Bastard & Master 【5】
【5】
不思議な空間から飛び出したレオンは、自分の周りに風が渦を巻くのを感じた。
血生臭さが纏わり付く。
くそっ……ふざけやがって!
性悪な風の精霊に悪態をつきながら、飛び掛ってきた一頭目の狼を剣で薙ぎ払う。
狼は甲高い鳴き声を上げて、地面に転がった。
しかし、興奮し切っている群は、怯む様子がない。
低い唸り声が絶え間なく響き、レオンを取り囲む。
レオンが構える。剣がギラリと光を放つと、それを合図にしたように、狼たちが飛び掛った。
レオンは鋭い身のこなしで狼たちを次々に切り倒す。
逆に、敵はその数で、レオンをじりじりと追い詰めていく。
クリステルは二頭の馬に、じっとしているように言いつけると、自分も空間から出た。
杖を高く振りかざす。
「風の精霊よ。悪しき者に飼われし汝の同胞に戒めを与えよ!」
目には目を。風の精霊には風の精霊を――
クリステルは、悪戯者の精霊より、更に高位に位置する風の精霊を呼び出したのである。
突風が起こり、群の上で小躍りしていた精霊は、その勢いに成す術もなかった。
悪戯が過ぎた精霊は、あっという間に暴風の鎖に戒められ、精霊界へと連れ去られて行った。
彼はそこで、精霊裁判にかけられるのだ。
悪事に手を染めた精霊は、消滅させられるか、力を奪われ、下級精霊へと追い落とされるのが常だった。もう二度と、飼い主と繋がる事は許されないであろう。
つまりこれを企てた術師は、召喚可能な風の精霊を失った事になる。
クリステルはそう考えて、小さく吐息をついた。
レオンを振り返ると、健闘はしているが、そろそろ限界のように見受けられた。
クリステルは杖の仕掛けを操作して、先端に刃を突出させた。風変わりな槍のようでいて、刃の形状は突き刺す事も薙ぎ払う事も可能な作りに出来ている。
手に馴染んだ得物で、我を失ったようにレオンに執着している狼たちを、背後から薙ぎ払う。
突然別の所から聞こえた狼の悲鳴がレオンの耳を打つ。
はっとして視線を向けると、クリステルが舞うように杖を振るっていた。
無駄のない動きは優美ですらあった。
殺生するつもりはなく、少しだけ脅して追い払うのが目的なのだと、レオンにはわかった。
その余裕が憎らしい。
冗談だろ……とんでもないお姫さんだぜ。
呆気に取られた途端――
レオンは足元に転がった狼の死骸にけつまずいて、体勢を崩した。
倒れ込んだ自分の上に、何匹もの狼が飛び掛って来る様を、レオンはスローモーションの映像を見るように眺めた。
「ヴィクトール殿っ!」
クリステルの悲鳴が、もの凄く遠い所から聞こえたような気がした。
「大気の精霊よ! かの者と我とに、見えざる鎧を纏わせよ!」
クリステルは叫んだ。
瞬時に全身を見えない膜が覆う。さっき作った不思議な空間と同じ技である。
「炎の精霊よ! 我らに仇なす者を、その業火にて追い払え!」
言い終わると同時に、あたり一面が炎に包まれた。
鋭い痛みを太ももに感じた。
胸を押さえ付けるたくさんの前足の感触。
それでもなお、剣を振り回しながら、レオンの思考の片隅を死がよぎる。
しかし――
後にも先にも、痛みはそれだけだった。
前足で踏みつけられた感触も、出し抜けになくなった。
見回すと、視界は炎に包まれていた。
なんだよ。狼のくせに、ナマで食わない気か……?
自嘲気味にそう考えて、はっと気が付いた。
炎はすぐ側で燃えさかり、狼たちは逃げ惑っているのに――レオンにはその炎の熱さが感じられなかった。
やがて――
狼たちは姿を消し、炎がその勢いを、すうっ……と失った。
「ヴィクトール殿!」
クリステルが駆け寄って来た。
「……レオンだ……」
レオンは言いながら半身を起こし、太ももの痛みに顔をしかめた。
「足をやられたのですか?」
クリステルは手馴れた様子で、レオンの全身をチェックした。他に外傷はないようだった。
立ち上がりかけたレオンに肩を貸そうとするクリステルを、レオンは手で制した。
「大丈夫だ、これくらい……」
言いながら痛みに顔が歪む。
よろけたところをクリステルが支えた。
「意地は、別の機会に張る事です」
穏やかだが、しかしきっぱりと言われて、レオンは苦笑した。
「あんた……強いな……」
レオンが呟くように言った。
「光栄です」
クリステルは微笑んで答えた。
二人は少し離れた木陰へ移動し、腰を下ろした。
「傷を診ます」
クリステルはレオンのズボンを少し裂いて、自分の荷物の中から出した布で血を拭った。
レオンが顔をしかめる。
「骨は大丈夫のようです。少し辛抱を……」
クリステルは杖を手に取って立ち上がった。
何をされるのか……と、レオンが訝しげに見上げたが、クリステルは構わず杖を天にかざし、左手は胸の前で印を結んだ。
「万物に宿りし精霊たちよ。我が呼びかけに応え、我の助けとなれ……。カデューシアスの加護をここに与えよ」
クリステルの声には、凛とした独特の響きがある。
心地良く聴き入ってしまったレオンの目の前で、クリステルの呼びかけに応えるかのように、杖の宝石が輝きを増し、次いで、そこから清んだ水が滴り始めた。
「な、何だ……?」
ぎょっとしたレオンに、クリステルは足を出すように仕草で促した。
「聖水です」
そう言いながら屈み込み、レオンの傷口をその水で濯いだ。
「消毒と痛み止めになります。……どうです?」
最初は呆気に取られたレオンだったが、ふうっと溜息を吐き出して木にもたれ掛かると、目を閉じた。
「いい気持ちだ……。痛みがやわらいでいく……」
熱を持ったようにズキズキ痛んでいた傷口を、聖水は円やかな感触で癒して行く。
レオンはその心地良さに、何度も溜息に似た深い息を吐いた。
不思議な事に、傷口を綺麗に洗い終えると、水はひとりでに止まった。
今まで聖水を溢れさせていたその杖を、クリステルが空気を切るように振るうと、一枚の木の葉が現れた。
木の葉は、クリステルが差し伸べた手の平に、お行儀良く舞い降りた。
みずみずしく、いい香りのする薬草であった。
「手当てをします。ズボンをお脱ぎなさい」
こいつは魔女か……? と、固まっていたレオンは、我に返って立ち上がった。
「あ、ああ……すまない」
さっきはあれほど痛んだのに、すんなり立ち上がった自分に、レオンは後になって気付いたのだった。
あとはクリステルにされるがままであった。
レオンの傷口に薬草を当て、きちんと包帯を巻き――
そのてきぱきとした仕事振りは、レオンが安心して身を任せようと納得するに充分な経験を感じさせた。
「済みました。……しかし、今日は動かさない方がいいですね。今夜はここで休みましょう」
事も無げに言われて、レオンは周りを見回した。
「ここ……?」
木が一本あるだけの、石がごろごろある硬い地面。
近くに川が流れている様子もない。
クリステルのような身分の高そうな女が休むには、適当でないようにレオンには思えた。
「大丈夫です」
レオンの考えを察したのか、クリステルが言った。
「精霊たちの守護がありますから……」
微笑んでそう言うと、狼の群と自分たちの空間を分けた時のように、杖で地面を撫で始めた。さっきより、ゆったりと大きな円を描いている。
「大地の精霊よ。我らに休息の場を貸し与えよ」
続いて、その杖を空に掲げる。
「大気の精霊よ。我らが休息の妨げとなるものを遮断し、目に見えぬ壁で我らを包め」
変化はたちまち訪れた。
杖が描いた円の内側に、柔らかい草が芽を出した。
芝生のようにびっしりと地面を埋め、自然の絨毯を広げたようである。
埃っぽく乾いた風もぴたりと止んだ。
しかし、すぐ側の木の枝は風に揺られている。
「これは……さっきと同じ奴か?」
「本来はこうやって使うものなのです」
クリステルはにっこり笑って言った。
「私たちはハウスと呼んでいます。大地と空気を操作して、快適な空間を作ったものです。このサークルの中は、虫の一匹もいません。雨も風も生き物も、外から侵入する事はできませんし、光の屈折で、このハウスは外からは見えません。安心して、ゆっくり休んで下さい」
クリステルは呆然としているレオンをそのままに、ハウスと呼んだサークルの外に出た。
と言っても、レオンの目には、彼女が緑の絨毯の外へ出たようにしか見えなかったのであるが――
クリステルは二頭の馬の側へ行き、同じようにハウスで包んだ。
同時に、レオンの視界から、馬たちもクリステルの姿も掻き消えた。
景色の中に溶けてしまったかのように、ハウスそのものが外から見えなくなるのである。
狼たちがあの時、目標を見失ったような仕草をしたのは、こういう理由だったのだ。
「すごい……」
レオンの口から呟きが漏れた。
多分……こいつには逆らえない……
ちらりと考えて、苦笑してしまう。
一日で、一生分の不思議体験をした気分だった。
脳味噌が、休息を求めていた。
レオンは目を閉じ――
そのまま夢の世界へと落ちて行った。
つづく




