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4-8

 東風野(こちゃ)から山を一つ越えた先にあるその聖域は、神々の棲まう地として知られている。

 雲一つない空はうっそうと生い茂る巨木の枝葉で遮られ、淡い金色の帳のような木漏れ日が、たっぷりとした苔に覆われて緑色に染まった大地に降り注いでいる。

 木の根と岩の合間からはこんこんと清水が湧き出て、そこかしこに大小の池を形作っていた。


「はぁ……。すっごくきれい……。それに、何か気持ちいいですね、ここ」

 弥胡(やこ)は目の前に広がる光景に、ほぅと感嘆の息を吐いた。


 清らかな精気に満ちているのだろうか。ここへ案内されてからというもの、頭の中がすっきりするというか、身体の中に溜まっていた澱のようなものが浄化されたような、不思議な感じがする。


「ええ、そうでしょう。ここはわたしたちが代々守っている聖域ですから。神聖な力に満ちているのです」

 弥胡は隣に立って誇らしげに微笑む阿凛(ありん)を見上げた。


 春宮(はるのみや)たちがこの地に異変が起こっていることを会合で聞き、視察のため数日間、聖域の外にある江吏族(えりぞく)の宿泊施設に滞在することになった。


「阿凛様は神様に会ったことがありますか?」

「ええ、もちろんです。ここ神々の棲まう地へは江吏族の者たちが順番で見回りに来ているので、わたしも当番を務めたことがありますので」

 彼女はふふっと笑うと、優しく弥胡の肩に手を置いた。


 阿凛は神の血を引いているのだという。父親で江吏族棟梁の弐泰は受肉した神の子供なので、彼女は三世代目ということだ。見た目は二十代半ばだが、春宮や桜香(おうか)同様、見た目と実年齢は一致していないのだろう。


 聞けば、江吏族には貴族や平民といった身分が存在せず、棟梁も「江吏族のまとめ役」という感覚だそうだ。どうりで阿凛も弥胡のような一介の側仕えを見下すことなく誠意をもって接してくれるはずだ。

 彼らは肉体は死んでも魂は生まれ変わると信じていて、見知らぬ人でも前世では自分の家族だったかもしれないと考え、自然と敬意をもって接するようになるらしい。転生云々は難しくてよく分からないが、互いを尊重しあえるのはとても素敵なことだと思った。


「阿凛殿、これは何であろうか」

「それは、聖域の入口を示す目印です。あちらにあるのは――」


 春宮が苔むした地面に置かれた小ぶりの石像のようなものを見ている。阿凛は彼の隣に立って、丁寧に説明を始めた。


 弥胡は並んで立つ二人をしげしげと観察した。

(春宮殿下と阿凛様って、こう見るとかなりお似合いじゃない?)


 大柄でがっしりとした体躯の春宮に並んでも見劣りしない美女。これはいい縁談相手ではないのだろうか。もしかすると、棟梁もそういう思惑があって娘を案内役にしたのかもしれない。


「なになに、何でそんなに空栖(からす)と阿凛を見てるの?」

 ぼーっとしていたところに耳元でダウィルの声がしたので、弥胡は思わず跳び上がった。

「く、九郎! 吃驚させないでよ」


 大人の男(ダウィル)が身体を屈め、子供にしか見えない弥胡に背後から抱きついている光景にも慣れてきたのか、春宮の側近や江吏族たちが生温かい目で見てくる。恥ずかしくて仕方ないのだが、ダウィルが弥胡の気持ちを酌んで離れてくれることはない。


「え~ごめん。で、何で空栖たちを見てるの?」

「殿下と阿凛様って、並んでいると絵になるなあって思って」


 ダウィルは「絵になる?」と首を傾げている。弥胡は周囲に聞こえない程度の小声で説明する。


「殿下と阿凛様が夫婦(めおと)になられたらいいんじゃないかって」

「あ~、繁殖相手にどうかってことね!」

 ダウィルはポンと手を打って、得心がいったという顔をした。


「い、言い方!」

 あまりにもあけすけな物言いに顔が熱くなってしまった。お年頃の娘に何てことを言うのだろうか、この神は。


 恥ずかしくなってダウィルを押しのけると、すぐそばの池のほとりに屈みこんだ。底が透き通るくらい澄んだ水に手を差し入れると、痛いくらいに冷たい。濡れた手を火照った頬に押し当てるとひんやりして心地いい。


(それにしても、本当に気持ちのいいところだな。神様がいるって言われても納得だ)


 柔らかい木漏れ日をうっとりと眺めていると、目の端にキラキラしたものが映った。

 驚いてそちらへ顔を向けると、蛍のような小さな光がチカチカしながら宙を漂っていた。ともすれば埃が日の光を受けて輝いているだけに見えるそれは赤、青、緑、色とりどりだった。


「あれ、下級精霊がたくさんいるね」


 言いながらダウィルが弥胡の後ろに腰を下ろした。間に弥胡が収まるように脚を広げ、問答無用で再び抱きついてきた。


 ――ああ、まただ。

 弥胡はひっそりと溜息を吐いた。


 東風野で市場を散策した日から、彼は少し様子が変わったように思う。以前から人前で抱きついてくることはあったが、散策から戻って以来、日がな一日べったりと密着するようになった。まるで弥胡の身体に触れていないと不安で仕方がない赤子のようだ。


 湯殿に乱入こそしないが、脱衣所の入り口の前でずっと待っているし、就寝時も、ダウィルは眠る必要がないのにがっちりと腕の中に抱き込んで添い臥しをし、一晩中弥胡の寝顔を見つめているのだから狂気の沙汰である。弥胡が独りになれるのは厠だけで、心の休まる時がない。


「あれって、下級精霊なの?」

「うん。精霊って普通は人間の目には見えないんだけど、下級精霊はああやって光の姿をとることがあるんだ。あれがもっと力をつけて中級になると、動物とかに擬態できるようになるんだけどね」

「へえ~……」


 今までダウィル以外の精霊を見たことがなかった。神秘的で美しい光景に気分が高揚する。


「んも~、ほっぺが桃色になってる!! か~わい~い!!」


 ダウィルがいつものように弥胡の頭のてっぺんに顎をぐりぐり擦りつけてくる。地味に痛いので本当に止めてほしい。

 諦めてされるがままになっていると、ふと、赤い光がこちらに漂ってきた。


「うわあ、きれい!」

 周りをふよふよと漂っている小さな光に手を伸ばした。


 あと少しで弥胡の指がそれに触れそうになった瞬間、後ろから伸びてきた手が目にも留まらぬ速さでそれを握りつぶした。


 ――え……?

 突然のことに茫然と目を瞬く。


「――ダメだよ」


 普段の陽気さからは考えられないほど低い声が背後から聞こえた。


「僕のものに近寄ったら、ダメだよ」


 鼓膜に響いたその声は凍てつくように冷たい。ゾッと背筋が粟立った。


 大きくて血管の浮いたその手は、まるで飛んできた蚊を潰すようにギリギリと強く握り込んだ後、ゆっくりと指を開いていく。広げられた掌には何も残っていなかった。


「弥胡」


 静かな声で名前を呼ばれて、弥胡はビクリと肩を揺らした。


 ダウィルは弥胡を抱く両腕にぎゅっと力を込める。背中が彼の硬い胸に押し付けられて痛いくらいだった。彼は弥胡の側頭部に頬を繰り返し擦りつけた。その緩慢な動きが妙に不穏に思えて、ドクドクと鼓動が大きくなっていく。


 柔らかいものが耳朶に触れた。温かいはずの彼の唇は、酷く冷たく感じる。


「僕以外の精霊に触らないで。……ね?」

「っわ、わかっ、たっ……」

「いい子だね」

 何とか震える声を絞り出すと、彼の腕が緩んだが、解放されることはない。


 ちらりと顔色を窺うと、ダウィルは表情の抜け落ちた顔で何もない一点を見据えている。彼が乱れた気持ちを落ち着けようとしているのが分かって、弥胡は不安になった。


 ――気のせいではない。彼は今、酷く情緒不安定だ。

 今まで弥胡の行動に文句を言ったり制限をかけたことのない彼が、何故不機嫌になったのだろう。


(もしかして、他の精霊にやきもちを焼いた……?)


 そう考えて、内心首を傾げる。あまり物事に頓着しなさそうなダウィルが、果たして嫉妬などという感情を持ち合わせているのだろうか。


 思案に耽っていると、春宮の声がした。

「弥胡、ダ……九郎! そろそろ行くぞ!」

「はーい! あ~あ、せっかく弥胡とイチャイチャしてたのにぃ!」


 打って変わった明るい声にハッとした。ダウィルはが立ち上がり、無邪気な笑顔で弥胡に手を差し伸べてくる。


「ほらっ、行こう?」

「う、うん……」


 ホッと嘆息し、弥胡はゆっくりと立ち上がった。

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