
無意識のうちに、守られる立場に身を甘んじていた事に、レオンはこれまで気付かないでいたのだ。
旅の伴侶として、せめて対等でありたい。
そして、時には、こいつを安心させてやれる立場になりたい……。
レオンの意識改革が始まった瞬間であった。
今度はいきなり遠慮がちになってしまったレオンの様子に、クリステルは困ったような顔を向けた。
「そんなに恐る恐るでは、リードになりませんよ」
言われて、レオンも困ったような顔をする。
「だって……壊れそうだから……」
クリステルは吹き出した。
「さっきは男か女かわからないと仰ったでしょう? 極端な方ですね」
「いや……あれは……悪かった……」
決まりが悪そうに言って、手を離してしまったレオンに、クリステルは苦笑した。
「『オトコマエ』は、誉め言葉だと解釈させて頂きます」
言い放って、これでおしまい……とばかりに上着を身に着けた。
その顔が、はっとしたように振り返り、空を仰ぐ。
「どうかしたのか?」
レオンが怪訝な表情で訊くと、彼女は頷いた。
「殺気が……近付いています……」
呟くように言って、杖をしっかりとその手に握った。
「ラインハルト卿。風の精霊が前方に目標を発見したようです。間違いなく、旅人が二名……」
馬に跨ったダニエルが、ラインハルトの馬車の外から報告を入れる。
「そうか……」
呟きの後、ラインハルトは馬車の扉を開けて降りて来た。
「どうなさるのですか?」
ダニエルが問うのを制して、ラインハルトは兵の一人に、馬を引け……と命じた。
「私も出る。兵たちにばかり嫌な仕事を押し付けるのは性に合わぬ」
それは理由のひとつに過ぎなかった。
国の権力者たちが何を考えているのか――
今から殺そうとしている相手は何者なのか――
自分の目でそれを見極めたいと、ラインハルトは思っていた。
兵に引かれてきた黒馬は、ラインハルトの愛馬であった。
彫刻のような顔立ちを縁取る、濡れたように艶やかな黒髪。
黒の甲冑に身を包み黒馬を駆るその姿は、『黒の騎士』と呼ばれ、都の女たちの熱い眼差しを一身に集めている。
長身を身軽に翻し、愛馬に跨ったラインハルトを、ダニエルは吐息をついて眺めた。
子供の頃から仕えてきたのだ。主人の考えている事は手に取るようにわかる。
意に添わぬ仕事なら、馬車の中で命令だけしていればいいと思うのだが、止めても無駄であると、ダニエルは知っていた。
「騎兵隊一班は私と共に出る。残りはこの場にて待機。一気に目標までの距離を詰め、合図と共に矢を放て」
「はっ!」
ラインハルトの命令に、返事を返す兵たちの声が、ピリっと空気を振るわせる。
「出撃――っ!」
声と共に、二十を越える数の馬が一斉に駆けた。
地を揺るがす無数の足音が、二人の旅人の元へと迫っていた。
つづく




