3-20
「お前が弥胡か?」
弥胡は三枚重ねた畳の上で脇息に寄りかかっている男を見上げた。たいそう大柄で、冬成とは違った趣だが、整った顔立ちの益荒男だ。日に焼けた肌がどこか快活な印象を与える。見るからに高価な織物で誂えた朱色の直垂と黒い袴を着崩し、硬質そうな黒髪は後ろで無造作に束ねられていた。
雲の上のお方は太くしっかりとした眉を寄せ、観察するような目つきで弥胡の顔を見た。
「はい、わたしが弥胡でございます」
弥胡はおっかなびっくり答える。丁寧な口調は桜香に教え込まれたが、流石に皇子と話す際に用いるべき慇懃な口調は習っていない。無礼打ちにされやしないだろうか。
「お前のことは、冬成と、そちらのダウィル殿から伺っている」
弥胡は思わず隣に座っているダウィルを振り返った。彼は弥胡に向かって何度も片目を瞑ってみせる。何かの合図だろうか。全く意味がわからないけれど。
一体、どんな話をしたのか知りたいが、今訊くのは憚れる。
「して、何故わしを襲ったのじゃ?」
いきなり核心を突かれて、弥胡はぐっと口を引き結んだ。洗いざらい話してしまいたいのはやまやまだが、三明の命がかかっている以上、それはできない。
「い、言えません」
「……誰かに脅されたか?」
春宮の口調に少しの同情が混じり、弥胡は肩を震わせた。俯いて目を逸らすと、それを肯定と取ったのか、彼は「誰に脅された?」と追及してくる。
弥胡が無言を貫いていると、冬成の冷ややかな声が耳を打った。
「殿下、私からよろしいでしょうか?」
「許す」
「……弥胡」
恐る恐る顔を上げると、冬成は真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「あの妖獣は、お前が山小屋で飼っていたという狼か?」
「……はい。宵慈はわたしの家族です」
「宵慈はどこに行った?」
「逃がしました。わたしと一緒にいても危険なだけだから」
「……その頬は、誰にやられたのだ?」
「……ぶつけただけです」
「以前、英が躾と称して其方に扇を突き付けていたが、もしや今回も英がやったのではないか?」
思わず目を逸らし、身体を強張らせてしまった。
態度で肯定してしまっただろうか。まんまと誘導されているようで焦りが増す。脈拍が速くなり、腹が痛くなってきた。
「其方は三明と親しかったな」
「……三明は、わたしの指導役ですから」
「三明を質に取られたのか?」
脳裏に虚無を映す瞳をして口から血泡を吹く、夢の中の三明の生首が浮かんだ。弥胡は思わずぎゅっと目を瞑った。
「正直に話してはくれまいか? 三明を救ってやれるかもしれぬ」
「かもしれない、って……」
そんな曖昧な言葉に三明の命を賭けるわけにはいかない。
弥胡は思わずカッとなり、勢いよく冬成を振り仰いだ。
「じゃあ、救えないと判断されたらどうするんですか? どうせ、わたしが子供だから、口先三寸で丸め込めると思っているんでしょう!? 貴族にとって平民の子供なんて、塵みたいなもんじゃないですか。白状させるだけさせて、利用価値がなくなったら始末するくせに!」
鼻に皺をよせて冷然たる美貌を睨み据える。両手で袴を強く握りしめて怒りを逃がそうとするが、上手くいかない。
冬成は眉間の皺を深めた。
「勝手な憶測でものを申すな」
「大人は信用できない! 話すことなんて何もないよ! わたしは罪人なんだから、さっさと殺せばいいじゃないか!!」
そうすれば、何も知らない三明は解放してもらえるのではないだろうか。
大人はあまりにも身勝手だ。平凡な日常を奪って、役目を押し付け、逃げられないように追い詰めた挙句に、守りたい仲間すら危険に晒す。
「弥胡、わしを見ろ」
渋々視線を春宮へ向けると、彼は温かみのある眼差しで弥胡の目をじっと見つめた。
「お前、神庁には『星読の巫女』として登録されておるのは知っているな? たしか、念聴と千里眼の神通力使いだったか」
弥胡は無言で首肯する。
「しかし、昨日の襲撃で、お前は補魂でわしらの精気を吸引し、あまつさえダウィル殿の神力を駆使してみせた。要するに、お前の本来の所属は星読ではなく、天招であるべきなのじゃ。言うておることが分かるか?」
「……はい」
「ということは、お前は自分の本来の能力について教わっていて、敢えて所属を偽っておったということになる」
春宮は弥胡の表情の変化を少しも見逃すまいとするように双眸を据えたまま続ける。
「しかしながら、お前が自ら周囲を謀っておったとするには、あまりにも不自然すぎることがある。一つ目は神庁に巫女や巫覡が登録される際、平民であるお前は能力の自己申告が認められておらず、必ず念視の神通力使いが確認することになっておる。故にお前が自分の能力を偽ることは実質不可能だと言っていい」
春宮は唇を舐めて湿らした。
「二つ目は桜香がお前に座学を教えておったことじゃ。通常であれば、星読だとされるお前につけられるのは、中位の星読のはず。にも関わらず、上位の鬼鎮、おまけに神力使いである桜香がお前を受け持った」
弥胡はごくりと唾を呑んだ。段々と確信に近づいていることが恐ろしい。
「これだけを考えると、まず桜香が怪しいと思うであろう。しかし、桜香は人事を取り決める立場にいないばかりか、実家は朝廷で中立派を貫いており、今回の襲撃を企てる動機がない。そこで疑わしいのが橘じゃ」
弥胡の身体がビクッと跳ねた。それを見逃さなかった春宮が目を眇める。
――ああ、本当にわたしは隠し事に向いていない。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……。このままじゃ、三明が……)
嫌な汗が背中を伝う。段々呼吸が浅くなってきた。
「橘は四辻から重用されており、桜香にも指図できる立場におる。おまけに四辻は第二皇子派の筆頭じゃ。わしを襲う動機は十二分にある」
春宮は形のいい唇をにやりと歪めた。弥胡に話など聴かずとも、すでに黒幕を把握していたのだ。弥胡から話を聴きたがったのは、念のため確信を得たかったからかもしれない。
弥胡は血の気の引いた顔で春宮をじっと見上げる。
「弥胡よ、お前が言うたように、大人は信用ならん腹黒い狸ばかりじゃ。お前が証言しおったとしても、四辻は『たかが子供の戯言』と取り合わぬであろう」
春宮はおもむろに立ち上がり、弥胡の目の前に屈みこんだ。寛容さと力強さを湛えた黒い瞳が弥胡を覗き込む。
「しかし案ずるな。三明とやらは、わしが必ず助け出してやる。今はわしを信用できんじゃろうが、お前が信用してくれるよう、わしも行動で示そう」
大きくて温かな手が、弥胡の頭をわしわしと撫でる。
がさがさにひび割れていた心の瘡蓋が優しく剥がれ落ちて行ったような錯覚に陥った。
――この人は、自分を信じろとは言わないのか。
それどころか、明らかに暴言を吐いた弥胡を咎めることもしなかった。
(皇子様っていうから、もっと偉そうな人を想像していたけれど、この人はちょっと違うみたいだ)
本当に、三明を救ってくれるのだろうか。ふと、そんな希望に縋りたくなり、慌てて己を律する。
――いや、期待していはいけない。期待すれば、いつか必ず失望する日が来る。
弥胡は目を眇めて春宮を見た。
「殿下は……わたしを処刑しないのですか?」
彼は思い切り顔を顰めた。
「お前が大勢の前で襲撃してきた手前、流石に無罪放免にはできん。しかし、お前を磔にしたとて、四辻が大人しくなるわけではないからの。処分は追って下すが、今は北江偉までわしに同行してもらう」
「北江偉?」
聞いたことのない地名に眉を顰める。
すると、それまで大人しく成り行きを見守っていたダウィルが羨ましそうに声を上げた。春宮にずいっと顔を寄せる。
「北江偉に行くの!? いいなあ! ねね、僕も行っていい?」
「北江偉に興味がおありなのか?」
「北の方は都とかなり文化が違うって本に書いてあったんだよねっ! 民俗学者の僕としては、是非見てみたいなあ。それに、弥胡も行くなら、また逢引できるかもしれないし」
「あ、逢引……?」
春宮は若干引き攣った顔でちらりと弥胡を見た。弥胡はいたたまれなくなって顔を背けた。
「では、引き続き人目を引かない姿で御同行願う。弥胡、お前は監視対象となっておるから、冬成の目の届く位置にいるように」
いくら弥胡でも、拘束もされていないのは破格の待遇であると分かる。異論などあるはずもなく頷いた。
「で、話はもう済んだ? 弥胡はまだ本調子じゃないから、もう寝かしつけたいんだけど」
「ああ、もう下がっていただいて問題ない」
「ほら、弥胡、もうねんねの時間だよ! じゃっ、空栖、冬成、また明日ね~!」
春宮が頷いたのを見て、ダウィルは大喜びで弥胡を抱き上げると、いそいそと部屋の戸口へ向かう。弥胡は慌てて背後を振り返り、苦笑いを浮かべる春宮に頭を下げた。
***
呑気な神が嵐のように去った部屋で、空栖はちびちびと酒を飲んでいた。次から次へと面倒ごとが舞い込んで、飲まねばやっていられない。
脇に控えた冬成が難しい顔をしている。顎に手を当てて、伏し目がちに呟いた。
「それにしても、何故橘は弥胡を秘密裏に四辻の私兵としなかったのでございましょうか。あのように大っぴらに神庁で修行させておくより、存在を完全に秘匿し、修行を積ませてから奇襲をかけた方が、暗殺が成功する可能性が上がりましたでしょうに」
「……四辻の私兵として奇襲をかけては、失敗成功どちらにしても、四辻が実行犯であることは言い逃れができぬ。その点、神庁なら数多くの貴族が仕えておるし、派閥も複数ある。確たる証拠さえ掴ませなければ、弥胡がわしを殺し損ねたときに、中立派の桜香が叛意を持って行ったことだとでも言えるからじゃないか?」
とはいえ、冬成が言うように、計画があまりにも杜撰に思えて仕方ない。
弥胡は暗殺者としての訓練など受けたことがないはずだ。実際、空栖を確実に仕留めるためには、精気の吸引を彼のみに絞って一気に奪い去る方が正しかった。にもかかわらず、彼女は妖獣と自分の身を守るために、対象をその場にいる全員に拡大してしまい、結果として任務に失敗し、捕らえられた。
素人の弥胡を刺客として送り込んだのは何故なのか。
――もしかすると、四辻の目的はもっと別のところにあるのではないだろうか。
今回の事件は陽動で、もっと大がかりな計画を練っているとか。神の手前、弥胡を害することができないと分かっていて、わざとこちらの懐へ潜り込ませたとか。
酒の入った盃をくるくると回しながら、しばし思案に耽る。酒が波立ってチャポチャポ音を立てた。
「兎にも角にも、まず三明とやらを保護せんといかんな。お前の配下にそのように指示しておいてくれ」
酒を一気に煽り、ふうと短い息を吐く。生温いものが喉を通って胃に滑り落ちる。
「御意」と応えた後、冬成は顔色を曇らせた。
「しかし、弥胡が天招だったとは、想像もいたしませんでした。どうりで神力使いの桜香が指導に当たるわけですね」
「そうじゃな。何かあるじゃろうとは思うておったが、まさか天招とは」
天招は神や神力使いの精気を体内に取り込み、神力を発動させることができる。天招であることを秘匿している以上、神力使いであり学に秀でた桜香は空栖の目から見ても正に適切な指南役と言えた。
空栖と冬成が数々の手がかりを掴んでも弥胡が天招である可能性を考えられなかった理由は、ひとえに彼女の年齢に尽きる。補魂の性質をもちながら、何の対策もなしに十四歳まで生き残ることは、ほとんど不可能と言っていい。
「おまけに、かなり強力な天招といえる。弥胡は相当に甕が大きいのじゃろうな。あれだけの人数の動きを封じておったのに、お前が背後を取るまで吸引が止まる気配はなかった」
空栖はあの襲撃に記憶を馳せる。弥胡は少なくとも十五人の精気をあの小さな身体の内側へ引き込んだのだ。しかも、一人は皇族の中でも神力の強い空栖である。
通常、補魂の性質を持つ者の甕が満たされれば、自然と吸引が止まるものだ。対象人数があまりに多かったため吸引の速度が遅かったり、個人でばらつきがあった可能性は大きいが、それを差し引いても、どれだけ彼女の甕が大きいのかが分かる。
「あれだけか細い身体のどこにそんな力を秘めておるのか。わしに同行させている間は、滋養強壮によい食物をたらふく食べさせねばならんな」
冬成は一瞬ポカンとしたが、すぐに目元を緩ませた。
「殿下に御子がお生まれになったら、目に入れても痛くないほど愛しまれるのでしょうね」
「……ややの前に妃をもらわねば、話にもならんではないか」
空栖は照れ隠しにムッツリと顔を顰めてそっぽを向いた。
ちょっと長いですが、ぎゅっと全部1エピソードに押し込んでみました