3-8
修行が終わり、三明と湯殿へ行こうと回廊を歩いていると、先ほど弥胡の文句を言っていた念聴の能力者たちが行く先を塞いでいた。
そのうちの一人が前に出て弥胡を指さす。
「おい、お前!」
「……わたしのこと?」
「お前以外に、誰がいる! 雪之丞様にご挨拶もせずに去ろうとは、下賤の者がいい度胸じゃないか!」
弥胡が眉を顰めて三明を振り返ると、彼女は小声で耳打ちする。
「たしか、下級貴族の五男か何かだったわ」
「貴族でも、下位の者同士だから立場は同じなんじゃないの?」
「建前上はね。でも、何かあったときに出自で扱いが違ってくるから、機嫌を損ねるとまずいわ。挨拶しておいた方がいいわよ」
弥胡は溜息を吐いて、真中に立って顎を上げ、偉そうにこちらを睥睨している巫覡を見た。あいつが雪之丞だろう。後頭部の高い位置で括られた髪は硬質そうで、平凡な顔の上部でゲジゲジ眉毛がかなりの存在感を放っている。三明と同じくらいの年だろうか。
「……弥胡と申します。よろしくお願いいたします」
「何だ、その棒読みは! 私に対する敬意の欠片もないではないか!!」
雪之丞は鼻に皺を寄せて肩をいからせた。
敬意が見えないのは仕方ない。持ち合わせていないものが態度に出るわけがないのだから。
雪之丞と取り巻きたちは青筋を浮かべながら、何かをぎゃあぎゃあと喚いているが、声が重なって聴き取り辛い。ここは適当に謝っておいた方がいいのだろうか。
「申し訳ありません」
「貴様! いかにも面倒くさそうに!」
弥胡たちを呼び止めた雪之丞の取り巻きその一が足音荒く近づいてきて、弥胡の手首を掴んだ。
「桜香様に目をかけていただいているからって、いい気になるなよ、この醜女!」
(醜女で悪かったな、お前だって印象に残らないくらいぼんやりした顔だろ!)
睨んだり言い返したりしたら、以前あの女に殴られたように無体を働かられる可能性がある。もう三明を巻き込みたくない。
弥胡が悔しさに唇を噛むと、彼らの背後から、やる気のない声が聞こえた。
「おうおう、回廊を塞いで、いいご身分だな」
その場の全員の視線が、声の主を振り返る。
月夜がやニヤニヤしながら立っていた。両手を頭の後ろで組んで、雪之丞に揶揄うような視線を送っている。
「何の用だ、月夜」
雪之丞が憎々し気に吐き捨てる。
「聞こえなかったのか? 回廊を塞いで邪魔だって言ったんだ。さっさとどけよ」
「何だと!?」
取り巻きその二が喰ってかかるが、月夜は目もくれなかった。
「いいのか? そろそろここを冬成様がお通りになる時間だ。俺と違って帰る家のあるお貴族様は、四大貴族の不興を買ったらまずいんじゃねえの?」
皮肉気に口の端を引き上げた月夜の言葉に、雪之丞と取り巻きたちの顔が青ざめた。
(冬成……。聞いたことがある)
ちらりと三明を見ると、彼女の目はキラキラして、頬が紅潮していた。
記憶を探っているうちに、冷然たる面持ちの美丈夫が頭に浮かんだ
(ああ、あの美男子か!)
どうりで三明がそわそわしているわけだ。名前は忘れてしまったが、あの上位巫女に喉をやられた時に助けてくれた巫覡だ。それにしても、上位には嫌な奴が多い。階級を上げるには性根の悪さが必須項目にでもなっているのだろうか。
「チッ。今日はここまでにしておいてやる。おい、行くぞ」
雪之丞は踵を返して歩き出す。取り巻きたちも慌ててその後に続いた。月夜のそばを通り過ぎる際に、雪之丞は「いい気になるなよ」と捨て台詞を吐いていった。
「ったく、お前は絡まれてばっかりだな」
月夜は面倒くさそうに言いながら、弥胡の脇を通り過ぎた。
「ありがとう」
「別に。俺は虎の威を借りただけだ。早く行かねえと、湯殿が混んでくる刻限じゃねえの?」
月夜は「じゃあな」と手を振って、弥胡たちとは反対方向へ去っていった。
「月夜の言う通りだわ、行きましょう」
弥胡は頷いて、三明と共に湯殿へ向かった。
***
訓練棟の柱の陰から一部始終を見ていた冬成は、怠そうな足取りの月夜が近くに来ると、回廊へと踏み出した。彼の姿を見て、月夜の肩がビクリと跳ねる。
「月夜」
「うおっ! 冬成様。何かご用でしょうか?」
冬成は回廊の角を曲がっていく弥胡たちの後ろ姿を見つめた。
「其方、あの巫女とは知古の仲か?」
月夜は首を傾げた。
「……弥胡のことでしょうか? 知古の仲というわけではありません。たまに食堂で顔を合わせる程度です」
「ああ、三明ではない方の巫女のことだ。……そうか、あれが弥胡なのだな」
冬成は鬼鎮の上位巫覡で、戦闘訓練を指導している身だ。下位とはいえ同じ神通力使いの鬼鎮である月夜が三明と組んでいるのは把握している。
「……弥胡が何か粗相をいたしましたでしょうか?」
月夜が訝し気に眉根を寄せた。冬成が首を横に振ると、彼は安堵したように小さく息を吐いた。先ほども助け舟を出してやっていたし、どうやら彼なりにあの巫女のことを気にかけているらしい。
「いや、粗相をしたわけではない。ただ、少し情報が必要でな。其方、弥胡について知っていることを教えてはくれぬか?」
月夜は「情報」と呟くと、一瞬だけ斜め下を見た。
彼は「私が知っていることは多くはございませんが」と前置きしたうえで、弥胡が山小屋で暮らしていたこと、ああ見えて十四歳であること、星読だが桜香に特別な指導を受けていることなどを話す。
「星読なのに、鬼鎮の桜香が指導を? それは不自然だな……」
冬成が顎に手を当てて呟くと、月夜も腑に落ちないといった風に頷いた。
「それは、私も疑問に思っておりました。三明が言うには、山小屋育ちで行儀を知らず、ひとりだけ新参者で皆より座学も遅れているため、桜香様が担当されている、とのことでしたが」
本来であれば、新しく保護された巫女や巫覡は配属先の中位巫女が座学の担当をし、ある程度の知識を身につけた後、先達たちに混じって実技の修行に入ることになる。いくら山育ちで人に慣れていないとはいえ、上位巫女でおまけに鬼鎮である桜香が担当することは異例中の異例だった。
基本的に、諜報を主な任務とする星読と戦闘を主な任務とする鬼鎮では管轄が違うため、お互いの所属員や指導の担当者について共有することはない。例外となるのは、三明のように諜報と戦闘両方の任務に関わる者だけで、その場合でも鬼鎮側には彼女の能力についてのみ情報共有が行われる程度だった。
そのため、諜報特化の星読である弥胡の情報が鬼鎮の冬成に与えられていないことは不自然ではない。
神庁に登録されている全ての巫女・巫覡は名簿に登録され、冬成のような上位の指導者は自由に閲覧できるが、記載されているのは名前と能力のみだった。
(桜香は中級貴族の植野家の姫だったな……。朝廷での立ち位置は常に中立を保っている家だが……)
冬成は不安気な顔の月夜に視線を戻すと軽く手を振った。
「時間を取らせたな、もう行ってよい」
月夜は釈善としない様子だったが「はっ」と一礼し、訓練棟の奥へと去って行った。
冬成は執務棟にある自分の執務室へ向かいながら、弥胡についての情報を頭の中で反芻した。
神に魅入られた巫女であること。星読にも関わらず、鬼鎮が担当していること。
――何やら妙な胸騒ぎがする。
(取り急ぎ、春宮殿下にご報告せねばならん)
足を速める彼の後ろ姿を、じっと陰から見つめている者がいることには、終ぞ気付かなかった。