3-6 精霊のかわいい人間だから
タイトルは「精霊のかわいい人間だから」と読みます。タイトルにルビを振る機能がなかった...。どうしてもこのエピソードにタイトルをつけたかったので、今回だけつけてみました。
風に乗って舞い上がったダウィルは、食堂の屋根にふわりと降り立った。
井戸の方を見やれば、弥胡が困惑したように辺りを見回しながら、自室のある下位巫女棟へ向かって歩き出すところだった。それにつれて、己の精気の気配も移動する。
先ほど弥胡に渡したものは、ダウィルの精気を凝縮して固めたものだ。あれを持たせておけば、彼女が何処にいるのか常に把握することができるし、どんな状態であるのかも感知できる。
そして、あれは弥胡の甕を満たして余るほどの精気でできているため、体内に取り込めば、少しの間ダウィルの神力を駆使できるだろう。
「ふふっ。しっかりと唾をつけておかないと、鳶に攫われるからね」
ダウィルはクスリと笑う。身に纏った大量の装飾品がシャラリと音を立てた。
大陸の人間を模したこの外見は彼のお気に入りだ。肉体を持たない故に本来は不可視な精霊が、何かに擬態して顕現するには膨大な精気を要する。特に心身の構造が複雑なものの方が消費量が多くなるので、人間や獣に擬態できる精霊は、己の力の強さを誇示しているようなものだ。
特に人間に化ける際には彼らの習慣に従って肌を隠すため、肉体のみならず、身に纏うものも全て精気で作る必要がある。そうしないと、擬態を解いた時に衣服だけがその場に残されたり、別の生き物に擬態した際に破けてしまうからだ。そして、衣服も肉体同様、作りが精巧であればあるほど、消費する精気も増える。
それを理解しているものが見れば、精緻な刺繍を施した衣服に、細かく複雑な文様がびっしりと刻まれた装飾品をこれでもかと身に纏っているダウィルが、その姿を保つだけで途方もない量の精気を消費していることが一目瞭然だろう。
それでも無意識に放っている余分な精気程度しか消費していないのだ。先ほど都で出会った神波国の第一皇子は、それを直感で悟ったのだから感心した。
「空栖も面白そうだったなあ。今度皇宮まで遊びに行こうかな」
ダウィルの姿が陽炎のように揺らいで搔き消えると、淡い黄色の毛並みと緑色の目をした猫が姿を現した。
彼は上機嫌に髭をそよがせながら歩き出す。屋根伝いに訓練棟まで移動して、屋敷全体を見渡せる場所で座り込んだ。
朝廷から潤沢な資金を提供されているこの神庁管轄の屋敷では、夜でも個人部屋に灯りが見える。あの灯りひとつひとつに物語があると思うと、胸の奥が切なく疼いた。耳を澄ませば下女たちが食器を片付ける音、衛兵が見回りを交代をする声、上長が部下を叱責する罵声、様々な音が鼓膜を楽しめる。
「はあ……、人間の世は、何て素晴らしいんだろう」
ダウィルはうっとりと呟いたが、傍から聞けば猫が「にゃーん」と鳴いたようにしか聞こえないだろう。自分でも知らないうちに喉がゴロゴロ鳴っていた。何かに擬態するときは、その習性に引っ張られてしまうのだから、仕方ない。
ダウィルにとって、人間とは実に不思議な生き物だ。
精気の塊であり、寿命のない精霊にとって、彼らは驚くほど一瞬で生涯を終えてしまう。余りにも儚い生き物である彼らは、「生きる」ということに執着し、足掻くのだ。
その姿は美しくも醜悪で、脆くありながらも力強い。矛盾に満ちて、時にダウィルの想像をはるかに凌駕した複雑な物語を紡いでみせる。人間を知れば知るほど飽くなき興味が湧き、ダウィルは彼らの全てを知りたくなった。
始めは遠巻きに観察するだけだったのが、いつしか人間に擬態して市井に紛れ込み、間近でその生活を体験するようになった。人間がどういう状況でどんな反応を見せるのかを学び、それを真似るのは実に面白い。
ひょんなことから民俗学者という肩書があると知った時、自分にぴったりだと感激した。それからは、自己紹介する際に民俗学者であると名乗っている。相手のポカンとした顔を見るのが好きなのだ。
神波国に来たのは、純粋な好奇心からだった。大陸をふらふらと彷徨い歩くうちに、東の果てまでたどり着いた。そこで人々の会話に耳を傾けたり、暇つぶしに本を読み漁ることで、海を渡れば今まで見たものとはまるで違う文化が待っていると知り、うきうきと風に乗ってやってきたのだ。
この地域を通りがかった時、何故か酷く胸騒ぎがした。何かに誘われるように進んだ先にあったのが、あの牢屋敷だった。牢番がいたので擬態を解いて侵入し、居房で転がっていた弥胡が目に映った時、「この子だ」と思った。それが何を意味するのか、自分でも未だに分からない。
怯える彼女の気を引きたくて、たまたま持っていた焼き魚を与えてみた。無我夢中で魚を貪る少女の姿に恍惚と見入ったのを覚えている。本能的に生きようと必死にもがく様はダウィルにはとても眩しく映った。彼女の死んだ魚のようだった目に光が宿り、警戒しながらも徐々に心を開いていく様を見ると、何故か胸の奥が疼くのだ。
「さっき、僕が串を食べた時の顔も、かわいかったなあ」
大きな黒い目を見開いた彼女の顔を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。
ダウィルにとって、鶏肉も串も、燃料にならないという点で大して変わらない。咀嚼した時の感触が面白いので気まぐれで食べていたのだが、弥胡を吃驚させてしまった。どうやら、あれは人間にとって危険な行為であるようだ。今日も一つ、勉強になった。
先ほどの様子では、弥胡はダウィルの正体に気づいたが、敢えて答え合わせを避けたようだ。
あの首飾りを贈ったのは、猫に擬態していた時に干した果実をもらった礼もあるが、正体を見破ったらいいものをやる、という約束を果たすためでもある。
本来であれば、きちんと口に出して確認されてから贈るべきなのであろうが、ダウィルが精霊であると悟りながらも口にしなかった猜疑心と警戒心の強さにゾクゾクして、ご褒美をあげたくなったのだ。
「君はこれから、どんな風に僕を愉しませてくれるのかな……」
ぐんと肢体を伸ばすと、ダウィルは屋根から飛び降り、夜闇に紛れて姿を消した。