5-2
久しぶりの弥胡目線です。
額にかかった髪を払う誰かの指の感触で、弥胡の意識が浮上した。重い瞼を持ち上げると、ぼんやりとした緑色の光が目に映った。何回か瞬きをしているうちに焦点が合い、それが覆いかぶさるようにして自分の顔を覗き込んでいるダウィルの双眸であることに気付く。
熱でもあるのだろうか、身体が燃えるように熱く、節々も酷く痛む。
「……ダウィル?」
「目が覚めた? 痛いところはない?」
痛いところ、と反芻して、自分が気を失う前、どんな状況だったのかを思い出す。
全身をぶるりと震えが走り、思わずダウィルの首に両腕を回して引き寄せた。
彼は弥胡の上に倒れ込みそうになり、慌てた様子で寝台に手を突いて身体を支えた。そのまま片手で弥胡の頭を優しく撫でてくれる。
「もう大丈夫だよ。ここは江吏族の宿泊施設で、弥胡は無事に戻ってこれたんだ」
柔らかい声が耳をくすぐり、恐怖に縮こまっていた心がじんわりと温かくなり、解れていくような感覚にうっとりと目を細めた。
「そっか……。ダウィルが助けてくれたの?」
「うん。だって、弥胡は僕のものだからね」
「……ありがとう」
――何故だか、すごく安心する。
「荒神様は……アガシャ様はどうなったの?」
「アガシャ? ああ、あの精霊に名前があったのか。アガシャは君に悪さをしたから、僕が喰ったよ」
ダウィルは事も無げに宣った。
驚愕に息を呑んで、そっと身体を離す。何を考えているか読めない彼の顔をじっと見つめた。
「喰ったって……。精霊は共喰いするっていう、あれのこと?」
ダウィルは相変わらず何の感情も伺えない顔で頷く。
「じゃあ、アガシャ様はもう、いないんだね……」
口からぽろりと零れた途端、胸が苦しくなった。目が熱くなり、涙で視界が歪む。
――狂おしいほどに人間を愛し、探し続けていた荒神。
目を閉じれば、身体を乗っ取られる寸前に同調したアガシャの感情が蘇る。弥胡の中で確かにアガシャは愛するトトチヒコの顔を思い出すことができた。優しい腕に抱かれた感触も、自分を呼ぶ声も。
――心が震えるような、あの歓喜。
(実際に再会することはできなかったけれど、せめて最期に思い出せて良かったね、アガシャ様……)
喉の奥がグッと詰まって痛い。
死の直前まで追いつめられたことに対して思うことはある。しかし、アガシャの感情に引きずられている状態だからなのか、それとも自分の本心なのかは分からないが、アガシャが思い出だけでも取り戻せて良かったと思える。絶望に狂いながら消えていったとしたら、それはあまりにも悲しいことだから。
ダウィルは不思議そうに首を傾けながら弥胡の眦に浮かんだ涙を指で拭った。
「どうして泣いているの? 怖かったから?」
「……そうかもしれない。何て言っていいかわからないけれど……。嬉しいのと、怖かったのと、安心したのと……色々混じってるんだと思う。『切ない』って言葉が一番しっくりくる気がする」
切ない、と繰り返して、ダウィルは弥胡の額に自分の額を合わせた。
「それはどういう感じなの? 教えて、弥胡。僕は今まで色々人間の生態を観察してきたけれど、まだまだ知らないことばっかりだ」
「胸がキュウってなるっていうか、考えると涙が出そうになるっていうか……」
「そうか。じゃあ、僕も『切ない』のかな」
「ダウィルも?」
弥胡は目を瞬いた。アガシャを喰ってしまったとはいえ、ダウィルも何か感慨深いものがあったのだろうか。
「うん。弥胡が泣いているのを見ると、胸がギュってなる」
言いながら、ダウィルは寝台と弥胡の肩の間に腕を回し、やんわりと抱きしめてくる。普段ならもっと強く抱き寄せられそうなものだが、きっと肩の傷痕に響かないように気を遣ってくれているのだろう。
出会った頃に比べて、彼は随分と人間くさくなったと思う。あの日、ダウィルは好奇心に満ちた目で牢に囚われていた弥胡をじっと観察していた。芝居小屋にでも来たかのような気楽さで、魚の串焼きを食べながら。それが今や、人の悲しみに心を痛めるまでになったのだ。
(ダウィルは、いつまでわたしと一緒に行動するつもりなのだろう)
神は気まぐれだ。ダウィルが弥胡に構うようになったのだって、単なる気まぐれだったのだろうし、北江偉についてきたのだって、都と違う文化に興味があったからだろう。
いつか、ダウィルはまた気まぐれに旅立って行くのだろうか。
ふと、そんなことが頭を過って胸が痛くなった。
(えっ……。待って、何でわたしズキッてなってるの?)
反射的に、弥胡はダウィルの肩を押し返していた。彼は訝し気に弥胡の顔を覗き込む。
「どうかした?」
「……何でもない」
何故だか表情を見られるのが嫌で、衾を引き上げて顔を隠した。
ダウィルに置いていかれることが、見捨てられることが怖いと感じている自分に愕然とする。いつの間に彼に対してこんなに愛着を持ってしまっていたのだろう。
(誰かがわたしとずっと一緒にいたいなんて、思うわけがないのに)
弥胡にとって、他人から嫌悪感を向けられることが「普通」だった。誰にも望まれない腐芽苦、それこそが自分である。それ故に誰かが自分に好意を抱くことがあるなどにわかには信じられないし、実際に肯定的な態度で接されると酷く困惑し、何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
そして弥胡は、親密な相手と過ごす幸せな時間はすぐに終わってしまうということを経験上知っている。九重や宵慈と山小屋で過ごしたのがたった数年間であったように、その時がどんなに幸せでも、やがて誰かに奪われる日が訪れる。
その時どれだけ自分が苦しんだか知っているからこそ、怖くて堪らないのだ。
――いつかダウィルを失って傷つくのなら、最初からそばにいたくない。
それに、と弥胡は思った。
神にとって人間とは一瞬で死んでしまう生き物だ。仮に彼が弥胡を捨てることがなくても、もしこのまま彼が今以上に弥胡に執着してしまったら。
寂寥感に狂ってしまったアガシャを思い出す。
いつかダウィルをあんな風に苦しめることになるのなら、今のうちに袂を分かつ方がお互いのためなのではなかろうか。
ずっと一緒にいてくれと縋りたい自分と、これ以上近寄るなと拒絶する自分が反発し合って、どうしたらいいのか分からず、途方に暮れた。次から次へと涙が溢れてくる。
嗚咽を堪えて唇を噛んでいると、衾ごと抱きしめられた。
「もう誰にも渡さない。弥胡はずっと僕と一緒だよ」
「……でも」
「ダメだよ!」
弥胡の言葉を遮って、ダウィルは強く言い放つ。
「僕から弥胡を奪うのは、君自身でも許さない」
まるで考えを読まれているようで、ビクリと肩が揺れた。
衾が引きはがされて、煌々と緑色に燃える双眸に至近距離から見据えられる。
「僕からはもう、逃げられないんだよ、弥胡。……諦めて?」
呪詛とも求愛ともとれる言葉は身を焦がすような熱を帯びていた。背筋が震えたのは恐怖からなのか、それとも歓喜からなのか。
不安と期待、焦燥が色濃く滲むダウィルの瞳から視線を逸らせない。どんどん速くなっていく鼓動で身体が揺れているような気さえする。
――いつか傷つくことがあっても、自分は抵抗したのだと、それでも彼が望んだからこそ共に過ごすのだと言い訳をすればいい。
ごくりと唾を嚥下して、ぎこちなく頷くと、彼はやっと安心したように口元を緩めた。
自分から飛び込む勇気はないくせに、相手のせいにしてただ流れに身を任せる。
(意気地なしで、卑怯な人間だな、わたしって……)
己を嘲りながら、額に触れた温もりに目を閉じた。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。