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2-12

「あなた、本当に、馬鹿じゃないの!?」


 三明(みあけ)は懐紙で鼻を押さえながらも、腹の底から絞りだすように声を張り上げた。鼻血を拭う手が震えていて、彼女の恐怖を雄弁に物語っている。


「……巻き込んで、ごめん」

 先ほど扇を突き付けられたせいで、喉を痛めたのか、声が出にくい。掠れて酷く聞き辛いのが自分でも分かった。


「ごめん、じゃないわよ!」

 数歩後ろを歩く弥胡(やこ)をキッと睨みつける。怒りと悔しさの滲んだ双眸は濡れていて、涙がそばかすだらけの頬を濡らしていた。弥胡は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


(はなぶさ)様は、中級貴族のお嬢様なの。ご自身も鬼鎮の上位巫女で、神力も強いの! 上位の方々は力封じの腕輪の着用も免除されているのだから、怒らせると本当に、命がなくなるわよ!」


 正直、弥胡には身分とか、地位とかいうものがよく理解できない。

 幼少期に接していたのは、自分の家族や近所の貧しい漁師やその家族だったし、ある程度大きくなってからは臥せりがちになり、家から出してもらえないうえに、自分の家族とさえまともな交流ができなかった。十歳で九重(くのえ)に拾われてからも、狭い世界で生きていたのは変わらない。


 どうして「目上」の者に言い返してはいけないのか。何故「地位の高い」者の機嫌を損ねないように気を遣い、恭順の意を示さなくてはならないのか。そして、立場の違いが何を意味し、実際にどんな影響を与えるのか、全く理解していなかったし、想像すらできなかったのだ。

 桜香(おうか)が弥胡の言葉を矯正するのは、師範としての義務もあるのだろうが、それ以上に弥胡のことを慮ってのことだったのだろう。

 ――それは、分かるのだが。


「だって、あんなの、悔しいじゃないか」

 言い訳がましい弥胡に、三明は青筋を立てて声を一層荒げる。

「お馬鹿! 悔しくても、黙って耐えるしかないの! 貴族にとって、わたしたち平民なんて、塵芥(ちりあくた)と変わらないのよ!? 気に入らないっていうだけで殺されても、文句も言えないの!!」


「……わたしだって、好きでこんな所にいるんじゃない」

「甘えるんじゃないわよ」

 俯きがちに反論すると、三明は地を這うような低い声で呟いた。


 弥胡はハッとして顔を上げた。首が痛んだが、気にしていられない。

 今までとは全く違う、冷静な瞳でひたと見据えられ、弥胡の肩が小さく跳ねた。


「あなたの意思なんて関係ないって、まだ理解できないの? あなたは所詮、赤ん坊みたいに駄々をこねて逃げてるだけじゃない! ここにいるっていう現実を受け入れなさい!! 自分の立場を理解して、自分に不利にならない言動をなさいよ! 桜香様は寛容だから叱られるだけで済んでいたけれど、他の方はそうはいかないわ。平民(あなた)を殴った英様には何のお咎めもないけれど、もし英様に殴り返していたら、あなたはその場で殺されても『楯突いた平民が悪いのだから、仕方がない』で済まされるのよ!?」


 ――理不尽に塗れている。しかし、それが現実なのだろう。


 弥胡一人が不公平だと抗議したところで、所詮は平民の小娘の戯言で片付けられ、現状は何も変わらない。ぐうの音も出ない正論だ。

 三明の言う通り、不貞腐れて反抗的な態度を取り続けても、自分の置かれた状況を変えるどころか、悪化させてしまうだろう。


 いつかここを出てやるという目標は変わらない。しかし、そこに至るまでに、そつない態度で臨むか、頑なな態度を貫き敵を作り続けるか、どちらが自分のためになるか、少し考えれば分かったはずなのに。


 ――意固地になって、三明を巻き込んだあげくに怪我までさせた。


 三明が弥胡の指導役であるということは、弥胡の言動に対して、彼女も責任を負わされるということだ。それが何を意味し、どんなことが起こるのか先ほどの一件でやっと分かった。


(三明はわたしより年下なのに、迷惑をかけちゃった)

 震えながらも弥胡を守ろうとしてくれた。それが申し訳なくもあり、嬉しくもある。


「――本当に、巻き込んじゃってごめん。庇ってくれてありがとう、三明」

 頭を下げると、三明は頬を赤くして、つんと顔を背けた。

「べ、別にあなたを庇ったんじゃないんだからっ! あなたが無礼を働くと、わたしの責任になるんだからねっ!」

 三明はフンと鼻を鳴らして歩き出した。


「ほらっ、早く医局へ行くわよ!」

 弥胡は苦笑して後に続いた。



 医局へ行くと、弥胡は喉と頬に軟膏を塗ってもらえた。頬も喉も腫れが引いたら青あざになってしまうだろうとのことだった。喉は内部まで痛めているようで、しばらく声が出にくくなってしまうらしい。

 三明の鼻は幸い、骨に異常はないようだ。すぐに出血も収まり、たんこぶに軟膏を塗ってもらって治療は終了した。


 医局を出ると、そのまま湯殿へ向かった。手早く湯浴みを済ませ、夕餉をかき込むと自室で自由時間となる。

 三明は弥胡を部屋まで送ると、寝巻を着用して寝るよう、何度も念を押してから自室へ去った。


 部屋の畳に寝転がると、やっと人心地ついた。慌ただしい一日がやっと終わったのだ。

 昨日は部屋の戸に閂をかけられていたが、今後は閉じ込められなくなるようだ。とはいえ、個人部屋から回廊へ出るまでには衛兵の立っている扉を通らないといけないし、敷地内は常に衛兵が巡回し、門と物見やぐらにも衛兵がいる。夜陰に乗じて逃げるのは困難だろう。


 そう考え、ふと、苦いものが胸をよぎる。

(もし、わたしが逃げたら、三明は罰を受けることになるんだろうか)

 

 もしかすると、指導役というのは、弥胡が考えている以上の役割を持たされているのかもしれない。

 教育係という役割、そして――。


(脱走とか反乱を抑制するための、人質……)

 三明の身を危険に晒しても構わないと思えるほど、弥胡は人でなしではないつもりだ。

 

 (もしかして、わたし、本当にここで一生過ごす羽目になるのかな)


 ぼんやりと天井を見つめていると、余計に痛みが増す気がする。頬と喉が脈打つように熱く痛んで、顔を顰める。雪のように降り積もる不安を追い払うために、他のことに思考を向けた。


(それにしても、波乱が多い一日だったな……)


 座学と称して色々なことを知ることができた。やはり、知識は重要だ。思いがけず九重や宵慈の正体についても知ることができたのは嬉しかった。


 あまりにもすぐダウィルに再会したのは驚いたが、美味しいものをもらえたのは、正直に嬉しかった。


 英のことは思いだすだけで腸が煮えくり返りそうだが、せっかくの自由時間をあんな女のことを考えて過ごすのは癪に障る。


 ふと、頭上から音がして、弥胡は窓を振り仰ぐ。

 部屋の窓は人が通れないくらい小さい。しかし、そこから何やらふさふさしたものが部屋の中に入ってくるのが見えた。

「えっ?」

 ドキリと鼓動が跳ねた。

 ――宵慈(よいじ)……?


 音もなく着地したそれは、宵慈より大分小さな毛の塊だ。じっと見つめて初めて、それが淡い黄色の毛の猫だと分かった。

 がっくりと肩を落とす。

「何だ、猫か……」


 手招きすると、猫はいそいそと弥胡の方へ寄ってきた。近くで見ると、とても綺麗な猫であることがわかる。大きな緑色の目に、ふっくらとした髭袋で、金色に見える髭がかわいらしい。


 随分人に慣れているようで、弥胡の膝の上にどっかりと座り、上目遣いで見てくる様は「撫でて?」と言っているように見える。

 思わず頬をほころばせると、途端に激痛が走る。

「いっ……!」


 身体を強張らせた弥胡を見て、猫は首を傾げた。心配するように小さく鳴く。

「ふふ、ごめん、驚かせたね。ちょっと嫌な女にやられて」

 ふわふわとした耳の後ろを掻いてやる。猫はうっとりと目を細めた。その様子が、酷く宵慈を思い出させる。


 じわりと視界が歪み、涙が零れた。猫の額に雫がかかり、彼は驚いたように目を見開いた。

「……宵慈」

 ――どうして、ここにあの子はいないのだろう。

 寂しさと虚しさが胸中に広がって、後から後から涙が溢れて、畳に染みをつくった。

 猫は小さな前足で弥胡の手に触れる。まるで、慰めてくれているようだ。ぎりぎりと心に食い込んでいた悲しみが、少しだけ緩んだ気がした。


 猫を抱き上げ、柔らかな腹毛に顔を埋める。思い切り息を吸い込むと、意外にも森林のような匂いがした。恥ずかしがるように身を捩って暴れたので、弥胡はそっと放してやった。


「お前、どこから来たの? どこかの上位巫女にでも飼われているのかな」

 弥胡は午前中に桜香からもらった干し果実をひとつ差し出した。

「いる? 猫はこんなもの、食べないのかな?」


 彼はすんすんと果物の匂いを嗅ぐと、それを咥えて立ち上がった。おもむろに戸の前まで行くと、「出してくれ」と言うように引っ掻く。


「えっ? そこから出ていくの? 大丈夫かな」


 弥胡が戸を開けてやると、猫は悠々と廊下を歩き、下位巫女の宿舎棟の出入口の扉まで進む。何となく放っておけず、弥胡は彼について歩き、扉を開けてやった。


「何だ、何処に行く? (かわや)か?」

 扉の向こうに立っていた衛兵が訝し気に弥胡を睨む。


 弥胡はてちてちと歩く猫を指さした。

「どこかから迷い込んできて」

 衛兵は、ああと声を上げた。

「お前、また来ていたのか。よしよし」

 言いながら、衛兵は嬉しそうに猫の頭を撫でる。猫は小さく尻尾を振ると、回廊を歩き出した。

「あいつ、たまに見かけるんだよ。色々な人たちから餌をもらっているみたいでな」

「そうなんだ?」

 衛兵はくしゃりと破顔した。

「俺も、猫が好きでな。たまに煮干しを懐に忍ばせておくんだが、そういう時に限って会わないんだよなあ」

 本当に猫が好きなのだろう。無骨に見えるこの男がかわいらしく思えるから、不思議なものだ。


 弥胡は部屋へ戻ると燈台の灯を消して畳に寝転んだ。

(本当に気ままな猫だったなあ。何か、ダウィルに似ているような……)

 またあの猫に来て欲しいような、宵慈を思い出すのが辛いので、来てほしくないような、複雑な心境だった。

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