4-16
荒神の襲来から三日、春宮は意識不明の重体に陥っていた。肩から腹にかけて斬りつけられた傷は出血が多かった上に傷口が化膿して高熱が出ているし、落下時に全身を地面に強く叩きつけられており、予断を許さない状況が続いている。衰弱した春宮が移動に耐えられないことから、聖域に視察にきたほぼ全員が東風野に帰還せず聖域の外の宿泊施設に逗留し続けている。
そして、冬成の指示を受けて襲撃現場を検証した春宮の側近から、刺客の放った矢は江吏族独自の特徴がみられること、捕縛した刺客の中に弐泰に近い江吏族の者が複数いたことが報告された。
春宮が不在の中、現場は混乱を極めた。阿凛は自分たちは無実であると訴え、冬成も更なる調査を指示した。
しかし、報告を聴いて大騒ぎしたのが聖域の視察についてきていた四辻派の官だった。彼は冬成が止めるのも聞かずに東風野に残っていた他の四辻派の者たちに、「江吏族が第一皇子を弑そうとした」「和平条約は破られた」と訴えた。もともと江吏族を良く思っていなかった彼らは、これ幸いと江吏族討伐を朝廷に進言するため無断で都へ引き返したという。
「っていうことになってるんだって~! 何か、歴史書に残りそうな一大事だね!」
ダウィルが不謹慎にもワクワクした様子で語るのを、弥胡は寝台にうつ伏せながら苦い気持ちで聴いていた。
弥胡は矢傷の手当中、あまりの痛みに気を失い、それから二日間高熱に苦しんだ。精神干渉が解けているか分からないため、唯一接触を許されたダウィルが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれ、やっと粥を食べられる程まで回復した。爆風で飛んできた木々の破片や矢がかすった頬など、あちこちに傷があるが、適切な処置が施されている。
「大変なことになってるんだね……」
あの時、あの銀細工を投げなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
身内を蝕む罪悪感に胃が痛くなってくる。
思えばあれを購入した時も、春宮たちの足元へ投げた時も、直前に鈴の音が聞こえた。
(鈴の音……)
思い返そうとしただけで腹の底がヒヤリとするが、あの鈴の音には覚えがある。
(拉致されて、強制的に精気を吸引する儀式をした時、あの女は鈴のついた杖みたなものを持っていた)
英は鈴の音を慣らしながら奇妙な舞いを踊り、歌を歌っていた。そこから意識が朦朧とし、気付けば国満家の間者と、知らない間に運び込まれた他家の間者、合計三人の命を奪っていたのだ。
(もしかしたら、あの時、儀式だけじゃなく、鈴の音に反応するように何か別の術をかけられたのかもしれない……)
そんな術があるのかすら弥胡には分からないが、それ以外に思い当たる節がない。そして、頭に響いたあの声。念話の神通力を使う者なら、一定の距離内にいさえすれば弥胡の脳内に指示を送ることは可能だっただろう。
――他人の意のままに操られていたなんて。
ぶるりと悪寒が這い上ってきて、弥胡はギュッと目を瞑った。
(怖い……)
自分が、自分でなくなってしまったような恐怖。
「寒い?」
ダウィルは寝台の隣に椅子を持ってきて座り、傷に触れないように、慎重に弥胡の背中を撫でた。
「ううん……」
「じゃあ、お腹が減ったのかな?」
ダウィルはいそいそと粥を運んでくる。弥胡はそれを丁重に断って、ダウィルを真直ぐに見つめた。
「ダウィル。お願いがある」
「うん、なあに?」
ダウィルは嬉しそうに相好を崩す。粥を卓の上に置き、身を乗り出した。
「もし、今度わたしが急にぼんやりして、殿下や冬成様に何かしようとしたら、ダウィルに止めて欲しい」
ダウィルはきょとんとして目を瞬いた。
「僕が弥胡を止めるの? 何で?」
「わたしは、多分誰かに操られている。本当は殿下たちの誠意に報いたいのに、危険に晒すようなことばかりしている。今度また同じようなことになったら、わたしはきっと、心が壊れてしまう」
ぎゅっと衾を握りしめる。
他人を信用するのが怖かった。多分、今もそれは変わらないし、誰かに心を開くのに時間がかかると思う。しかし、春宮は弥胡を敵と決めつけず、弥胡の信用を得られるように努力すると言って、約束を守ってくれた。弥胡がダウィルに気に入られているからという理由も大きかったのかもしれない。それでも、彼は真摯に向き合ってくれたように思う。そんな彼を裏切り失望させることは、自分が裏切られることよりも遥かに恐ろしい。
ダウィルの大きな掌が、優しく頭を撫でる。
「この前も今度も、弥胡が何かをお願いするときは、誰かのためなんだね」
「ううん、違うよ。この前だって、殿下が死んじゃうようなことがあったら、わたしのせいだって思った。それが嫌だったから、ダウィルの力を借りたんだよ。今回だってそう。わたしが傷つかないように、わたしを止めてほしいんだよ」
「う~ん、分かった。でも、弥胡には責任がないことで空栖と冬成に危険が迫っても、僕は助けないからね?」
「どうして? ダウィルは殿下たちのことが好きなんだと思ってた」
ダウィルは困ったように眉尻を下げた。
「好きか嫌いかでいうと好き? なのかな? でも、僕が空栖を助けるっていうことは、『神』が第一皇子の後ろ盾になったという意味に取られちゃうからね。そうすると、本来あるべき方向に歴史が流れて行かなくなっちゃうかもしれないから、僕はできる限り、特定の人間には肩入れしないんだよね」
「弥胡は特別だけどね」と言って片目を瞑って見せる。
能天気なように見えて、彼なりに色々考えているのが意外で、弥胡は目を瞬かせた。
ダウィルは鼻歌を歌いながら部屋を出ると、今度は湯の入った桶を持って戻って来た。
「後で冬成が弥胡に話を聴きに来るって言ってたから、今のうちに身体を拭いちゃおうね!」
「……自分でできるから……」
「ダメだよ! まだ痛くて腕をあまり動かせないでしょ!」
「いや、ダメはこっちの台詞だから!」
「僕以外弥胡のお世話ができる人はいなんだからね!」
弥胡は食い下がったものの、ダウィルも断固として譲らない。攻防の末、背中はダウィルに拭ってもらい、前は自分でやるということにで決着がついた。
日々乙女として何か大切なものを失っていっているような気がする。
身を清めて再びウトウトしていると、春宮の側近の一人を連れた冬成が部屋にやって来た。
傷を悪化させないようにうつ伏せで寝ていた弥胡は数日ぶりに体を起こして寝台に座ることができた。
寝台のそばの椅子に腰かけると、冬成は少しの間様子を窺うように弥胡を見ていたが、静かに口を開いた。
「身体はどうだ?」
「おかげ様で、大分良くなりました」
冬成の隣に立っていた春宮の側近の男は不機嫌そうにフンと鼻を鳴らして弥胡を睥睨している。
「それは重畳。くれぐれも無理はせぬようにな。――それでは、あの時、何があったか聴かせてくれるか?」
弥胡はひとつ頷き、鈴の音が引き金となって頭がぼんやりすること、脳内に声が響くと、声に命じられた通りに勝手に身体が動いてしまうことを説明した。そして、英が行った儀式の際に何か術のようなものをかけられたのではないかとの考察を打ち明けると、彼は何か考え込むように拳を顎に当てて目を伏せた。
「……確かに、暗示を与えた施術者は、暗示をかけた相手にその事実を忘れさせることもできる、と聞いたことがある。覚えていなくとも、きっかけを与えることで暗示の内容を思い出させることが可能だと」
「……暗示を解く方法はないのでしょうか?」
不安になって弥胡が訊ねると、冬成は神妙な面持ちで頷いた。
「暗示とは、神通力や神力と違い、訓練次第で只人でも施術することができるようになるものなので、神庁や兵部にも何人か解除できる者はいる」
それでは、永遠に他者に操られたままというわけではないようだ。
安堵していると、冬成の眉間に力が入った。
「しかしならが、今の状態では、解除可能な者を呼び寄せることも、その者のところへ其方を行かせることもできぬ。暗示は時間と共に効果が薄れていくというが、しばらくはこのまま軟禁を続けるしか方法がなさそうだ」
弥胡はできる限り背筋を伸ばして頭を下げた。
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
冬成と一緒に来た側近の男は怒りに顔を赤らめ、唾を飛ばしながら食ってかかる。
「何をいけしゃあしゃあと! お前のせいで、殿下は意識が戻らないのだぞ! 冬成殿、このような裏切り者、生かしておく必要などございません! 危険だというのなら、この場で斬り捨ててしまえばよいだけのこと!」
「……まったくもって、その通りでございます。いかようにも処分してください」
弥胡は唇を噛んで俯いた。操られていたとはいえ、側仕えに過ぎない上に主に向かって毒を投げた弥胡を生かしておくのは合理的ではない。恐らく、ダウィルが弥胡を気に入っていなかったら冬成も迷わず弥胡の首を刎ねていただろう。
神の怒りを買わないように、ただそれだけの理由だ。春宮が弥胡を特別視しているわけでも、弥胡にそれだけの価値があるわけでもない。所詮弥胡は平民で、天招も他に数名いるのだから。
「殿下は弥胡をできる限り傷つけぬようにと命じられたのだ。殿下の意識が戻らない中、我らの一存で勝手な真似はいたしかねる」
男は忌々し気に弥胡を睨みつけた。ぎりぎりと唇を噛み締めて、今にも血が滲みそうだ。
冬成は重い息を吐くと、弥胡と男を交互に見比べた。
「兎にも角にも、今は弥胡の周囲に人を近づけぬように。弥胡もダ、九郎もそのつもりでいてほしい」
「――承知いたしました」
ダウィルのおかげで恩情をかけてもらっている弥胡に否やがあろうはずがない。
そうして軟禁という名の療養をすること更に数日、事態は最悪の展開を迎えた。
※念話=テレパシー。念話の神通力を持っている人が一方的に相手の頭に話しかけるので、相手が念話の能力者でない限り、電話のように会話はできません。