3-5
――桜香と精気の吸収について初めて修行した日、わたしは何に気付いた?
桜香が神力を使った時、彼女の瞳を見て、三代目の神力使いはこの程度しか瞳が光らないのか、と思ったのだ。
弥胡はダウィルの燃え盛るような双眸を見つめた。身体の奥から小さく震えが広がっていく。
今は力封じの腕輪のせいで吸引できないが、初めてダウィルに会った日、彼から流れてきたものは、一切不快に感じないほどに澄み切った精気だった。
精気について、桜香は何と言っていた――。
『精気は肉体を循環する際に不純物を吸着し、澱むため、他者の精気が体内に入ると拒絶反応が起こり、酷い苦痛を覚えるといいます』
それはつまり、肉体を持たないものの精気は、不純物を含んでいないということだ。
――精霊は精気の塊であり、肉体がない。
――下級精霊は自我を持たないが、力が増して中級や上級精霊になると自我が芽生えることもある。
頭の中で桜香に習ったことが次々と紐づけられ、憶測から確信に至る。
(ということは、ダウィルは……)
――『神』に分類されるほど、強力な精霊。
「弥胡?」
名前を呼ばれて、ハッと我に返る。
自分の中で導き出された答えを受け入れいきれず、弥胡は恐怖に慄いた。目の前の気のいい青年が、急に得体の知れない不気味な生き物に見えた。
ダウィルは悲し気に眉を顰めて弥胡の顔を覗き込んでくる。
「僕、そんなにいけないことをしたの? 僕のこと、嫌いになった?」
しゅんと項垂れる幼子のような態度が、妙に心をざわつかせる。
緊張に、ごくりと唾を呑む。
「そういう、わけじゃない……。あの、ね?」
「うん」
「ダウィルは――」
小刻みだった震えが大きくなる。奥歯がカチカチと音を立てて、言葉を紡ぐのが酷く困難だった。これ以上話したら、ダウィルが牙を剥いて襲い掛かってくるのではないかという、漠然とした不安がこみ上げる。
前回会った時に、自分の正体を暴いてみろと彼は言ったが、どういう意図があるのか、今の時点では推測できない。
ダウィルとは出会ったばかりで、人となりをよく知らない。何故弥胡に構うのか、正体を弥胡に晒してどうしたいのか、分からないことが多すぎる。
(神様なんて、おとぎ話の中にしか出てこない存在でしょ……。絶対面倒ごとに巻き込まれる気がする)
――ならば、彼の目的がはっきりするまで、鈍感な振りをして、知らぬ存ぜぬを通す方が賢いのではないか。
気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をする。
「ううん、何でもない」
「――本当に?」
ダウィルの声が一段低くなった気がしたが、弥胡は血の気が引く顔の筋肉を必死に操って笑顔を取り繕った。
「本当だよ。でも、もう串を食べちゃだめだからね」
彼は従順に頷いた。しばらく表情の抜け落ちた顔で弥胡を見つめていたが、ふと口元を緩めた。
「――お利口だね」
「えっ?」
ダウィルの唇から零れた呟きは小さすぎて夜風にかき消されてしまった。
彼は弥胡の腕を掴むと、強い力で引き寄せた。硬い胸板に顔がぶつかって、ようやく抱きしめられていることに気付く。
(細いと思ったけれど、結構胸板が厚いんだな……)
大量の装飾品と刺繍の入った衣装の上からでも分かる感触に感心したのも束の間、自分の置かれている状況を思い出し、羞恥心に震えた。
「ちょっと、放して!」
背骨が軋みそうなくらいに抱擁が強まる。肺から空気が抜けて「ぐっ」と声が漏れた。
何とか拘束から逃れようと身を捩るが、彼はびくともしない。
(絞め殺す気……!?)
息苦しくて眦に涙が浮かぶ。不意に頭頂部に弾力のあるものが押し付けられた。ややあって、それがダウィルの頬であることに気が付いた。
「え? 何してるの?」
ダウィルは無遠慮に頬をぐりぐりと弥胡の頭に何度も擦りつけてくる。背中に感じる彼の腕の温もりと相まって、痛いくらいに鼓動が跳ねた。
「は、放して!」
上ずった声の弥胡に対して、彼は非常に落ち着いた声で返す。
「ダメだよ。ちゃんと匂いをつけて縄張りを主張しておかないと、変なのが寄って来るからね。犬や猫もやるでしょ?」
「意味が分からない……」
要するに、弥胡が自分のものであるという主張をしたいらしい。誰に対してかはわからないが、彼の主張から察するに、恐らく犬猫に対して。
されるがままになっていると、段々髪がぐちゃぐちゃになってきた。しかも、顎が頭に当たって地味に痛い。
諦観の境地で遠くを見つめていると、満足したのか、ダウィルの腕が緩んだ。ほっと息を吐くと、首に何かが下げられた。胸元がひんやりしたが、すぐに肌の熱に馴染んで違和感がなくなる。
驚いて摘まみ上げると、それは親指の先くらいの大きさの石のようなもので、中央に開いた穴に紐を通してあった。
「これ、何?」
「この前のお礼に、それをあげる」
「この前?」
何か、礼をされるようなことをしただろうか。
「ふふっ。気付いてないならいいんだ」
「……ありが、とう?」
いつのことを指しているのか分からないまま、一応礼を述べると、ダウィルは花がほころぶように微笑んだ。
「いい? 誰かに虐められたら、それを飲み込むんだよ?」
「えっ、これ、食べ物なの?」
ぎょっとして摘まんでいた石を見ると、薄暗いので色はよく見えないが、宝玉のような光沢があることが分かった。ダウィルの双眸の灯りを反射してキラキラしている。
「う~ん、正確には食べ物じゃないけど、身体に害はないから、安心して?」
この大きさの石を飲み込んだら、のどに詰まってしまいそうだ。噛んだら砕けるくらいの強度なのだろうか。
考えながらも頷くと、ダウィル満足そうに笑む。
「そうそう、今日は逢引のお誘いもしたかったんだ。忘れてたよ」
「逢引!?」
逢引とは、お互いに好意を抱いている男女が時間を共に過ごして交流を深めるという、あの逢引のことだろうか。たまに巫女たちが絵物語に出てきた逢引の場面などについて感想を語り合っているのを見かけるので、何となく知っている。
弥胡はじっとダウィルの表情を窺うが、わくわくしているだけのように見える。
(困った。どういう思惑があるのか、さっぱり分からないや)
彼の弥胡に対する態度が恋愛感情からくるものとは考え難い。どういうつもりで逢引などという言葉を選んだのか、真の目的は何なのか、皆目見当がつかない。そもそも、何が面白くて弥胡のような小娘を構っているのかも謎なのだ。
しかし、こちらを害するつもりなら、これまでも十分に機会はあった。こちらは補魂を封じられている天招の巫女で、今の状態では攻撃もできなければ、自衛手段もない。
(誘拐するにしても、わたしを攫ったところで、何の利益もないはずだし)
希少な天招の巫女だろと知っていて何かに利用するつもりだとしても、今の自分は修行中の身で、特段何ができるわけでもない。
ダウィルの表情の変化を観察しながら、恐る恐る口を開く。
「……わたし、ここから出るわけにはいかないんだけど」
「大丈夫! この屋敷内でできる逢引だから。次の満月に僕とお月見しよう?」
「お月見? 別にいいけど、何で月なんて見たいの?」
「都の貴族の間では、満月とか花をみながら宴会をする習慣があるんだって! 面白いでしょう!? 大陸にはない文化だよ!」
「わたしも、そういうのはしたことない」
「じゃあ、決まりね! 次の満月に会いに来るから! 約束ね?」
色々な可能性は考慮してみたが、純粋に弥胡と月を眺めたいだけなのかもしれないと思い至り、頷いた。夕餉後の自由時間にこっそり敷地内で会う程度なら、ダウィルの姿を見られさえしなければ問題ないだろう。
「ふふっ、楽しみだなあ。じゃあ、次に会うまでいい子にしてるんだよ?」
「ダウィルも、食べていいものと、危険なものは見分けてね」
ダウィルはくしゃりと笑った。両目から溢れる光が一層増して、目が痛いほどだ。
「心配してくれるんだね、嬉しいな!」
名残惜しそうに弥胡の頭を数回撫でると、ダウィルは「じゃあね」と踵を返した。彼の動きに呼応するかのように、つむじ風が起こって埃を巻き上げる。
咄嗟に目を瞑って、再び瞼を目を開いた時、ダウィルの姿は既にどこにもなかった。
「本当に、いつも唐突だなぁ……」