2-1
夜半過ぎ、弥胡は妙な気配で目を覚ました。
長い夢を見ていた気がする。九重や宵慈と一緒に生きた、あの懐かしい日々と、胸がひび割れるような喪失の夢。
(ここは……、どこだっけ……)
確か、牢屋敷に連れてこられ、居房に押し込められたのだったか。そして――。
……しゃ。
ふと、耳が微かな音を拾う。
(……今、何か、聞こえた……?)
むしゃ……。
ぼんやりしていた意識が徐々にはっきりしていく中、微かに聞こえていた音は、次第に大きく鮮明になった。
むしゃむしゃ……。
それは何かを咀嚼するような音だった。次いで何やら香ばしい匂いが鼻を突く。以前嗅いだことのある匂いだ。何とか記憶から匂いの正体を引き出そうと逡巡すると、不意に強烈な飢餓感に襲われた。
勢いよく目を見開くと、目の前には闇が広がっていた。何度か瞬きを繰り返し、徐々に目が慣れて、弥胡を閉じ込めている格子が闇に浮かび上がってくる。硬い床に寝転がったまま視線を少しずつ上げて、驚愕に体が跳ねた。
ゆらゆらと炎のように揺れる鮮やかな緑色の光が二つ、格子向こう側に浮いていたのだ。
(何……?)
恐怖に喉の奥からヒッと息が漏れた。
必死に這って格子から離れる。背中が房の硬い壁に当たってそれ以上後退できないところで止まり、振り返る。
――緑の、鬼火……?
体の中心から震えが広がって、奥歯ががちがちと音を立てた。
「あれ? もしかして、びっくりさせちゃったかな?」
若い男の声が耳に響いた。
光の浮かんでいる方から、ふわりと微かな好奇心が流れてきた。身体に染み込んできたその感情に、何か引っ掛かりを感じたが、混乱で頭の中がぐちゃぐちゃだったので、違和感はすぐに通りすぎた。
「だ、誰……?」
ふふっと小さく笑う声が聞こえた。
「ああ、大丈夫、怖がらないでいいよ。よいしょ」
男の掛け声と共に、目の前が急に明るくなった。弥胡は反射的に目を瞑り、咄嗟に両手で顔を庇う。
「これで見えるようになったかな?」
軽い調子の声に、そろりと目を開ける。何度か瞬きを繰り返し、明るさに慣れて、視界に捉えた光景に瞠目した。
格子の向こう側に、緑色のものとは別の光の玉が浮かんでいる。その光に照らされて、若い男が屈みこんでいるのが見えた。
最初に注意を引かれたのは、彼の双眸だった。白目も瞳もなく、代わりに鮮緑の光が眼窩の位置で揺らめいている。まるで目玉をくりぬき、代替物として緑色の炎を入れたようだった。頭には布が何重にも巻かれていて、髪の毛はその中に隠れているようで、見えない。顔立ちは弥胡の知る誰のものとも違っていて、凹凸が目立ち、眉の下が窪んでいて、鼻がやたらと高かった。年齢は十代後半から二十代前半のように見えるが、定かではない。
交易を許された大陸の一部の国の商人が、都に出入りしていると聞いたことがある。その者たちは色とりどりの体毛で身体が覆われ、玉をはめ込んだような瞳を持ち、鼻がやたらと高いという噂があった。彼の容貌はそれに近いので、大陸の者だろうか。
肩には大きな布が巻きつけられているのでその下の服装は見えないが、むき出しの両腕に銀の装飾品をたくさん装着しているのが分かる。そのうちのいくつかは、銀銭を連ねたような意匠だった。
――妖人にしては、瞳の輝きが強い。
宵慈や九重の瞳はぼんやりと光る程度で、燃え盛る炎のような瞳は見たことがない。
あまりにも異質な容貌に、胸を突き破って出ていってしまうのではないかと思うほど、心臓が早鐘を打ちだした。
「そんなに怯えないで大丈夫だよ」
軽い口調で言うと、男は両脇に下げていた手を持ち上げた。両手首を飾る幾重もの細い銀の腕輪がぶつかり合い、シャラリと音を立てる。指にも銀の指輪がたくさんはめられていて、その手には、何故か食べかけの魚の串焼きが握られていた。
(――ん? どういうこと?)
男の異国情緒あふれる装いと、この辺りでは見慣れた串焼きが酷く不釣り合いで異様な雰囲気を醸し出している。
鮮緑に光る双眸を楽しげに歪めながら、男はおもむろにその魚を食いちぎった。むしゃむしゃと豪快にかみ砕き、ゴキュンと音が出るほど大きく嚥下した。先ほど聞こえた咀嚼音は彼のものだったらしい。
弥胡はおもわず唾を呑んだ。ここでは雑穀米と、日によっては漬物か、粗末な汁物が出される程度で、魚や肉などはまず出てこない。
男はそんな弥胡の様子を見て、きょとんと目を丸くした。一瞬の後に花が綻ぶように笑う。好奇心と歓喜の混じったものが彼から微かに漂ってきた。
「あれ、もしかして、これ食べたい? あまりに皆が美味しそうに食べていたから、僕も試してみたくなったんだけど、君、食べていいよ」
格子の隙間から食べかけの魚の串焼きを「はいどうぞ」と差し出してくる。
弥胡が警戒して近づかないでいると、彼は焦れたように持っていた串を軽く振った。
「ほら、おなかが空いているんでしょ? 早く取って」
あまりの空腹に耐えきれず、弥胡はゆっくりと格子の方へ近づいた。そっと手を伸ばすと、ひったくるようにして串焼きを受け取り、慌てて壁際へ下がる。
――食べていたということは、毒などは入っていないはずだ。
じっと手の中の魚を観察し、おずおずと一口噛んでみた。香ばしい匂いが鼻を抜け、適度の塩味と少しの苦味が口内に広がり、唾液が分泌され、舌がじんと痺れた。
一口食べてしまえば、もう止まらなかった。弥胡は夢中で魚を貪り、すっかり平らげてしまってから、指についた脂までを舐めとって、そこでやっと男の存在を思い出した。