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弥胡の体調が回復すると、九重は放出する精気を抑える方法を教えてくれた。野良仕事の後、二人は小屋の外で切り株に座って向き合い、宵慈はそばで寝そべって、のんびりと寛ぐのが日課だ。
「精気の放出を抑えるのは、鼻孔を塞ぎ、口で呼吸する感覚と似ておる」
「鼻を……、口で呼吸……」
真顔できっぱりと言い切られ、弥胡は一瞬ぽかんと口を開いた。
とてもではないが修行のように聞こえない。それどころか、少々間抜けで子供だましなような気さえする。もしかしたら、揶揄われているのだろうか。
思わず九重に胡乱な目を向けてしまったが、疑ってかかっても仕方がない。すぐに気を引き締め、鼻を摘まんでみた。
「手を使ってはならん。こう、鼻に力を入れ、ギュッとする」
九重の顔をじっと観察してみると、彼女の小鼻の辺りが小さく窄められたのが分る。
「こ、こう?」
何度か試して、手を使わずに鼻を塞ぐことができた。九重は小さく頷く。
「同じ要領で、精気が出ていくのを抑える。目を閉じてみろ」
「うん」
「そのまま、自分の中に流れる精気を感じるんじゃ」
「……ど、どうやって?」
「へその辺りに、熱の塊を感じないか? そこを中心に、靄のようなものが全身を巡っているはずなんじゃが」
じっと自分の内側に集中すると、へその辺りがじんわりと温かいのに気が付いた。
「あ。これ、かな……?」
「では、そこを中心に、徐々に意識を外側に広げていくんじゃ。熱が渦を巻きながら、少しずつ体外へ出ているところを想像するといいかもしれん」
弥胡はじっと意識を集中してみた。九重が言った通り、へそから中心に、じわじわとした熱が全身に広がっている感じがする。
「できたと思う」
近くで九重の満足そうな声が聞こえた。
「熱が外へ逃げているのも分るじゃろう?」
熱が身体の外枠の近くまで広がっているのは感じられる。しかし、どんなに集中してみても、熱は弥胡の体内に留まり、外へ放出されている気配がない。
「九重ばあ、おかしいよ。わたしの精気は、外へ出ていないみたい」
「何じゃと?」
怪訝な声に目を開けてみると、九重は眉に深い皺を刻みながら、地面を睨んでいる。
「ふうむ……。これは一体、どういうことなのか……」
しばらく逡巡し、厳めしい顔で、弥胡を振り返る。
「今から、わしの精気を放出する。お前さんは目を閉じて、自分の精気がどこへ伸びるか確認するんじゃ」
「分かった」
すっと息を吸い込んで、自分の中心に意識を向ける。精気が渦を巻いているのを確認して、九重に「いいよ」と声をかけた。
九重がふう、と息を吐く音が聞こえた。少しして、身体の外側に向かってゆっくりと広がっていた熱が、急激に内側へと収縮するのが分かった。しかも、身体の外枠から温度の違う熱が体内に勢いよく流れ込み、自分の熱に巻き込んで中心部に集まりだしたのだ。
その瞬間、猜疑心、不安、そして少しの好奇心を混ぜたものがぶち撒けられ、一気に弥胡の心を染め上げた。
「うあ!」
久々に感じる不快感に、思わず身を捩って目を開ける。顔を歪めながら九重を見上げれば、彼女の双眸は黒目の部分が青味を含んだ白に近い色にぼんやりと光っていた。
弥胡の反応を見た九重が慌てて精気の放出を止めたのか、体外から侵入していた熱がふつりと途切れた。
「大丈夫か?」
九重は肩で息をする弥胡に水の入った椀を渡した。一気に水を飲み干すと、荒れ狂っていた体内の熱も元通りになった。
「だ、大丈夫……」
「それで、どうじゃった?」
「身体の外から、熱をぐいぐいわたしの中に吸い込んでいるみたい。多分あの熱が九重ばあの精気なんだと思う。身体の外にある時はわからないけど、中に入ってくるとわたしのとは温度が違うから、入ってきたって分かる」
九重は目を見開いた。
「何と……! お前さんは精気を放出せず、逆に吸い込んでいるのじゃな」
「そうなるのかな」
「ううむ……」
九重は顎に手を当て、じっと考え込んでいる。そんな彼女の様子に、弥胡は不安を覚えた。
「ねえ、そんなに変なことなの?」
「……いや、何とも言えん。わしは未だかつて、他者の精気を吸い込んだことはないし、どうしたらそんなことができるのかも分からん。宵慈、お前さんはどうじゃ?」
少し離れたところで成り行きを見守っていた宵慈はこてりと首を傾げた。青味がかった銀色の体毛が陽光でキラキラして、黒い双眸はじっと考え込むように二人を見つめた。しばらくして「キャウ?」と鳴いた。
「宵慈も覚えがないようじゃな……」
九重は眉間の皺をより一層深めて、弥胡の肩に手を置いた。
「以前、お前さんは他者の耳や目に憑いて妖力を使っていると言ったが、訂正したほうがよさそうじゃ。憑いているのではない、どちらかといえば、盗っている、と言った方がいいかもしれん」
「盗っているって! わたし、やろうと思っているわけじゃなくて」
「それはわかっておる。わしが言いたいのは、自分の精気を伸ばして相手に干渉しているのではなく、相手の精気を自分に引き込むことで干渉している、ということじゃ」
腕を組んで考え込んでみても、何だか難しく、よく理解できない。
九重は皺くちゃの手で弥胡の頭を撫でた。
「お前さんはまだ十かそこらじゃ、理解できんのは仕方ない。精気を放出するのが制限できるのだから、吸引することも、同じ要領で制限できるはずじゃ。試してみる価値はある。諦めるでないぞ」
「分かった。わたし、頑張るよ」
九重は大きく頷いた。
「では、先ほどと同じように、目を閉じて自分の精気を感じてみろ」
弥胡は頷いて、言われた通りに集中する。
「今からわしの精気を解放する」
九重の言葉の直後、緊張と好奇心、一抹の不安を混ぜたものが濁流となって体内に流れ込んでくるのが分かった。
「ううっ……」
額に脂汗が滲む。ドクドクと跳ねる鼓動の向こうで、九重の言葉が微かに聞こえた。
「鼻をぎゅっとすぼめたときを想像してみろ。同じ要領で、精気を吸入している場所をぎゅっと窄めることを頭に思い浮かべるんじゃ」
(小鼻をぎゅっ……。小鼻を……)
焦燥感に苛まれながらも、小鼻を窄めてみる。
「本当に小鼻を動かしてどうする! まずはどこから精気が流れ込んでいるのか見極めろ!」
体内にどっと呆れが侵入してきた。九重のものだろう。宵慈でないことを願う。
(うう……。そうだよね、あくまで頭の中で想像するっていうだけで、本当の鼻を動かしても意味がないのに)
弥胡は少し恥ずかしくなった。熱くなった顔を振って、自分の内側に集中する。
すると、侵入してくる熱は特に両手、両目、鼻、口に集中していることが分る。
(きゅっと、きゅっと、す、窄め、る……)
始めは思考につられて実際の身体の部位を動かしていたが、休憩を挟みつつ何度も訓練することにより、流れ込む精気を格段に減らすことができるようになった。
吸引を完全に抑えることはできないが、今までよりは各段に生きやすくなるだろう。
「よくできたな」
九重が精気の放出を止めたときはすでに日が暮れていた。弥胡は疲労困憊で指一本動かすことができなかったので、宵慈が襟首を咥えて寝床まで連れて行ってくれた。宵慈は弥胡の修行に満足しているようで、喜びが伝わってきた。
「宵慈やわしの感情が毒にならないなら精気の吸引を抑える必要はないが、先のことを考えると、常に制御できるようにしておいた方がいいぞ」
「うん……。明日から頑張る。……ありがとう、九重ば……」
言い終わらないうちに、疲れ切った弥胡は深い眠りに落ちていった。