2-15
精気の扱いの訓練の続きです。
「――よろしいでしょう。では、次の段階に行きましょうか」
桜香は目を閉じて細く長く息を吐いた。瞼が持ち上がると、既に彼女の双眸は青空のような色の光を宿していた。
だがしかし、ダウィルの目と違い、燃え盛る炎のような強烈さはない。青色の紙を貼った提灯に灯りを入れたようだ。
――三世代目の神力使いでも、この程度の輝き、ということは。
弥胡はごくりと唾を呑む。首の後ろがざわざわする。
(もしかすると、ダウィルは受肉したばかりの神様だったりして。ううん、それどころか……)
――神そのものなのではなかろうか。
自らの考えに、背筋に嫌な汗が流れた。
(まさか、ね……。そんなことあるはずない。 ダメダメ! 今は修行に集中!)
弥胡は軽く頭を振った。桜香と視線を合わせ、目線で合図を送る。
「今度は目を開けたまま、わたくしに視点を定めなさい。そして、わたくしから精気を引き出そうと念じてみてください」
弥胡は言われるがまま、桜香をじっと見つめる。
(力を引き出す、引き出す……ってどうやればいいんだろう)
引く。引っ張る。こちらに引き寄せる。
「引く」とはなんぞや、と忙しなく考えを巡らせていると、ふと、まだ家族と住んでいた頃、兄姉と一緒に浜辺で仕事を手伝っていた時のことを思い出した。
(あの頃は地引網を引っ張るのを手伝ったなぁ。たくさん魚が獲れたっけ。……ん? 地引網……)
弥胡は頭の中で、桜香が地引網の上に座っているのを想像した。自分の手には、しっかりとその網が握られている。砂浜にぐっと足を踏ん張って、力いっぱいこちらへ引き寄せる様を思い浮かべる。
その直後、真冬の海に全身が浸かっているような、痛みすら伴った感覚に襲われる。途方もない量の精気が体外から津波のように押し寄せ、渦を巻いて身体の中心へ引きずり込まれる。あまりの圧に、呼吸をするのもままならない。精気に含まれる桜香の感情や痛み、苦しみさえも、何もかもがぐちゃぐちゃに混ぜられ、一緒くたになって押し流された。
「くっ……」
小さく声を漏らし、桜香が微かに顔を歪めた。
そのまましばらく溺れるようにして精気の濁流を受け続けていると、苦痛が混じった桜香の声が鼓膜を揺らした。
「弥胡っ……! もう、止めてちょうだい……!」
ハッと我に返り、必死に精気の吸引を制御しようとするが、恐慌状態に陥っているのか上手くいかず、一向に精気の波が引かない。
「ど、どうやって、とめ、るの……!?」
「ああっ!」
桜香の額には脂汗が滲み、次第に彼女の細い肩が震えだした。
(どうしよう、このままじゃ、あの人が……! どうしよう、どうしたらいいの!?)
弥胡は必死で深呼吸を繰り返す。ギュッと目を瞑り、掴んでいた地引網を手放す様子を想像する。網は弥胡の手を離れ、砂に塗れた自分の足元へ落ちて……。
胸ではなく、耳に心臓が移動したように、ドグン、ドグンという鼓動しか聞こえない。汗が幾筋も背中を流れていく。桜香を苦しめているという事に対しての恐怖に身体が震えて前かがみになった。
次第に猛威をふるっていた渦も穏やかになり、呼吸も整ってきた。そっと目を開けると、青白い顔で床に伏せている桜香が視界に映った。
「だっ、大丈夫……!?」
弥胡は咄嗟に立ち上がろうとしてその場に頽れた。膝が笑って力が入らない。
桜香は荒い息を繰り返していたが、震える両腕で何とか上体を起こし、焦点の定まらない目を弥胡に向ける。
「なんという、こと、でしょう……」
桜香は顔を歪めながら這うようにして弥胡の元へ来ると、そっと弥胡の左手首の腕輪に触れる。再びあの息苦しさに見舞われ、弥胡はその場にうつ伏せに倒れた。
互いに無言で息を整えることしばし、先に口を開いたのは桜香だった。
「弥胡、あなたは大変力の強い天招の巫女のようですね」
弥胡は眉根を寄せつつ桜香を見上げる。彼女の美しい顔には困惑と憧憬、そして少しの恐怖が混じったような、何とも複雑な表情が浮かんでいる。
「どういう意味?」
桜香は苦笑した。
「末恐ろしい、という意味ですよ」
しばらく休憩し、問題なく歩けるようになると、桜香は懐紙に胡桃を包んだものを弥胡に持たせて自室へ下がらせた。
やっとの思いで自室の畳の上に身を投げ出す。
「つ、疲れた……」
仰向けになって目を閉じると、先ほどの光景が眼裏に浮かぶ。
(あんなにすごい量の精気が入ってくるんだもの、あれには吃驚したな)
ぼんやりと考えて、ふと、閃く。
桜香の精気を吸引しようと意識しただけで、彼女が弱るほど大量に「奪い取る」ことができた、ということは。
――相手に触れていたら、より強力かつ迅速に相手の精気を奪い、弱らせることができるのではないだろうか。
全身が総毛立ち、恐怖とも愉悦ともつかない、ゾクリとした感覚が駆け巡る。
(補魂の強味は神力を使えることだけじゃない。ううん、むしろ、『奪う』ことこそが最大の強味なんじゃ……?)
補魂だけが、他者の精気を吸引し、己の甕へ補填して満たすことができるという。つまり、天招以外の巫女や巫覡は、自分の精気を使って攻撃できる反面、一定量の精気を使ってしまうと、術が発現できず、無防備になる。
一方で、天招は補魂によって相手の精気を奪って動きを封じつつ、自分の甕を満たすことができるのだ。甕の大きさによって無効化できる敵の人数に差はでるだろうが、少なくとも、弥胡は桜香一人は無効化できると証明された。
出逢えるかも分からない神に縋ったり、精気を提供してくれるがいつ寝返るかもわからない神力使いを頼るより、力封じの腕輪がない状態で、円滑に敵の精気を奪う修練を積む方が、よほど現実的だと言える。
――桜香はそれを分かっていて、敢えて弥胡に教えなかったのではないだろうか。
『飼い犬に噛まれちゃ堪んねえってことだろう』
昨日の朝餉で月夜が言った言葉がふと耳に蘇る。
(そういうことか……)
あまり知識を与えすぎると、自分たちに牙を剥く可能性があるから、最小限しか教えない、というのは理解できる。だかしかし、侮られているようで気分のいいものではない。
少しずつ、自分が何なのか、何ができるのか、そして、自分の知らなかったこの世のことを知れてきた気がする。
――それなら、わたしは、可能な限り自分の目で観て、自分の頭で考えて、自分にとって有利な未来を切りひらいていこう。