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1-2

 月のない夜だった。

 感情に酔って寝込んでいた弥胡(やこ)を背負い籠に入れて、両親は山へ入った。目隠しをされていたので、どこをどう進んだのかも分らない。

 延々と歩いて、急に籠を地面に下ろすと、父はギラギラした目で弥胡を睨みながら言った。


「戻ってくるんじゃねえぞ、弥胡。戻ってきちまったら、今度は崖の上から海へ落とさなくちゃならねえ」


 咽返るほどの罪悪感がこみ上げた。喉が焼けるように痛む。続けて胸に去来したのは震えあがるほどの恐怖。身体が小刻みに震える。


 もしかすると、これは両親がこの瞬間に抱いている感情なのか。我が子を捨てていくことに対して、多少なりとも感じるものがあるらしい。


 それが嬉しいのか、悲しいのか、あるいは何も感じていないのか、弥胡には自分でも分らない。だって、自分の感情はいつだって誰か別人のもので塗りつぶされてしまうから。


 父の後ろで立ちすくんでいた母は、震える声で絞り出した。

「恨むなら、腐芽苦(ふがく)に生まれちまった自分を恨んでおくれ、弥胡」

 痛いものを堪えるような顔で弥胡を見て、両親は踵を返して山道を歩き出した。


 弥胡は動くこともできず、ただその場に身体を横たえた。ヘドロのような罪悪感も、恐怖も次第に薄くなり、やがて消えた。ホッと息を吐く。

 残ったのは、痺れたような感覚だけ。

 こんなに頭の中が空っぽになったのは、いつが最後だっただろう。

 暗闇の中、木々が風に揺れ、葉が擦れあう音が耳を打つ。


 飢えて衰弱し、そのまま朽ち果てるためだけにここへ連れてこられた。

(そうか、父ちゃんたちは、ついにわたしを見限ったんだ)

 そう思った瞬間、胸をぎゅっと締め付けられるような痛みを覚えて、身体を丸めた。

 この痛みは、一体何だろう。膝小僧を擦りむいたときの童から流れてくるものに似た、この感情は。以前、体験したことがあったはず――。

(――ああ、そうか。わたし、傷ついているんだ)

 その言葉は、今自分が抱えている感情に酷く似つかわしい。


「ふふふっ」

 乾いた笑いがこぼれる。


 こんな惨めなものが、初めて自覚した感情だったなんて。

「わたしは腐芽苦、誰にも望まれない子……」


 ぽつりと呟く。地面に仰向けに寝転んで、耳を澄ました。

 風の音、虫の声、どこかで動物の動く音も聞こえる。


 ボロボロの家で部屋の隅に蹲っていると、兄姉のいびきだけが聞こえたっけ。ここへ連れてこられなかったら、今頃、夢を見ている家族の感情に溺れていただろう。嫉妬、怒り、悲しみ、どろどろに溶けた感情に酔って、吐き気を堪えていたはずだ。

 それがどうだろう。ここでは、こんなにも穏やかだ。


 寝転んだままの視界いっぱいに広がるのは、黒い木の枝葉と、その背景にある濃紺の空一面の銀色の星。


 ――何て、美しいんだろう。


 両親の望んだ通り、このまま消えてしまってもいいのかもしれない。弥胡が生まれてからこの十年で学んだ唯一のことは、この世は生き地獄だということだった。

 穏やかに朽ちていけるのならば、いっそ幸せなのではなかろうか。


 そのままじっと横たわって、どれくらい時間が経過しただろう。

 不意に、ガサガサと下生えを掻き分ける音がした。ハッハッという獣の息遣いも聞こえる。餌の匂いを嗅ぎ取って、狼でもやって来たのだろうか、獣じみた仄かな好奇心が頭をもたげる。


(痛いのは、嫌だなあ)

 ぼんやりとそんなことを考えたがしかし、不思議と恐怖は感じなかった。

 生きたまま食いちぎられるなら、いっそこのまま、空気に溶けてしまえたらいいのに。

 手足から、ゆっくりと力が抜ける。指先が段々と透明になって、夜風に混ざるところを想像した。


 すると突然、閉じているはずの瞼の裏に、寝転がっている子供が映し出された。ボロボロの着物を纏って、擦り切れた草鞋を履いている。痩せていて生気がなく、黒い髪はボサボサだった。


(この子は、誰……?)

 不思議に思いながらもその子を観察していると、急に視界が揺れた。


(えっ!? うわわわ、何これ!?)

 生い茂る草を飛び越え、木々を避けて、ものすごい速さで進んでいく。不思議なことに、月のない夜だというのに、周りの障害物がはっきりと把握できる。視界が大きく揺れるので、酔ってしまいそうだった。


 しばらく進むと、遠くに明かりが見えた。まっすぐにそこへ近づいていくと、今にも崩れそうな小屋から、一人の老婆が出てきた。長い白髪は背後で結ってあり、着ている着物は継ぎはぎだらけで、見るからに貧しい生活を送っていそうだった。


 老婆はこちらに気が付くと、腰を屈め、警戒したように目元を険しくする。

「お前さん、何か憑けてきたかい?」


 老婆のしわくちゃの手がゆっくりと近づいてきて、視界を塞がれそうになった瞬間、弥胡は思わず目を開けた。

 身動ぎして辺りを見渡すが、あるのは濃紺の空と黒い草木ばかり。弥胡は先ほどから微塵も動かず、ずっとそこに横たわっていたようだった。


「い、今のは、夢……?」

 ――それにしては、あまりにも鮮明だったような。

 心臓がどくどくと脈打って、呼吸が荒い。頭がガンガンする。


 指一本動かせないまま、そのまま横たわっていると、またしても何かが草を掻き分けて進んでくる音が近づいてきた。

 意識を保っているのがやっとで、それが人なのか獣なのかさえ些事に思えた。しばらくして、近くで枝を踏む音がした。力を振り絞って目を開ける。

 弥胡の寝転んでいる場所から数十歩先に、松明が燃えているのが見えたので、人が来たのだと理解した。

 灯りの主は、しばらくそこで弥胡の様子を伺っていたが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


(獣に食われるのも、野党に襲われるのも、大した差はないよね)

 諦観し、弥胡の傍らに膝をついた灯りの主を見上げて、息を呑んだ。

 それは、先ほどの幻で見た老婆だった。

 弥胡の驚愕を見て、老婆は目を眇めた。


「……さっきのは、お前さんかい?」

「え……?」


 老婆は背後を振り返る。

 そこには、大きな耳の、狼のような獣が座っていた。その体躯は子供が乗れそうなくらい、大きい。


「さっき、宵慈(よいじ)に憑いていたじゃろう?」

「憑く……?」


 家族に、物の怪憑きだと言われていた。しかし、弥胡自身が何かに憑くなど、身に覚えはない。

 老婆はしげしげと弥胡を観察して、溜息を吐いた。


「こんなところで何をしている、と訊くのは酷じゃな。おおかた、口減らしにあったんじゃろう」

 老婆は弥胡の返事を待たずに獣を振り返る。

「宵慈、悪いが、わしらを小屋まで運んでおくれ」

 宵慈は言葉を理解したように頷いた。のっそりと近寄ると、弥胡の襟首を咥えて引き上げる。

「宵慈の背に乗って、しっかり掴まっておれ」


 弥胡は言われた通り、宵慈にしがみつく。首に腕を回すと、少々ごわついた感触がした。老婆は宵慈の体に手を置いた。


「驚くかもしれんが、危害を加えるつもりはない。目を瞑って、気を確かに持て」

 ぶっきらぼうに言って、老婆は火を消した。視界が真っ暗になった瞬間、宵慈の体が地面に沈み込んだ。


(えっ……?)


 声を上げる間もなく、全身が泥に浸かったような感覚がした。数秒後、上に押し上げられるような圧力を感じる。肌に纏わりついていたべったりした感触は一瞬で消え失せた。


「着いたぞ」

 言われてそろそろと目を開けると、目の前には幻で見た老婆の小屋があった。


(ど、どういうこと? わたしがいた場所の周辺に、小屋なんてなかったはず……)


 弥胡の困惑を見て、老婆はフンと鼻を鳴らした。

「宵慈は影と闇に隠形(おんぎょう)して移動できるんじゃ。さあ、お入り」 

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