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Bastard & Master 【4】

【4】






 荒野に馬を進める二人の頭上で、日は西に傾き始めていた。


「明るいうちに次の町へ入るのは、無理かも知れませんね」

 クリステルが言った。

「お疲れになりましたか?」

 レオンに視線を向けて訊く。


「いや……大丈夫だ」

 正直、早くごろんと横になりたい気分だったが、レオンは首を横に振った。

 お姫様育ちの彼女が平然としているのに、疲れたなどと言えなかった。


 体力にはもちろん自信があった。ちゃんと鍛えてきたのだ。

 だが、旅となると、経験はないに等しかった。

 ただ馬に乗って移動しているだけなのに……これじゃあ、剣術の稽古で師匠にこってりしぼられている方が、まだ性に合っている。


 これから先が思いやられて、レオンはそっと吐息をついた。




 不意に鼻腔を、血生臭い臭いが掠めた。


 クリステルもそれに気付いたのか、形の良い眉根を寄せて首を巡らせている。


「あれだ……」

 左前方――草むらを薙ぎ倒すように、一頭の牛が倒れ込んでいた。

 おびただしい量の血が、草むらと大地とに赤黒いしみを作っている。

 牛はぴくりとも動かず、すでに死んでいるようだった。


 馬を早足で進めた二人は、牛の屍の傍らで、その憐れな姿に言葉を無くした。


 明らかに、人の手で殺められたものだった。

 躊躇する事無く、すっぱりと腹を切り裂かれ、血液と一緒に内臓までもが流れ出している。

 屍となって、まだそんなに時間がたっていない血の色だった。


「むごい事を……まだ充分働ける、若い牛なのに」

 レオンの呟きに、クリステルも頷いた。

「精霊の加護のあらん事を……」

 クリステルはその亡骸に祈りを捧げた。


「離れましょう。嫌な感じがします」

 クリステルに促され、二人は今日初めて、馬を早駆けさせた。


 二頭の馬は、揃って駿馬であった。疾走する馬体の躍動感に、レオンは心が高揚するのを感じた。

 自分の家にいた、そろそろ年寄りと言ってもよさそうな馬では味わえなかった感覚である。

 ちらりと後ろを振り返ると、牛の姿はあっという間に豆粒のように小さくなっていた。




「おかしい……」

 クリステルがひとりごちて、馬の脚を緩めた。レオンもそれに倣う。

「どうかしたのか?」

 声を掛けると、クリステルは、ええ……と呟いた。

「こんなに離れたのに、まだ血の臭いが追って来る……」


 確かに……

 レオンは、その纏わりつくような臭いに鼻を蠢かせた。


「風向きが変わったのか?」


 さっきまでは向かい風で、そのおかげで、前方にあった牛の死骸に気付いたのだ。

 ところが、それを通り過ぎた今も、その臭いが、今度は後ろから漂って来る。


「風向きは……変えられたのです。意図的に……」


 クリステルの声に硬さが増し、警戒している事が窺える。

 レオンはしかし、その意味するところが理解できず、クリステルを見た。


「さっきまで私の髪にじゃれついていた小さな風の精霊が、どこかへいなくなりました。もっと力を持つ風の精霊に追い払われたのでしょう。……その精霊が、この臭いを運んでいる」

「何の……為に?」

 にわかには信じられないような話だったが、レオンはそう訊いた。疑う気持ちより、知りたい気持ちの方が上回っていた。


「訊いてみましょう」

 クリステルは呟いて、馬から降りると杖を振るった。




「精霊よ……なぜこんな悪戯をするのです?」

 クリステルが凛と響く声で呼び掛け、宙を仰いだ。


 途端に風が一際強く、びゅう、と吹き付け、クリステルの周りで渦を巻いた。長い金色の髪が捩られ巻き上げられる。

「戯事はおよしなさい」

 ぴしゃりと言い放ち杖をぶんと振るうと、逆巻いていた髪の毛はさらさらと元に戻った。


 しかし、血の臭いはまだ纏わりついている。

 精霊は本来の仕事を放棄したわけではないようである。


「この精霊は、誰か心根の良くない術師に飼われているようです。私の言葉に答える気などないらしい」

 そう言って振り返ると、レオンはその顔に驚愕の色を張り付かせてクリステルを見詰めていた。

 風が人間の問いかけに反応するなど、信じられないような出来事を、はっきりとその目で見たのである。初めてであれば、当然のリアクションだった。


「どうやら、信じていただけたようですね」

 苦笑を浮かべながら言われて、レオンは我に返った。

「……いや……信じてなかった訳じゃないけど……」


 クリステルは、誰も触れなかった自分のペンダントに触ったのだ。何かしらの不思議な力を持っている事は否めないと思っていた。




 狐につままれたような気分で視線を泳がせたレオンは、前方から近付いている黒い何かに気付いた。

 それは獣の群だった。迷う事無く、こちらを目指している。


「狼だ……! 群れをなしてやって来る」

 レオンの言葉に、クリステルは弾かれたように振り返った。


「あの群をけしかける為に、牛を殺し、風の精霊を使ったのですね」


 クリステルは、動かないで……と言い置いて、自分達がすっぽり納まるような円を描くように、杖で地面を撫でた。

 群はすぐそこまで迫っていた。二十頭は越えるだろう数で、こちらを取り囲むように疾走して来る。

 馬たちは落ち着きなく、小刻みに足を動かした。


「大気の精霊よ……我らに仇なすものを遮断し、目に見えぬ壁で我らを包め」


 言い終わると同時だった。

 地鳴りのように聞こえていた群の足音も、唸るような声も、悪戯な風の精霊の歌声も、すべてが一瞬で消え去った。


「こ……これは……何が起こったんだ……?」

 しん、と静まり返った空間で、レオンの呟きがやけに大きく響いた。


 目の前まで集まって来た狼たちが、目標を見失ったようにたたらを踏む。


「外からは私たちが見えないのです」

 クリステルが短く言った。


 しかし、風の精霊が臭いでけしかけているのだろう、何頭かの狼が見えない壁に向かって飛び掛った。

 途端に、狼たちは何かの衝撃に打たれたように、もんどりうって転がった。


「もちろん、見えないだけでなく、侵入も出来ません。……こちらから出て行く事は可能ですが……」

 クリステルはそう言って、よく我慢しましたね……と、馬を撫でた。


 レオンは放心したように、のろのろと馬を下り、地面に降り立った。




 風の精霊は執拗に、臭いをこの一点に集めているのだろう。

 狼たちは時折壁の衝撃に弾かれながらも、怯む事無く周りを取り囲んでいた。


 しかし、その唸り声も、壁にぶつかる衝撃音も、レオンたちには聞こえない。

 作り物の映像を眺めているような不思議な感覚に、レオンはしばらく声を無くしていた。


「思っていたよりしつこいですね」

 クリステルが吐息混じりに言った。

「ああ……このまま夜になっちまう」

 レオンが首を横に振った。


 暗くなってしまうと、視界が閉ざされる。レオンは腰の剣をするりと抜いた。


「出て戦う」

 言うなり、身を翻した。


「お待ちなさいっ!」

 クリステルが止めたが遅かった。


 すでにレオンは、興奮しきった群の中に、その身を躍らせていた。






   つづく


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